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第106回:流浪のミニカーを持って、名デザイナー・フィオラヴァンティ氏を訪ねる!

2009.08.29 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ
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第106回:流浪のミニカーを持って、名デザイナー・フィオラヴァンティ氏を訪ねる!

マッチボックス

13年前のことである。イタリアに住むことを決めたボクは、持ち物の整理を決意した。家財道具はリサイクルショップに引き取ってもらったが、それでも留学資金が足りない。そこで子供時代から貯めてきたクルマのカタログを手放すことにした。「初代トヨタ・センチュリー」「マツダ・ロードペーサー」「シトロエン2CVの最終モデル」といった珍品カタログも、涙をのんで放出した。

次に手放すことにしたのはミニカーだった。幼稚園時代に遊んだ英国製の「マッチボックス」である。
マッチボックスについて説明すると、1970年代前半まで日本における輸入ミニカーの代表的存在だった。当時デパートのおもちゃ売り場には必ず、トミカとともにマッチボックスのショーケースが備えられていたものだ。

最盛期には、テレビコマーシャルまで流れていたのを覚えている。「ボクらのクルマだ、お友達〜世界のクルマを集めよう!」という歌詞だった気がする。「世界のクルマ」というところは、国産車中心のトミカとの差異を強調したかったのだろう。

幼稚園時代から持っていた、マッチボックスのオリジナルケース。
幼稚園時代から持っていた、マッチボックスのオリジナルケース。 拡大
裏には、当時モーターショーでもらったテレビ「スパイ大作戦」のステッカーが。
裏には、当時モーターショーでもらったテレビ「スパイ大作戦」のステッカーが。 拡大

外箱がないと……

懐かしのマッチボックス放出を決めたボクは、当時勤務していた雑誌編集部に、子供時代収納していたオリジナルのキャリングケースごと持って行った。ミニカーに詳しいスタッフに“査定”してもらうためだ。
すると、「ああ惜しいねえ、外箱が残ってると、値段が付くんだけどなあ」
との答え。
なんでもとっておく癖のあるボクだから捨てた覚えはないのだが、すいぶん長いこと外箱を見ていない。残念ながら、二束三文決定である。

横で聞いていた上司が書きかけの原稿用紙から顔を上げ、「大矢君の思い出として、とっておいたほうがいいですよ」と慰めの声をかけてくれたが、それなりの値段になればという期待のあったボクとしては、何とも空しく聞こえたものだ。

仕方がないので退職の日、ボクはキャリングケースを提げて、8年間勤めた会社を後にした。そして結局、出発準備のドタバタで処分できず、ついにボクは、その48台入りケースをイタリアまで持ってきてしまった。流浪のミニカーである。

48台が収容できるようになっている。
48台が収容できるようになっている。 拡大

当時の「気合」を再認識

イタリアに住んでからは、マッチボックスはずっとベッドの下にしまってあった。しかしある日、大掃除をしたとき、あらためて“コレクション”を1台1台見直してみた。

まずはランボルギーニの「マルツァル」。実車は1967年ジュネーブショー出品作である。当時のマッチボックスは、こうしたショーカーを次々とミニカー化することに相当気合を入れていたようである。
その証拠に、幻のマツダ製コンセプトカー「RX500」もあった。実車のデビューは1970年の東京モーターショーだ。当時の東京ショーなど、まだ国際ショーにはほど遠かったというのに。

さらによく見ると、ピニンファリーナが1967年トリノショーで発表した「BMC1800」もあるではないか。のちにデイトナをはじめ数々の名作フェラーリをデザインし、ピニンファリーナから独立後も意欲作を発表し続けているレオナルド・フィオラヴァンティの処女作である。
考えてみれば、例の専用キャリングケースの絵も、BMC1800が前述のマルツァルを追う図だった。2台のコンセプトカーがサーキットを激走する、という妙なシチュエーションだが、逆に月並みなモデルでないところが良い。これは持参するしかない、と思った。誰にかって? 「御本人」にである。
大掃除を放棄してダラダラとミニカーを眺めていたボクの尻を、女房が箒(ほうき)で容赦なく叩く。ボクは慌ててBMC1800だけを取り出し、脇によけた。

「ランボルギーニ・マルツァル」(左)と、「マツダRX500」(右)。
「ランボルギーニ・マルツァル」(左)と、「マツダRX500」(右)。 拡大
「ロータス・ヨーロッパ」とホンダのロゴ入りトレーラー。
「ロータス・ヨーロッパ」とホンダのロゴ入りトレーラー。 拡大

スタイリスト御本人に見てもらう

かくしてボクは後日、ジュネーブショー会場でフィオラヴァンティ社のスタンドを訪れた。さっそくレオナルド・フィオラヴァンティ氏にBMC1800のマッチボックスを見せると、本人はご存知なかったようで、
「これはピニンファリーナ入社前、学生時代にデザインしたものです」
と懐かしそうに語り始めた。

1938年生まれのフィオラヴァンティ氏は、工科大学在籍時代、空気力学の研究に没頭していた。卒業すると、以前からコンタクトのあったピニンファリーナに入社した。同社での初仕事は、素晴らしいものだった。
氏が学生時代にデザインした空力的乗用車が、ほぼそのままの形でコンセプトカーとして製作されることになったのだ。これこそが「BMC1800」だったのである。

フィオラヴァンティ氏のBMC1800は、翌1968年に発表されたひとまわり小型の「BLMC1100」とともに、1970年代自動車デザインに大きな影響を与えた。「シトロエンGS(1970年)」や「シトロエンCX(1974年)」も、このBMC/BLMCコンセプトカーの影響を受けているというのが、ピニンファリーナ社の見解である。

ちなみにシトロエンGSといえば、別の機会にフィオラヴァンティ氏から聞いた、当時の逸話がある。
舞台は、ジュネーブのインターコンチネンタルホテルだ。そこではモーターショーに合わせて、シトロエンがパーティー会場を設営していた。その玄関前でフィオラヴァンティは、ベルボーイにちょいとチップを握らせて、自らデザインした前述のコンセプトカーを堂々と置いたのだ。無言の逆襲だった。

とっておいて良かった

ところでボクが驚いたのは、フィオラヴァンティ氏に「今回はかさばるので持って来られなかったんですけど」と恐縮しながら、例のキャリングケースの写真を見せたときだ。フィオラヴァンティ氏はミニカー同様大変喜んだかと思うと、「この写真、頂いていいですか?」とボクに聞くではないか。その嬉しげな表情は、デザイナーを通り越して真にクルマを愛する人の顔だった。

イタリアに来る前はいっときも早く手放そうと思ったミニカーが、かように著名スタイリストとの橋渡し役になるとは。とっておいて良かった。

(文と写真=大矢アキオ、Akio Lorenzo OYA)

ジュネーブショーの会場でフィオラヴァンティ氏に「BMC1800」を見せる。(2008年3月)
ジュネーブショーの会場でフィオラヴァンティ氏に「BMC1800」を見せる。(2008年3月) 拡大
ここはひとつミーハーになり、サインをお願いする。
ここはひとつミーハーになり、サインをお願いする。 拡大

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サイン入りになったマッチボックス製「BMC1800」。
サイン入りになったマッチボックス製「BMC1800」。 拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。

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