不撓不屈のレジェンド
〜追悼 ニキ・ラウダ〜
2019.05.24
デイリーコラム
フェラーリを復活させた男
とうとう、あのニキ・ラウダも鬼籍に入ってしまった。
ラウダを語る上で避けて通れない、ニュルブルクリンクでの大事故が起きたのは1976年。大やけどと有毒ガスを吸い込んだことによる肺の損傷で死の寸前まで追いやられながら奇跡的に生還。2レースを欠場したのみで驚異のカムバックを果たしたばかりか、4位入賞という結果までもたらしたエピソードはあまりにも有名だが、彼のレーシングドライバーとしてのキャリア、いや人生そのものが、劇的な再起の連続だった。
だから昨年、肺の移植手術を受け、肺炎や腎機能低下、インフルエンザとの戦いが伝えられても、また力強く立ち直ってパドックに姿をあらわしてくれるだろう──ラウダを知る多くがそう信じていたはずである。それゆえに、5月20日に流れた彼の訃報は、世界に驚きと深い悲しみを与えた。
ここでは、3度チャンピオンに輝いた偉大なるドライバーであり、また近年はチーム首脳としてF1に関わり続けた、ラウダの足跡を振り返ってみたい。
アンドレアス・ニコラウス・“ニキ”・ラウダは、1949年ウィーンに生まれた。資産家の子息として恵まれた環境で育った彼の興味はいつしか自動車へと向かい、若くしてレースシーンに身を投じることに。親の猛反対を振り切りモータースポーツに没頭していく彼は、家の資産をあてにできず、参戦資金も自ら工面しながらステップアップしなければならなかった。
1971年、22歳のラウダは、型落ちのマーチを駆り地元オーストリアでF1デビューを飾るも、戦闘力のないマシンに加えて厳しい台所事情もあり、しばらくは際立った戦績を残せなかった。彼の非凡な才能が開花したのは1974年、不調にあえいでいたフェラーリに移籍してからのことだった。
初タイトル、大一番での棄権、そしてチーム離脱
1973年には1勝もできずコンストラクターズランキング6位に沈んでいたスクーデリア・フェラーリ。総帥エンツォ・フェラーリは、下位でも奮闘するラウダに白羽の矢を立てた。さらにフィアットからやってきたルカ・ディ・モンテゼーモロをリーダーに、名デザイナーだったマウロ・フォルギエリにマシン開発を担当させ、チーム復興を任せた。2000年代になりフェラーリ黄金期を築いたミハエル・シューマッハーやジャン・トッド、ロリー・バーンらによる“ドリームチーム”に通ずる、優勝請負人たちが集められたのだ。
1974年は、スペインGPでの自身初優勝を含め2勝、最多9つのポールポジションを獲得するも、シーズン終盤にリタイアが続きランキングは4位。これが翌年になると、フォルギエリの傑作「312T」をドライブしたラウダが、八面六臂(ろっぴ)の大活躍を見せることになる。この年も9回のポールを記録、年間勝利数は5回を数え、その他レースでも着実にポイントを稼いだこともあり、ラウダにとって最初の、そしてフェラーリにとっては1964年以来となるタイトルを獲得したのだった。
最古参チームを復活に導いたラウダの勢いは1976年も止まらず、第9戦イギリスGPまでで5勝、2位2回、3位1回とチャンピオンシップを席巻。だが第10戦ドイツGPであの大事故に見舞われてからは、シーズンを通して丁々発止とやり合っていたジェームズ・ハントの猛追にあう。奇跡のカムバックの末に迎えた最終戦は、タイトルがかかった大一番、富士スピードウェイでのF1世界選手権イン・ジャパン。しかしラウダは、大雨であまりに危険だとして2周して棄権する英断を下し、わずか1点差でハントに栄冠を奪われてしまった。
1977年シーズンは、3回の勝利を含め計10回もポディウムにのぼり、2度目のタイトルを獲得。だが前年の棄権も影響してか、フェラーリとの関係はギクシャクしたものになり、翌年にブラバムへ移籍することを決めると、2戦を残して途中でチームを去ってしまった。
タイトルよりも命を優先できる勇気、またドライバーとして絶頂期を迎えていた時期であってもチームを離脱する決断力。御大エンツォを前にしても臆せずに自らの意志を貫き通した、ラウダらしい姿勢があらわれたフェラーリ時代だった。
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引退から復帰、激闘の末に勝ち取った3度目の栄冠
ブラバムでは再びマシンに恵まれず、1979年を最後に引退を表明。この時期に自ら立ち上げた「ラウダ航空」の経営に専念することになるのだが、程なくして、実業家として活動を始めた元チャンピオンの肩をたたく男があらわれた。1980年代に入り、マルボロの支援を受けマクラーレンの再建に取り組んでいたロン・デニスだ。
デニスからのラブコール(とマルボロのマネー)に背中を押されたラウダは、1982年に再びF1のコックピットに収まることになる。とはいえ、ラジアルタイヤやターボエンジンの台頭など、70年代と80年代ではF1を取り巻く様相は激変を遂げており、30代半ばに差し掛かった元王者とて、やすやすと活躍できる状況ではなかった。2006年で一度引退したシューマッハーは、ラウダと同じように2010年にGP復帰を果たしたものの、結局1勝も飾れなかった。引退を撤回してから再び勝つということは、チャンピオン経験者にしても決して簡単ではないのだ。
ラウダは、その簡単ではない仕事を見事にやってのけた。チームメイトに6歳年下のアラン・プロストを迎えた1984年シーズンは、まだ血気盛んだったプロストを相手に、歴史に残る名勝負を繰り広げた。予選では圧倒的にプロストが速く、16戦して15回ラウダを負かすほどだったが、決勝になると巧みな戦いでラウダも勝利を重ね、プロストの7勝に対しラウダ5勝と健闘した。
チャンピオン争いで両者一歩も譲らず迎えた最終戦ポルトガルGPでは、プロストが予選2位から独走して優勝。ラウダはといえば、11番グリッドから何と2位まで挽回してゴールし、自身3度目の栄冠を手にしてしまった。2人のポイント差はたったの0.5点。F1史上最小得点差記録として今も残る、まさに世紀の接戦だった。
“プロフェッサー”の師匠として
僅差で惜しくも敗れたプロストは、翌年に悲願の初タイトルを決め、1993年に引退するまでに4冠を達成することになる。計算し尽くされたクレバーで緻密なレース運び、ミスのない堅実な走り、予選で1番ではなくても決勝で真っ先にチェッカードフラッグを受ければいいとする戦略──そんなプロストのしたたかな戦い方に、ひとは彼を“プロフェッサー(教授)”と呼ぶようになったが、そもそも名手プロストの強さの根源には、激闘を通じてラウダから教わった思想が息づいていた。コンピューターのような明晰(めいせき)な頭脳の持ち主であったラウダは、“プロフェッサーの師匠”だったのだ。
さしものラウダも、次の年にはプロストを止めることができなかった。1985年シーズンを最後に2度目の引退を表明。F1出場171戦で残した戦績は、ワールドチャンピオン3回、レースに勝つこと25回、ポールポジション24回、表彰台は54回を数えた。記録も立派だが、ラウダをレジェンドたらしめるのは、たとえ死のふちに追いやられても、若手の攻勢にあおうとも、怯(ひる)まずにわが道を進み頂点に立とうとする、不撓(ふとう)不屈の精神だった。
次世代のメンターとして
引退後のラウダは、航空機産業に従事する傍ら、F1チームの首脳を歴任。古巣フェラーリではアドバイザーを、現レッドブルの前身であるジャガーではチーム代表を務めた。また2012年にはメルセデスの非常勤会長に就任。2014年からのシルバーアロー黄金期の立役者の1人として、またチームの中核となるルイス・ハミルトンのメルセデス入りを後押しした人物として、大きな功績を残した。
亡くなるまで40年以上にわたりF1に関わり続けたラウダ。彼がF1を離れなかったというよりも、「F1が彼を離さなかった」といった方が正しいのかもしれない。元チャンピオンというネームバリューはもちろんあっただろうが、F1が彼を求め続けた一番の理由は、「彼が正直な人間だったから」ではないだろうか。
現役時代から、ラウダは歯に衣(きぬ)着せぬ発言をするドライバーとして知られていた。傍若無人ということではなく、自分が信じることを曲げずに言い続け、そして実行に移すことのできる人間だった。取り繕うことはしない、極めてストレートな男だった。だからこそ、多くのドライバーやチーム関係者、ジャーナリストからも信頼を得ていた。
ハミルトンとニコ・ロズベルグが激しいライバル心を燃やし、メルセデス内の雰囲気が悪化する時にも、ラウダは双方のドライバーと良好な関係を持ち続けることができた。ハミルトンやロズベルグのみならず、メルセデスのトト・ウォルフ代表も、ドイツのダイムラー本社の役員たちも、そしてライバルチームのドライバーやスタッフも、良きメンターであったラウダを慕っていた。何かと世知辛いF1の世界にあって、これほど信頼でき、心のよりどころになる人物は、いなかったのではないだろうか。
ニキ・ラウダ。享年70歳。不撓不屈のレジェンドよ、安らかに。
(文=柄谷悠人/写真=フェラーリ、メルセデス・ベンツ、フォルクスワーゲン、BMW/編集=櫻井健一)

柄谷 悠人
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