ポルシェとフォルクスワーゲン、経営統合でこれからどうなる!?(前編)
2007.04.27 自動車ニュースポルシェとフォルクスワーゲン、経営統合でこれからどうなる!?(前編)
ポルシェとフォルクスワーゲンは、2007年6月に持ち株会社を設立し、両社の経営を一体化すると伝えられる。
その意図するところは何なのか? どういう経緯があったのか? そもそも、ドイツ本国ではどう受けとめられているのか? 現地からリポートする。
■切っても切れない、VWとポルシェ
フォルクスワーゲンの歴史はポルシェの力を借りて始まり、のちに、ポルシェの歴史はフォルクスワーゲンの資金で大きく展開した。
1946年にスタートしたフォルクスワーゲンの量産車「タイプ1」こと「ビートル」の設計者は、ご存知の通りオーストリア出身のフェルディナント・ポルシェ博士。ダイムラーベンツなどを経て、1930年に南ドイツのシュトゥットガルトに設計事務所を開いた。
当時のナチス政府から、1000帝国マルク(1941年当時のレートで約600円)をきるクルマ、すなわち、フォルクスワーゲン(国民車)の設計を依頼される。その設計事務所こそ、いまのポルシェ社の前身。本社は、現在もシュトゥットガルトにある(写真)。
戦後に発足した国営企業のフォルクスワーゲン社は、ポルシェ設計事務所との開発委託契約を取りやめ、ポルシェ氏にライセンス料を支払い、オーストリアにおけるフォルクスワーゲンの単独輸入権を与えた。
ポルシェ家は、これにより潤った財産でポルシェ社をスポーツカーメーカーへと発展させ、1948年にロードスターの「356」を発売する。設計者はフェルディナント・ポルシェの息子、フェリー。フォルクスワーゲン・ビートルの技術が使われた。
■国営企業フォルクスワーゲン
いっぽうのフォルクスワーゲンは、北ドイツのニーダーザクセン州ヴォルフスブルク市に本拠地をおく。
当時のノルトホフ社長の戦略で、長年にわたりビートル生産の一本道を走ったが、70年代にビートルの販売台数が減少し、経営危機におちいった。商品ライフサイクルマネージメントを行わなかったことが原因といわれる。経済学の教科書にのる、悪い例の典型だ。
結局、1965年に既に買収していたアウトウニオン社(現アウディ)の技術を活かした、近代的なクルマ「ゴルフ」を1974年に発売し、難を逃れた。
前述の通り、1960年に「フォルクスワーゲン有限会社民営化法」により民営化されるまで、フォルクスワーゲン社は国営企業だった。この法律によってフォルクスワーゲン社は、元筆頭株主であるニーダーザクセン州の影響力保持などを理由に、「ひとつの株主はいくら株を持っても、議決権は最大20%に制限される」、という特殊な条件つきの株式会社になった。
敵対的な買収が多くなった現代でも、この条件があるおかげでフォルクスワーゲン社は買収される危機から守られてきたのだ。
しかし、2004年になると、この法律が問題になった。
自由経済をめざすEUは、ドイツ連邦共和国にフォルクスワーゲン法の変更を要求。裁判の結果、2007年内にフォルクスワーゲン法は崩れる見通しになった。実現すれば、同社が初めて自由経済の風を感じる瞬間になるだろう。
(中編につづく)
(文=廣川あゆみ/写真=廣川あゆみ/ポルシェ/フォルクスワーゲン)
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