第492回:生産終了から7年
今もプロに愛される「フィアット・ムルティプラ」
2017.03.10
マッキナ あらモーダ!
やってきた「少数派」モデル
クルマ持たざる者、来るべからず――。デトロイトしかり、愛知県豊田市しかり、自動車産業を擁する都市には、多かれ少なかれそうした雰囲気があふれている。公共交通機関が極端に乏しいのだ。
そうした街で仕方なく歩くことによって、肌で感じることもある。デトロイトは、ちょっとダウンタウンを外れただけで途端にスラム化すること。トヨタの社員用立体駐車場は、社員販売で購入した新車が多いとみえて、建物全体が新車の香りを発していること、などだ。
しかし、やはりクルマのない旅行者にとって、そうした街は不便である。「イタリアのモータウン」トリノもしかりだ。
先日、郊外のあるカロッツェリアに赴いたときも、駅からはタクシーが拾えたが、帰りが困った。少しでも節約すべく、目の前に停留所がある路線バスを使おうとしたが、切符を入手できない。イタリアでは社内で券を売らないバスが頻繁にある。そこで最寄りの券売所があるか、入り口の守衛さんに聞けば、700mくらい先のタバッキ(タバコ店)という。
ただでさえ本数の少ない郊外の路線バス。買いに行っている間に通過してしまうことは大いにあり得る。ましてや午後の2時。昼休みで閉まっていたらアウトだ。
仕方がないので、守衛さんにタクシーを呼んでもらうことにした。トリノのポルタ・ヌオーヴァ駅までは、会社と地元タクシー組合の間で協定料金があって30ユーロ(約3600円)という。頼むと、守衛さんは無線タクシーのセンターに電話をかけてくれた。
15分くらい待っていただろうか。タクシーがやってきた。「フィアット・ムルティプラ」(2代目)だ。2010年の生産終了から、すでに7年。もはやイタリアのタクシー界では少数派である。
「前席3人乗り」が醸し出すムード
ボクが後席に乗り込むと、ムルティプラは早速走りだした。着座位置が高いので見晴らしがいい。低いサイドウィンドウのラインも、開放感に貢献している。このクルマがデビューして間もなく、トリノのフィアット広報からクルマを借りて、スイスまで旅をしたときの感動を思い出した。
早速、ドライバーに「ムルティプラですね」と声をかけてみた。イタリアではボクがクルマの名前を挙げても、ドライバーからの「そうだよ」という素っ気ない返事だけで会話が途切れてしまうことが少なくない。しかし、フラヴィオさんという彼は、「このクルマ、最高だよ」とルームミラーを通してうれしそうに答えた。「ドライバーの位置からも見晴らしが良い。1.9リッターマルチジェットディーゼルは、フィアットのエンジンらしくよく回る。メンテナンス費用も手ごろだから助かるよ」と理由を説明する。そして「なにより、前に3人並んで乗れるのがいいんだよ」と、ある体験談を披露してくれた。
「ある日『ミラノ・マルペンサ空港行きバスの発着所までお願い』という夫婦を乗せたときのことさ。彼らは巨大な荷物を何個も持っていたんだよ」。ムルティプラのラゲッジスペースは決して広くない。だが後席を倒すと、その高い室内高ゆえ、普通のクルマ以上に難なく荷物を飲み込んでしまったという。「そして前3人乗車で走り始めると、間もなく夫妻は『こりゃ快適だ。バスに乗り換えるのに荷積み・荷下ろしするのも大変だし、バスターミナルじゃなくて、このまま空港へ行ってよ』と言ってくれて、180km先の空港まで直行したんだよ」。
ムルティプラに一度でも乗った人ならわかるのだが、前列に3人並んで乗るとお互いの間に独特の連帯感が生まれる。その夫妻が、フラヴィオさんに空港直行を頼んだ気持ちがよくわかる。
次のクルマが見当たらない
フラヴィオさんのプロドライバー歴は23年。最初はフォード、次がオペル。そのあとフィアットの「ティーポ」(旧型)に乗った。そこで即座にフィアットファンになったかと思いきや、そうではなかった。「そのティーポは、電装系が弱くて、まったく世話が焼けたよ」と、憎々しげに振り返る。
やがて、1998年に登場した、ムルティプラの特異なコンセプトに興味を抱いて購入すると、今度は「当たり」だった。前述のような理由でその虜(とりこ)となり、30万kmを走ったところで、今乗っている後期型に替えた。
目下の悩みは、それほどムルティプラにほれ込んでしまったがために、後継車が見当たらないことだ。彼が以前乗せたフィアットのエンジニアから聞いたところによると、「ムルティプラが生産終了したのは、前席中央のエアバッグの問題」だったという。もちろん、助手席側エアバッグは中央席もカバーする若干大きなものだ。しかし、年々強化される安全基準に追いつけず、準拠するためには改造コストが莫大(ばくだい)になるため、あえて生産終了の道を選んだという。加えて筆者が察するに、ムルティプラのフレームは同車専用で、他車と互換性がない。冷徹な財務マンであるセルジオ・マルキオンネ社長が、理解に苦しんだことは容易に想像できる。
フラヴィオさんは語る。「あえて次を選ぶなら、燃費や品質の点で『トヨタ・プリウス プラス(日本名:プリウスα)だね』。そのうえでこう続けた。「でもミラノやローマと違って、ここピエモンテは州の財源が枯渇して、エコカー営業車対象の奨励金がないんだ」。プリウス プラスの価格は約3万ユーロ。決して安くない。リタイアまであと約7年のフラヴィオさんゆえ、今後数年の投資対効果に敏感にならざるを得ないのだろう。
フラヴィオさんの後期型ムルティプラのオドメーターは、すでに最初のムルティプラ同様、30万kmを刻んだ。
これから年々ドライバーと会話の糸口になるようなモデルが少なくなり、降りて1時間もしたら車名も記憶していないようなタクシーばかりになるのか。そう思うと、少々悲しくなってきた筆者である。
(文と写真=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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