「ホンダコレクションホール 走行確認テスト」から
2012.07.13 画像・写真2012年7月11日、栃木県茂木町にある「ツインリンクもてぎ」の南コースで、「ホンダコレクションホール 走行確認テスト」が実施された。「ツインリンクもてぎ」内にある「ホンダコレクションホール」は、ホンダ製品を中心とする二輪、四輪、汎用製品など約350台を展示したミュージアムである。その特徴は原則として収蔵車両を動態保存、すなわち動かせる状態で保存していることで、バックヤードには専用のワークショップがあり、専任スタッフが常時整備やレストアに従事している。そこで仕上げられた車両を走らせてチェックするのが「走行確認テスト」。1998年のオープン以来、レーシングマシンを中心に年に数回のペースで行われてきたが、今回は第二期ホンダF1の全盛期だった1980年代後半のF1マシンである「ウィリアムズ・ホンダFW11」「マクラーレン・ホンダMP4/4」「同MP4/5」および「ホンダS800」の4台の四輪と、11台の二輪のテスト走行が実施された。梅雨時ながらまずまずの天気に恵まれたが、最高気温30度超の暑さのなかで行われたテストから、四輪の走行シーンを中心に紹介しよう。(文と写真=沼田 亨)

今回は事前にホンダのホームページなどでテスト実施が告知されたため、平日にもかかわらず大勢(数百名?)のファンが来場。昼休みにはピットウォークのようにコース内が開放された。
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今回は事前にホンダのホームページなどでテスト実施が告知されたため、平日にもかかわらず大勢(数百名?)のファンが来場。昼休みにはピットウォークのようにコース内が開放された。
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ボディーカウルが外され、カーボンモノコックシャシーがあらわになった「マクラーレン・ホンダMP4/4」(手前)と「同MP4/5」(奥)。
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「マクラーレン・ホンダMP4/4」に乗り込み、ポジションを確認する宮城光氏。かつてホンダの契約ライダーとして全日本選手権や全米選手権でチャンピオンを獲得し、四輪でもシビックを駆ってスーパー耐久シリーズの王座に輝いた。現在はMoto GPのテレビ解説を務めるほか、数年前から走行確認テストの“ドライダー”を担当している。
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1968年の鈴鹿12時間耐久レースで、3リッターV8をミドシップしたプロトタイプスポーツの「トヨタ7」2台に次ぐ総合3位、GT-1クラスで優勝した「ホンダS800」。当時、ホンダの国内モータースポーツを統括していた「RSC」(レーシング・サービス・クラブ、後にレーシング・サービス・センターに改称、現在のHRCの前身)でチューンを施されたマシンで、ドライバーは永松邦臣/木倉義文だった。
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低くフラットなハードトップは「RSC」が開発したもので、以来プライベーターも含めたレーシング仕様がこぞって使用していた。
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エンジンは791ccから872.8ccにまで拡大され、4連CRキャブレターの装着などにより最高出力はノーマルの70psから100ps以上まで高められていたといわれる。
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F1マシンのテストは、1986年のF1チャンピオンマシンである「ウィリアムズ・ホンダFW11」から。「レッドファイブ」と呼ばれた赤字のナンバー5は、ナイジェル・マンセルの愛機の証しである。写真は走行開始を前に、タイヤの空気圧などを再度チェックしているところ。
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「ウィリアムズ・ホンダFW11」は1986年の全16戦中9勝を挙げ、ホンダに初のF1コンストラクターズタイトルをもたらした。ドライバーズタイトルは「FW11」に乗るネルソン・ピケとナイジェル・マンセル、「マクラーレンTAGポルシェ」を駆るアラン・プロストの三つどもえの戦いで、最終戦オーストラリアGPまでもつれこんだ。第15戦メキシコGP終了時点では5勝を稼いだマンセルがもっとも有利で、最終戦で3位以上に入れば初の戴冠だったが、その3位を走行中にタイヤがバーストしてリタイア、優勝したプロストに2ポイント差でタイトルをさらわれた。
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「ウィリアムズ・ホンダFW11」。近年のF1マシンに比べると、ドライバーの着座位置がかなり前寄りだ。
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「ウィリアムズ・ホンダFW11」は、当時世界最強の呼び声が高かった1.5リッター80度V6ツインターボエンジン「RA166E」を搭載。過給圧の制限がなかったので、最高出力は1000ps以上、予選セッティングでは1500psを発生するといわれた。
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「マクラーレン・ホンダMP4/4」。1988年、アラン・プロストとアイルトン・セナのジョイントナンバー1体制で、全16戦中15ポールポジション、15勝という圧倒的な強さを発揮し、コンストラクターズ、ドライバーズ両タイトルを獲得したマシン。15勝の内訳はプロスト7勝、セナ8勝で、獲得総ポイント数はプロストのほうが多かった。しかし当時は全16戦中11戦のベストポイントで争う有効ポイント制だったため、セナのほうが上回り、第15戦日本GPで初のドライバーズタイトルを決めた。
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翌1989年からはレギュレーションで3.5リッターNA(自然吸気)エンジンのみとなったため、「マクラーレン・ホンダMP4/4」は、ホンダ最後のV6ターボ搭載車となった。この日走ったほかの2台のF1と比べ、これだけライドハイト(地上高)が高くセッティングされている。
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砂煙を上げながら走行する「マクラーレン・ホンダMP4/4」。
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1.5リッター・ターボユニットの過給圧は、1987年には4バール、そしてターボ最終年度となった88年には2.5バールに制限された。さらに燃料タンク容量も前年までの195リッターから150リッターに縮小され、ターボが不利になるよう仕向けられたが、低燃費ターボ技術を持つホンダ・パワーがかえって際立つ結果となった。「マクラーレン・ホンダMP4/4」の積む80度V6ツインターボエンジン「RA168E」は、最高出力685psという。
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走行した4台のコクピット。上左が「ホンダS800」、上右が「ウィリアムズ・ホンダFW11」、下左が「マクラーレン・ホンダMP4/4」、下右が「マクラーレン・ホンダMP4/5」。「ウィリアムズ・ホンダFW11」のタコメーターがまだアナログ式だったのが、意外な気がした。
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レギュレーション変更に合わせて、NA3.5リッターV10エンジンを積んだ1989年シーズン用の「マクラーレン・ホンダMP4/5」。ドライバーは前年と同じくプロストとセナのコンビで、全16戦中プロスト4勝、セナ6勝の計10勝を挙げたが、獲得ポイントでプロストが上回り、彼自身3度目となるドライバーズタイトルを獲得。コンストラクターズタイトルも2年連続で勝ち取ったが、シーズン途中に始まった2人の確執が修復不可能な状態となり、翌90年にプロストはフェラーリに移籍する。
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「マクラーレン・ホンダMP4/5」。車体は前作「MP4/4」をベースにしているが、よりスリムでシャープな印象である。
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低く、くぐもったようなターボサウンドとは異なり、NAの高回転型エンジンならではのハイトーンを響かせて走行する「マクラーレン・ホンダMP4/5」。
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「マクラーレン・ホンダMP4/5」は、「RA109E」と呼ばれる NAの3.5リッター72度V10エンジンを搭載。最高出力650ps以上といわれる。
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4台の四輪のほか、1960年代から90年代までの11台の二輪もテスト走行を行った。気温30度以上、路面温度40度以上というコンディションのなか、宮城氏はひとりでこれらすべてを取っ換え引っ換え乗るのだから、大変な仕事である。