今年で発表50周年! 元祖スーパーカー「ランボルギーニ・カウンタック」の足跡をたどる
2021.03.29 デイリーコラム“スーパーカー”というジャンルを確立した立役者
「ランボルギーニ・カウンタック」なくしてスーパーカーなどというカテゴリーは存在し得なかったのではないか。50周年を迎えた今、ふとそんなことを考える。例えば現在のスーパーカーラインナップ(スーパーカーの定義はさておいて)に「ランボルギーニ・アヴェンタドール」の存在をなかったものとしたとき、その品ぞろえはなんとも味気ないものになるのではないか。人はその集合を果たしてスーパーカーと呼んだだろうか。クルマを超えたクルマだ、と?
少なくとも日本におけるスーパーカーブームは、カウンタックによって一世一代のムーブメントとなった。それだけはない。ブームに熱狂したこの時代の子供たちは長じるに及んで日本のクルマ社会をありとあらゆる場面で支える存在となった。ブームの恩恵、ことに自動車産業におけるそれは、甚大である。そして、カウンタックこそ、その核心。
そう考えるとファンでなくともカウンタックの偉大さがよく理解できることだろう。とはいえこのクルマが現代の多くのモデルとは違って、緻密な計画とマーケティングの結果として生まれたものではないことは確かだ。さまざまな偶然によってそのとき生み出された、いや、生み出されなければならなかったクルマ。それゆえ、この形を最初に見た人は“おったまげた!”のではなかったか。車名の由来は皆さん、よくご存じの通り。
発表に至る経緯と発売までの紆余曲折
「ミウラ」の後継となるフラッグシップモデルの開発が始まった頃、ランボルギーニの創始者フェルッチョはすでにカービジネスへの情熱を失っていたといわれている。トラクターの何倍も高く売れたが、何倍もの労力とアフターサービスが必要だった。フェルッチョのやる気はうせていた。けれども社内にはフェルッチョがかき集めたタレントがまだ残っていた。パオロ・スタンツァーニはその最たる存在で、事実上フェルッチョの代わりとして、テストドライバーのボブ・ウォレスとともに開発部隊を指揮していたという。
そんなスタンツァーニが信頼を寄せたデザイナーが社外にいた。ベルトーネの奇才、マルチェロ・ガンディーニ。彼らは夏休みの宿題さながらにコンビで数々の名牛を生み出す。その最高傑作こそカウンタックである。
1971年に、まずは「LP500」としてプロトタイプ1号車がデビュー。今年2021年がカウンタックの50周年といわれるゆえんだ。もっとも市販モデルの生産までに、プロトタイプ2号車の開発を挟んで4年の歳月を要した。1号車から2号車へ至る間にボディー骨格の根本的な変更(モノコック+サブフレームからスペースフレームへ)が入ったこと、そして会社の財政状況が急速に悪化していたことが理由だった。
1974年になってようやく市販モデルの「LP400」がデビューする。プロトタイプ1号車とは多くの点で異なっており、2号車からもいくつかの点で変更を受けていた。机上から路上へ、そこに多くの試練が潜んでいることは現代でも変わらない。
「LP400」から「25thアニバーサリー」へ
後に“オリジナルカウンタック”と呼ばれるLP400は1978年まで生産されたが、その台数はわずかに150台である。ランボルギーニ社の窮状を容易に想像できる数字であろう。筆者も長らく所有していたが、後のイメージで語られるほど乗りづらい代物ではなく、むしろ同時代の「フェラーリ・ベルリネッタボクサー」(同時に所有していた)よりもはるかに運転しやすく、走りも楽しめるハンドリングのいいスポーツカーだった。少々アンダーパワーではあったけれど……。
1978年に登場したマイナーチェンジ版の「LP400S」には、とある人物の要望がかなり取り入れられている。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで知られた男、F1チームも買収したカナダの石油王、ウォルター・ウルフである。ウルフはLP400の性能に満足できず、レース界でのツテでジャンパオロ・ダラーラにその改良を依頼した。ダラーラは創業期のランボルギーニを支えたエンジニアの一人である。F1界でも影響力を持つウルフの頼みとあっては、ランボルギーニも断るわけにはいかなかった。ウルフはランボルギーニ社そのものを買う(救済する)可能性すらあったのだ。そうして完成したエクスペリメンタルモデルがLP400ベースの“ウルフカウンタック”であった。
LP400Sには“ウルフカウンタック”で得た知見が注ぎこまれていた。エンジンこそ同じ3.93リッターV12 DOHCにとどまったが、エアロパーツで武装し、ワイドな偏平タイヤを履いたモダンでレーシーなウルフ好みのスタイルへと進化する。LP400Sは237台がつくられたが、途中で室内高を広げたハイボディー仕様へと切り替えられている。
1982年には4.75リッターエンジンを積む「LP5000S」へ発展、323台が生産された。さらに85年には4バルブ化した5.17リッターの「クアトロバルボーレ」が誕生、人気を博して632台をデリバリーする。今なお、カウンタック乗りの間で最も人気のあるモデルだ。
そして1988年、ランボルギーニ社の25周年を祝うかたちで「25thアニバーサリー」が登場すると、好景気にも恵まれてシリーズ最多となる657台を製造した。アニバーサリーへのリデザインはご存じ、オラチオ・パガーニの手になるものだ。
メーカーの危機が育んだ強固なブランドイメージ
1974年から1990年まで、実に16年にもわたって生産されたカウンタック。需要があったからというよりも、ランボルギーニ社に新たなモデルを開発する余裕がなく、仕方なくマイナーチェンジを繰り返していただけである。何しろ会社自体はLP500が発表された71年から90年までの間に、4度のオーナーチェンジと1度の倒産を経験しているのだ。
けれども逆にそのことが、ランボルギーニ=カウンタック=シザースドアのV12ミドシップ、という鮮烈なイメージをブランドに植え付けることとなった。キャビンから後方へと順にトランスミッション→エンジン→デフと並ぶ奇想天外なレイアウトをもって、この奇抜なスタイリングが生まれ、必然的にドアは跳ね上がって開いたのだ。後継となった「ディアブロ」「ムルシエラゴ」、そしてアヴェンタドールもそのレイアウトを踏襲する。アヴェンタドールもまたカウンタックなのである。
以上がカウンタックこそ唯一無二のスーパーカーだと筆者が断言するゆえんだ。カウンタックのカタチこそランボルギーニのイメージを体現する。たとえそれが創始者フェルッチョの目指した“GTスポーツカーのロールス・ロイス”では決してなかったとしても……。
(文=西川 淳/写真=ランボルギーニ/編集=堀田剛資)

西川 淳
永遠のスーパーカー少年を自負する、京都在住の自動車ライター。精密機械工学部出身で、産業から経済、歴史、文化、工学まで俯瞰(ふかん)して自動車を眺めることを理想とする。得意なジャンルは、高額車やスポーツカー、輸入車、クラシックカーといった趣味の領域。