第8回:事件は突然やってくる
2012.06.26 リーフタクシーの営業日誌第8回:事件は突然やってくる
一つ目の事件
モンスタークレーマーは見るからにモンスタークレーマーっぽい風貌ではなかったし、といっても、いかにもモンスタークレーマーらしい風貌というのがどんなものなのか知らないけれど、とにかく、そのタクシー運転手(=矢貫隆)は、まさか自分がモンスタークレーマーを乗せてしまうことになるなんて思ってもいなかったことだけは間違いない。
まず、頭のなかに正方形を思い浮かべ、その正方形の上段の左角をA、下段をB、上段の右角をC、下段をDと書き込んで、C、Dを結ぶ延長線上にEと書き込んだつもりになってもらいたい。
某有名出版社の近所、E地点で、30代半ごろとおぼしき女性の客を乗せたのは夜の11時を少し過ぎた頃だった。
「A(頭に浮かべた正方形のA地点のこと)を経由して○×まで行って下さい」
ぞんざいな、というか、偉そうな、というか、世の中のすべてが気に入らないから私はふてくされてるの、みたいな、とにかく一発で相手を不快にさせるの間違いなしの口調でその女性客は目的地を告げたのだが、夜の乗客の多くはたいていこんな調子だから、タクシー運転手は大して気にもとめず「はい、○×までですね」と走りだしたわけである。
A地点を経由するとなると、D地点は直進するか左折するかだが、どちらのルートを選んでもA地点までの距離は同じである。で、運転手は、タクシーに乗ってすぐ携帯電話で誰かと話し始めた女性客に「D地点を左折します」と告げてE地点を走りだした。
Dの交差点が近づく。一番左端の車線は左折専用レーン、その右隣の車線は「左折か直進」のレーン。運転手は「左折か直進」のレーンを走った。左折した後、すぐ先のB地点で右折するからである。そして事件は起こった。
D地点を左折しようとした、まさにその瞬間だった。左端のレーンを走っていた乗用車が、なにを考えたのか、左折しないで直進してきたのだ。
危ないッ!
まさに危機一髪のタイミング。タクシー運転手はとっさにハンドルを右に戻した。ふ〜、危なかった、と胸を撫(な)で下ろしたのだが、事件というのはこれじゃない。この直後に起こったのが本当の事件だった。
二つ目の事件
「ちょっと、あんたッ」
女性客は、いきなり怒鳴り口調になって、運転手を「あんた」と呼んだ。
はい……。
「はいじゃないわよ。あんた。私が電話してるのをいいことに、遠回りする気ね」
え〜ッ?!
思いも寄らない言葉にびっくり仰天。遠回りだなんて、そんなつもりはもちろんない。意味不明な叱責(しっせき)に驚いた運転手は、「左のクルマを避けるには直進するしかなかったので……」と事情を説明したけれど、彼女には、そんな説明はどうでもよかったらしい。
「そんなこと聞いてんじゃないわよ。あんた、なんで遠回りしたのよ。その理由を聞いてるのよ」
「どういうつもりか理由を言いなさいよ、理由を!」
女性客の、あまりに無体な言い様はもちろん言いがかりだ。そもそも、D地点を左折しようが直進しようがA地点までの距離はいっしょなのだから。だが女性客は、あらん限りの罵詈(ばり)雑言を運転手に浴びせ、その間も電話はつながっていたらしく、今度は電話の相手にも事情を訴えだした。
「ちょっと聞いてよ、このタクシー運転手、とんでもない悪質なヤツなんだよ……」
「いまどこにいるの? こっちに合流できるよね。ここにきて、このタクシー運転手、やっつけてよ」
「モンスタークレーマーは30代くらいの女性客に多い」
ずいぶん前にモンスタークレーマー女にやっつけられたタクシー運転手から聞いたのを思い出した。
「『料金はけっこうですから』って言うまでクレームは終わらない」
彼がそう言ったのを思い出したタクシー運転手は「意地でも『料金はいりません』とは言わないぞ」と心に決め、このモンスタークレーマーのクレーマーっぷりを最後まで見届けようと思った。彼女に加勢するために電話の相手とやらも駆けつけるのだろうか、とか考えながら。
という運転手の心のうちが何となく伝わったのだろうか。運転手を罵倒し続けていたモンスタークレーマー女は、なぜだか急に「ここで止めて」と言い、料金1250円を投げつけるようにしてタクシーを降り、深夜の街に消えていったのであった。
(文=矢貫隆)

矢貫 隆
1951年生まれ。長距離トラック運転手、タクシードライバーなど、多数の職業を経て、ノンフィクションライターに。現在『CAR GRAPHIC』誌で「矢貫 隆のニッポンジドウシャ奇譚」を連載中。『自殺―生き残りの証言』(文春文庫)、『刑場に消ゆ』(文藝春秋)、『タクシー運転手が教える秘密の京都』(文藝春秋)など、著書多数。