第57回:枯れゆくブナの山、檜洞丸(その6)(矢貫隆)
2004.12.03 クルマで登山第57回:枯れゆくブナの山、檜洞丸(その6)(矢貫隆)
■幻想的な風景、そして
「雨、すごかったねぇ。俺なんか靴のなかで足が泳いでるよ」
登り始めて2時間ほどした頃、あと30分も登れば頂上というあたりでひとりの下山者にあった。初老のその男性は単独行で僕たちとは別ルートで早朝から登り始め、ものすごい雨に降られたのだと言った。
「いや、僕らはたいして降られませんでしたよ。小雨程度で……」
初老の下山者とA君のそんな会話を聞きながら、僕は帰りのゴーラ沢がすこし心配になってきた。頂上あたりでずいぶん降ったとなると、もしかしたら僕たちが渡ってきた沢は今頃は増水しているのではないだろうか---と。結果としては、それは杞憂に終わったのだけれど。
しかし、それにしても、この山はまるで展望がない。全山がブナに覆われていて、しかも標高が1600mしかないものだから森林限界はなく、どこまで登っても周囲の景色は見えてはこなかった。だが、逆に考えれば、歩いている間はずっとブナの森のなかにいられるという意味でもあるわけだから“ブナファン”としては垂涎だとも言える。
木道が設置されている場所まで到達した。それは要するに頂上が近いということだ。足を踏み外さないように、僕は足もとに注意しながら慎重に進んだ。そして、フッ、と前を見てビックリした。相手もビックリしていたが、とにかくビックリした。
野生の鹿が僕のほんの5mほど先で食事中だったのだ。僕は足もとに気を取られ、鹿は食事に夢中だったらしく、お互いに接近するまで相手に気づかなかったのだ。
「うわ〜ッ、びっくりしたなァ」
そう言ったのは鹿の方だった。
急な登り勾配が終わり、わずかに勾配のある木道を歩く僕たちの周囲には、鮮やかに黄色いヤマバダケブキが咲き乱れている。周囲はブナの森。そして、その美しい風景を霧が包み込んでいて、それはもう、想像していたとおりの幻想的な風景だった。
「何とも言えないきれいな景色ですね」
珍しくA君が的確な感想を述べた。そして続けた。
「これですね、矢貫さんが言っていたブナの枯死というのは……」
マルバダケブキに彩られたブナの森のあちこちに、まるで冬山のそれのように朽ち果てたブナの木が点在している。
あるものは落雷の直撃を受けたように幹の途中で折れ、別のあるものは冬枯れた木の枝のように、まったく葉をつけていない。
美しい森のなかに点在するそれらは、すべて大気汚染によって死滅したブナたちだった。(つづく)
(文=矢貫隆/2004年12月)

矢貫 隆
1951年生まれ。長距離トラック運転手、タクシードライバーなど、多数の職業を経て、ノンフィクションライターに。現在『CAR GRAPHIC』誌で「矢貫 隆のニッポンジドウシャ奇譚」を連載中。『自殺―生き残りの証言』(文春文庫)、『刑場に消ゆ』(文藝春秋)、『タクシー運転手が教える秘密の京都』(文藝春秋)など、著書多数。
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