クラシックカーイベント「スプレンドーレ東京」
2012.03.28 画像・写真2012年3月25日、東京都品川区東八潮にある「船の科学館」駐車場をスタート地点として、クラシックカーのタイムラリー「スプレンドーレ東京」が開かれた。「スプレンドーレ」は、群馬県渋川市伊香保町にある「伊香保おもちゃと人形自動車博物館」が数年前から開催しているクラシックカーイベントで、今年度はこの「スプレンドーレ東京」を皮切りに、11月に12日間かけて日本一周する「スプレンドーレ・ジャパン」まで、6つのイベントが予定されている。今回が初開催となる「スプレンドーレ東京」の参加資格は、1975年までに生産された国内外の車両で、1928年「ベントレー・スピード6」から1975年「ポルシェ911」までの約90台が参加。絶好のイベント日和のもと、船の科学館をスタートして南房総に向かい、再び東京ベイエリアに戻ってくる全行程約200kmのドライブを楽しんだ。スタート地点周辺から、印象的だった参加車両および光景を紹介しよう。(文と写真=沼田 亨)

スタート地点である「船の科学館」駐車場に集まった、およそ90台の参加車両。
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スタート地点である「船の科学館」駐車場に集まった、およそ90台の参加車両。
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1965年から67年までに約50台しか作られなかったという「デ・トマゾ・バレルンガ」が、2台並んだ貴重なショット。「バレルンガ」は、アルゼンチン出身のレーシングドライバーだった故アレッサンドロ・デ・トマゾが作った市販スポーツカー第1作で、鋼管バックボーンフレームに英国フォード製の直4OHV1.5リッターをミドシップ。FRP製ボディーの全高は1mちょっとしかなく、成り立ちはほとんどレーシングスポーツに近い。
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室内にはロールケージを組み込み、Sタイヤを履いた1972年「ポルシェ911S」。やる気モード全開で、いささか場違いな感がしないでもないと思っていたところ、現れたドライバーを見て半分驚き、半分納得。車イス生活のハンディキャップをものともせず、2010、11年とゴルフGTIカップのゴルフ5クラスを2連覇しているチームNATS(日本自動車大学校)所属のレーシングドライバー、勅使河原隆弘さんがゲスト参加していたのだ。このナローの「911S」は、クラッチ操作を電子制御化したMT仕様で、アクセルとブレーキは汎用(はんよう)の運転補助装置を用いて手で操作している。右はこの日のコドライバーを務めた塩入達郎さん。
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昨年、コラボレーションシングル「そんなこと言わないで」をリリースしたタレントの堺正章さん(写真右)と『クレイジーケンバンド』の横山剣さんも参加していた。堺さんは本国の復刻版ミッレミリア参戦歴もあるヒストリックイベントの常連だが、剣さんも小学生の頃から『CAR GRAPHIC』や『AUTO SPORTS』を読み、富士スピードウェイまでレース観戦に通っていたという根っからのカー・クレイジー。ヒゲを生やし始めたのも、彼のアイドルだった北野元(1960〜70年代初頭の日産ワークスで高橋国光と並ぶエース格)に倣ってのことだという。
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午前8時30分、6.5リッター直6エンジンを搭載した1928年「ベントレー・スピード6」を先頭に、1台ずつスタート。
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1948年「エルミニ」。「フィアット1100」のメカニカルコンポーネンツを流用したイタリア産の小型レーシングスポーツ。有名どころでは「チシタリア」や「スタンゲリーニ」など、俗に「虫」と呼ばれるたぐいの仲間だが、中でもこれはけっこうな珍種と見た。
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堺正章さんは1948年「マセラティA6GCS」をドライブ。125psを発生する直6DOHC2リッターエンジンを積んだ、マセラティとしては初の戦後型レーシングスポーツ。戦前のグランプリカーを2座席にしてサイクルフェンダーを付けた程度のワイルドな成り立ちで、本来の姿はヘッドライトがグリルに埋め込まれた1灯のみの「一つ目小僧」だった。
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横山剣さんの愛機は1956年「オースチン・ヒーレー 100/4」。車名から「ハンドレッド」、あるいは通称「カニ目」ことライトウェイトの「オースチン・ヒーレー・スプライト」に対して「ビッグ・ヒーレー」とも呼ばれるモデル。直4OHV2.7リッターエンジンを積んだ、豪快でタフな男のスポーツカーである。
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1953年「ジャガーXK120」。性能の割には安価なことで北米でヒットし、スポーツカーメイクとしてのジャガーの名を確立したモデルで、直6DOHC3.4リッターエンジンを搭載。この個体は巻き上げ式サイドウィンドウに耐候性に優れたソフトトップを持つ「ドロップヘッドクーペ」だが、ほかに基本となるスパルタンなオープンの「ロードスター」と「フィクスドヘッドクーペ」もあった。
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ダブルバブルのルーフが特徴的なザガート・ボディーの「ランチア・フラミニア・スポルト」を先頭に、「アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・スプリント・スペチアーレ」、「アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・スプリント・ヴェローチェ」と、ロッソ(赤)に塗られたくしくも同じ1959年式のイタリアンスポーツ3台が続く。
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1964年「アルファ・ロメオ・ジュリア・スプリント・スペチアーレ」。早くから空力に着目していた鬼才フランコ・スカリオーネがスタイリングを手がけた「ジュリエッタ・スプリント・スペチアーレ」の1.3リッターエンジンを1.6リッターに換装したモデル。通称「SS」こと「スプリント・スペチアーレ」で白いボディーは珍しいと思うが、これはこれで魅力的だ。
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まぶしいほど鮮やかなイエローに塗られた1971年「ディーノ246GT」。「フィアット・ディーノ」や「ランチア・ストラトス」にも積まれたV6DOHC2.4リッターをミドシップ、コンパクトながら抑揚の利いたスタイリングとハンドリングのよさで、一向に人気の衰えないモデルである。ドライバーの左手は、沿道でカメラを構えていた筆者に向かって差し出されたもの。
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エントリーリストでは#53は1960年「フィアット・アバルト850SS レコルトモンツァ」となっていたが、実際に走っていたのはシュノーケル型のエアインテークがカッチョイイ「フィアット・アバルトOT1300(?)」だった。(?)の理由は、同じボディーに1.3リッターのほかに1.6ないし2リッター(いずれも直4DOHC)を積んだ仕様も存在するから。本来はロードカーではなく、66〜68年にイタリアのスポーツカー選手権(1300cc以下)を3連覇したレーシングスポーツである。
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1965年「メルセデス・ベンツ220SEbクーペ」。いわゆるハネベンのクーペだが、もっとも仕上げが丁寧だったといわれる初期の「220」で、しかも新車当時からの「品川3」のシングルナンバー付き。内外装ともにほぼフルオリジナルで、すばらしいコンディションだった。ちなみに新車価格は、セダンの「220SEb」の335万円に対して475万円。2.6リッターV8エンジン搭載の国産最高級車である「クラウン・エイト」(165万円)の3台分に近い高価格車だったのだ。
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1964年「フォルクスワーゲン・カルマンギア・コンバーチブル」。バンパーにオーバーライダーの付いた北米仕様である。オープン日和に恵まれ、クルマも(おそらく)快調となれば、ドライバーもノリノリ。後ろを走るのは、ミケロッティの手になる独特の寄り目スタイルを持つ1965年「トライアンフTR4」。
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1959年「アウトウニオン1000」。フロントグリルに付けられたフォーリングスが示すように、「アウトウニオン」は「アウディ」の前身となるブランド。戦前は大型高級車やグランプリカーまで作っていたが、戦後は2ストロークエンジンを積んだFF小型車である「DKW」から再出発した。「1000」は1リッターの2ストローク3気筒エンジンを搭載、この個体は60年代にトヨタや日産も一部車種に採用していたザックス社製の自動クラッチ「サキソマット」を備えた2ペダルMT仕様である。
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1972年「ポルシェ911S」。操るのは先に紹介したハンディキャップレーシングドライバーの勅使河原隆弘さんで、筆者に向ってカメラ目線で余裕のサムアップ。
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旧車イベントでは珍しい1965年「ボルボP1800S」。通称「アマゾン」ことセダンの「120シリーズ」をベースに、イタリアのフルアがデザインしたボルボ初のスポーツクーペ。60年に登場した初期モデルの「P1800」はイギリスでボディーを製作、架装していたが、品質面の問題から63年に自社生産に移行し、スウェーデンを意味する「S」を加えた「P1800S」に車名を改めた。車体中央を走るストライプは、もちろんスウェーデン国旗にちなんだものだ。
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1967年「トヨタ2000GT」。当時トヨタが持てる力を結集して作り上げた日本初の本格的なグランツーリスモで、直6DOHCエンジン、5MT、4輪ダブルウィッシュボーンのサスペンション、4輪ディスクブレーキ、マグネシウムホイール、ラジアルタイヤ、リトラクタブルライトといった高度なメカニズムや高級な装備を満載(5MTを除いてはすべて国産初採用)していた。この個体は「品川5」のシングルナンバーが付いた初期型で、長年にわたって眠っていた個体をフルレストアして復活させたという。
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1970年「ダットサン・フェアレディ2000」。愛好家の間では「SR311」の型式名で呼ばれる初代「フェアレディ」の最終発展型。62年にデビューした当初の「フェアレディ1500」(SP310)のエンジンは、シングルキャブ仕様のOHV1.5リッターで71psしかなかった。それから5年後の67年に登場したSR311では、ツインチョーク・ソレックスを2連装したSOHC2リッターで、最高出力は145psとオリジナルの2倍以上。15.4秒という0-400m加速のカタログデータは、後継モデルとなる初代「フェアレディZ」の「Z432」や「240Z-G」より速く、長年にわたって日本車のタイトルホルダーだった。