第166回:春のドライブは幸福の詰まったT型フォードで
『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』
2018.03.02
読んでますカー、観てますカー
不遇な女性画家の物語
『しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス』を観て、1969年の映画『ピロスマニ』を思い出した。グルジアの画家ニコ・ピロスマナシヴィリの生涯を描いた作品である。放浪しながら絵を描いていた彼は画壇とは縁がなかったが、未来派の詩人に見いだされて注目されるようになる。しかし、素朴でプリミティブな画風は保守的な人々からは非難され、貧困のうちに死を迎えた。彼は居酒屋で飲み代として絵を描いたので、作品の多くは人知れず納屋に眠っていた。
この映画で描かれるモード・ルイスも、死後に高い評価を得た画家である。彼女が生まれたのは1903年。大西洋に突き出したカナダ最東部の半島ノバスコシアで生まれ育った。『赤毛のアン』で有名なプリンスエドワード島のすぐ南に位置する。関節性リウマチを患い、歩行が困難で手もうまく動かなかった。学校ではいじめに遭ったので家で過ごすことが多く、母の手ほどきでピアノを弾きクリスマスカードを作った。両親が亡くなると、頼りの兄は家を売って独立する。
映画は、行き場所のなくなった彼女が雑貨店の壁にハウスメイド募集の張り紙を見つけたところから始まる。求人の主はエベレット。町の外にある小さな一軒家に暮らし、魚の行商と孤児院の雑用で生計を立てている。貧しい暮らしで、人を雇う余裕があるようには見えない。半ば押しかけるようにして、モードはハウスメイドとして働き始める。
同じ風景の中で時代を映すのは自動車だけ
モードを演じるのは、サリー・ホーキンス。同時期に公開される『シェイプ・オブ・ウォーター』でも主演している。この映画にはクルマがあまり登場しないのでこの連載では扱えなかったのだが、今年ベストワンクラスの傑作だ。半魚人との悲恋物語で、彼女は聴覚障害のある掃除婦役である。ラブストーリーのヒロインなのに、ありきたりの美女でないことが重要だったのだ。
この映画では、意図的に疲れて老け込んだ役作りをしている。子供向けの熊映画ではそこそこきれいに装っていたが、リアリティーを重視すれば安っぽい美化はアダとなる。エベレットは、イーサン・ホーク。チャラいモテ男を演じることもあるが、この作品では無口で朴訥(ぼくとつ)なキャラクターを作り込んでいる。
ルイスの小屋にはガスも電気も水道もない。間取りは、1階がダイニングキッチンで2階が寝室。ただし、どちらも極端に狭い。はしごのように急な階段を上った先にはベッドが1つだけ。夜になれば2人は並んで寝ることになるから、雇い主と使用人の関係でいるのは難しい。
小屋での生活は、時が止まったようだ。夏になれば草が生え、冬になれば雪にとざされる。季節が回れば風景が変わるが、毎年同じことの繰り返しだ。乗り物だけは、変化が見える。最初の頃は、自動車と馬車の混合交通だった。モードがエベレットと暮らし始めたのは1938年。カナダの辺境では、まだ自動車が主力とはなっていなかったようだ。しばらくすると馬車は見られなくなり、後のほうでは「フォルクスワーゲン・バス」や「フォード・ギャラクシー」が登場する。
エベレットもクルマを所有していた。「T型フォード」のトラック版である。1908年に販売が始まったT型は1927年に生産終了しているが、この時期でも仕事用なら十分な戦力となったのだろう。アメリカではごく最近まで実用で乗られていた例もあるという。1500万7033台も作られたクルマだから、簡単にはなくならない。
1枚5ドルで絵が売れるように
モードは自ら鶏をシメてスープを作ったりもするが、体の自由が利かないから上手に家事をこなしているとはいえない。夫に部屋をきれいにしろと言われた時、彼女は緑色のペンキの入った缶を見つけた。筆を取り出し、壁に花や鳥の絵を描き始める。きれいにしろというのはもちろん掃除をしろという意味だが、彼女はきれいに飾り立てることだと解釈したのだ。
エベレットは頭ごなしにしかりつけることはせず、描いてはいけない場所を指定しただけだった。モードの絵心はとどまることを知らず、棚やゴミ箱、階段の裏、そしてガラス窓までをキャンバスにしてしまう。エベレットの魚売りで使う受取状の裏にも絵を描いた。避暑のためにニューヨークから来ていたサンドラ(カリ・マチェット)が、この絵の魅力に気づく。きれいなクリーム色のクーペに乗っている裕福な彼女は、都会でさまざまなアートに触れていたから鑑賞眼があった。
小さな絵では物足りないと思ったサンドラは、少し大きめの板に描かれた絵を欲しがった。モードは5ドルなら売ると答える。ポストカードは25セントで販売していたから、彼女にしては思い切った高値をつけたつもりだ。サンドラにとってはタダ同然であり、交渉は成立する。
評判は少しずつ広まり、絵を買いたいという人が現れるようになる。小屋の外には「Paintings for Sale」という看板がかけられた。カナダだけでなく、アメリカからもクルマに乗って客がやってくる。モードは絵に専念し、いつしか家事はエベレットの担当に。週刊誌やテレビでも報道され、当時のニクソン副大統領からも注文を受けた。
モードが描いた世界一素敵なクルマ
有名にはなったものの、生活は変わらなかった。2人はずっと小さな小屋に住み続け、電気もガスもない暮らしを続けた。病人にとっていい環境とはいえず、モードの関節炎は悪化していく。肺炎も患い、彼女は1970年にこの世を去った。壁やガラス窓に隙間なく絵が描かれた小屋は、それ自体が作品としてノバスコシアのアートギャラリーで保存展示されている。
昨年行われたオークションで、モードの描いた漁師の絵は12万5000ドル以上の高値がついた。生きているうちに正当に評価されていたなら、貧しさからは抜け出せただろう。きちんとした治療を受けて長生きできていたかもしれないと思うと心惜しいが、彼女の人生が苦痛に満ちていたと考えるのは間違いだ。
モードは生涯ノバスコシアから出たことはなく、描いたテーマは窓から見える風景や花、動物、鳥、チョウなどに限られている。その中で異彩を放っているのが『Sunday Ride』と名付けられた一枚だ。映画にも登場するT型フォードが描かれている。赤いシャツと帽子でキメた男性がハンドルを握り、助手席には明るいピンクの服を着た女性。道の脇にはチューリップが咲き乱れている。スカーフは風になびき、春風の中でドライブを楽しんでいるようだ。
もちろん、これはモード自身とエベレットがモデルなのだ。映画に出てくるT型もサビだらけだったが、実際に彼らが持っていた個体もかなりヤレていたに違いない。それでも、モードには世界一素敵(すてき)なクルマに見えていたのだ。この絵から感じ取れるのは、彼女が心の中に抱いていた純粋な幸福のイデアである。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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