第596回:「パニーニ」から「峠の釜めし」まで
大矢アキオの忘れられない“旅の味覚”
2019.03.15
マッキナ あらモーダ!
進めるも地獄、やめるも地獄?
2019年2月、イタリアの連立政権は最大の危機に直面した。発端は北部トリノと、フランス第2の都市リヨンを結ぶ高速鉄道「TAV」に関する議論である。
建設調査開始が2001年にまでさかのぼるこのプロジェクトはアルプス山脈を含んでおり、区間のほとんどがトンネルとなる。全トンネルの合計距離は162kmだ。
問題の議論は、ルートの要となる伊仏国境にまたがる57kmのトンネルである。その工事を続けるか中止するかというところが焦点だ。
連立政権の一翼を担う「同盟」は、建設作業員の雇用維持や開通後の経済効果を理由に工事続行を主張。「中止すれば、欧州圏内でイタリアの辺境化が進む」と訴えた。
もう一方の政党である「五つ星運動」は、プロジェクト全体で200億ユーロ(約2兆5000億円)の予算を要するとされる工事を「無駄かつ環境破壊である」と糾弾。2018年6月の連立政権発足以前からの公約として工事中止を求めてきたのだ。
費用対効果の再検証を模索しているうちに、欧州連合(EU)からも抗議の声が上がった。トリノ‐リヨンTAV計画は、イタリア25%、フランス35%、EU40%の共同出資で、すでにフランス、EUからも多額の建設資金が拠出されている。工事を中止すると、EU向けだけでも12億ユーロ(約1500億円)の賠償金を払わなければならないという試算も浮上。進めるも地獄、やめるも地獄、という状態になってしまった。
トリノ‐リヨン間は、在来線だと速い列車でも4時間近くを要する。自動車でも距離はおよそ310km。約3時間30分の旅だ。一方、TAVが開通すれば、所要時間は1時間20分とされている。
結果としては2019年3月9日、イタリアのコンテ首相は事業を統括するフランスとイタリアの合弁会社に、当該工事の実務者を決める入札を延期することを通知。今後6カ月をかけて状況を探ることになった。要は半年間先送りにしただけであり、問題の再燃は避けられない。
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市電が坂を登れない!
以上は北部トリノの話題だが、中部トスカーナ州在住の筆者にとって、もっと身近な鉄道のトピックがある。フィレンツェ市街と空港を結ぶ市電が、大統領臨席のもと、2019年2月11日に開通したのだ。
名称はT2号線で、12駅間を22分で結ぶ。運行間隔は昼間が約4分に1本、早朝・深夜も9分から15分間隔だ。
このフィレンツェの空港行き市電、着工は2011年だ。運行距離はわずか5.3kmなのに、8年もの工期を要したのには理由がある。途中、予算の枯渇によって業者への未払いが生じ、数回にわたって開通が延期されたのだ。
さらには今回の開通直前に試験走行をしたところ、満員だと区間中の上り坂を登れないことが判明。参考までに、この登坂能力問題は開通後も発生し、乗客全員を下ろす事態が報告されている。
帰宅はつらいよ
ところで、この市電T2号線が開通する前、フィレンツェ空港と市街とを結ぶバスが存在した(2019年3月現在も運行中)。
ただし、運行間隔は30分に1本。20時台以降は1時間に1本となる。乗り逃すと1時間近く待たなければならないという不条理に筆者は泣いていた。しかも最終バスは23時台だ。飛行機がそれよりも遅く到着した場合にタクシーを利用すると、22ユーロ+深夜料金+規定のスーツケース代(例として2個)で、計27.3ユーロを要する。たった5kmちょっとの道のりに約3400円かかるのは痛かった。
そうしてフィレンツェ市街にたどり着いても、筆者の場合はさらにシエナまで帰らなければならない。そのためのバスや列車の最終も早い。
深夜の飛行機でたどり着くと、東京‐成田とほぼ同じ60kmの距離であるにもかかわらず、投宿しなければならないという、これまた不条理な選択を強いられてきた。
2018年10月のことだ。その日も深夜着だったので、フィレンツェ市街に泊まることにした。円換算で5000円ちょっとの民泊だ。もしタクシーを飛ばして帰れば2万円コースだから、ひと晩宿泊するだけで十分節約できる。
フィレンツェではいつもその時点で最も安い宿を探すので、初めての宿泊施設を選択することも珍しくない。
そのときも初めての宿ゆえ、場所がなかなかわからなかった。ようやく探し当てて呼び鈴を押してみると、中国系の女性オーナーが面倒くさそうに寝間着姿で出てきた。閉まりにくい部屋の鍵と相まって、旅の疲れが一気に倍増した。
さらに空腹も襲ってきた。昨今の欧州内路線における夕食は徹底的にコスト削減を図っているから、満腹になる量とは程遠い。時計を見ると、夜12時近くになっていた。「なんでもいいから、どこかで食べねば」と思い、宿を出る。そういうときに限って雨が降り出した。
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こわもてから“友情のリキュール”
やるせない気持ちで今出てきたばかりの建物を振り返ると、その一角に、真新しい食堂があるではないか。「ビストロ・デル・リトロヴィーノ」というその店をのぞくと、先客はカップル1組だけだ。気取った店に違いない。そのうえ、眼鏡をかけたオーナーの親父(おやじ)は、一見こわもてである。
取りあえず、なんでもいいからとパニーニを注文する。ところが食べてみると、どうだ。とかくトスカーナのパニーニというとパサパサと乾燥した田舎風が多いが、この店のものは、ほどよくしっとりとしている。
フィレンツェ市内ではあるが、観光エリアからやや外れたところにあるので、イタリア語を話す日本人は珍しかったのであろう。例のこわもて親父が話しかけてきた。
筆者が今イタリアに戻ってきたばかりであることを説明すると、親父は、ミルコという名のウェイターに命じ、リモンチェロ(レモンリキュール)を2杯用意させた。そして片方を筆者に差し出すと、こう言った。
「イタリアにお帰り! 乾杯だ」
こわもてにしては、しゃれたことをする。デイヴィドという名のその親父は、長年民間宅配便の集配所を営んでいたが一念発起。念願のビストロ&カフェを少し前に開いたのだと明かしてくれた。ちなみに愛車は「BMW X6」だそうだ。
会話していると、外にいた小さな犬が足元に近づいてきた。愛犬だという。デイヴィド親父とのコントラストがほほ笑ましい。やがて小犬は店の中をうろつき始めた。
翌朝、今度は朝食をとるべく再びビストロ・デル・リトロヴィーノへ。早くもデイヴィド親父とミルコ君が働いていた。イタリアの自営業者は、日本人以上によく働く。例の犬も朝から元気である。デイヴィド氏は、筆者に次々と常連のお客を紹介してくれる。そのファミリー感覚に、イタリアに帰ってきたという実感が湧いてきた。
カプチーノを飲み干して宿に帰ると、昨晩の中国人女将(おかみ)が出てきた。デイヴィド氏の店で心理的余裕が出てきた筆者は、北京および上海ショーで覚えたサバイバル中国語を思い出し、会話を試みる。するとどうだ。女将は昨晩の無愛想を忘れたように、フレンドリーになった。そして出掛けには「請慢走(どうぞお気をつけて)」と笑顔で声を掛けてくれた。冬のはじめの、いい思い出である。
イタリアで思い出す国道18号線と碓氷峠
先日、例の新しい空港行き市電T2号線に初めて乗ることになった。最初の15日間は開業記念で無料という大盤振る舞いだったが、筆者が利用することになったのは、その直後だった。それでも料金が1.5ユーロと、空港バスの4分の1なのはありがたい。
ただし、切符を買うべく、従来バスと市電の乗車券を販売していた屋外の新聞雑誌スタンドに赴くと、「やめた」というではないか。聞けば、その役目は駅構内の薬局に引き継がれていた。何でも突然変わるイタリアに「昨日まではこうだった」は通用しない。
市電がサンタ・マリア・ノヴェッラ駅の電停にやってきた。開通からひと月も経過していないのに、2カ所のドアが故障しているのはご愛嬌(あいきょう)である。こうしたときに何も慌てず、すっと別のドアから乗る習慣が自然と身についている筆者は、イタリア在住22年だ。
走りだして間もなく窓の外を見ると、中国人女将の宿やデイヴィド親父のビストロの前を通るではないか。当時、筆者があれほど迷ってたどり着いた街区を、何事もなかったかのように過ぎてゆく。
ふと思い出したのは筆者の幼少期のことだ。父の郷里・長野県への帰省である。今でこそ関越道と上信越道で楽々行ける同地だが、1970年代は、ちょっとしたグランドツーリングであった。東京郊外の家を早朝に出発しても、国道18号線を通って父の実家にたどり着くころには夜遅くになっていた。
父のクルマはエアコンの付いていない「フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)」だったので、車内はやたらと暑かった。さらに、お盆シーズンゆえ頻繁に渋滞に巻き込まれた。
しかし、休憩で立ち寄る埼玉県熊谷市の銘菓「五家宝」や昼食をとった群馬県横川市の「峠の釜めし」、碓氷バイパスを越えて再びひと休みする軽井沢のドライブインの「フレンチドッグ」、そして夕食をとる小布施の「栗強飯(くりおこわ)」……。それらは今も鮮明に覚えている。
思えば、デイヴィド親父が差し出した友情のリモンチェロは、長いイタリア生活で最もうまいリキュールだった。苦労してたどり着いた先で出会った味ほど、いつまでも思い出となって残るようだ。
冒頭の国際高速列車も開通すれば、リヨン名物を気軽に味わいに行けるようになるかもしれない。しかし、その途中の村や町にある隠れた味に立ち寄る機会がなくなってしまうかと思うと、便利さとは何なのかを考えてしまうのである。
(文と写真=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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