最終回:別れは突然やってくる(前編)
2013.10.10 リーフタクシーの営業日誌行きつけの食堂の悲劇
神田神保町の交差点で乗せた中年の女性客は「秋葉原駅まで」と目的地を告げてからしばらく黙っていたけれど、靖国通りの須田町の交差点を渡ったあたりで「やぶそばが……」としゃべりだした。
今年(2013年)の2月、1880年創業の「かんだやぶそば」の店舗が半焼したというニュースはテレビでも大々的に報じられたから覚えている人も多いと思う。神保町からリーフタクシーに乗ったその女性が「やぶそばが……」と言ったのは、火事から10日ほどたった昼のことだった。
「会社がこの近所にあったから、若いころはランチにね、ときどき食べに行ったお店なんです」
「運転手さんは行ったことあります?」
はい、何度か。
というような会話の後、互いに「今日のランチはどうする」と申告し合い、リーフタクシーの運転手(=矢貫 隆)は、これから白山にある行きつけの店に向かいますと言って彼女と別れたのだった。
白山通りの白山下交差点(=文京区)を西に曲がり、坂を上りきった場所にある行きつけの食堂、「たこ八」。小石川植物園の裏手、人目につきにくい場所にある地味な店(第14回)と書いた、魚がうまい店である。だからアジフライもうまい店、なのである。
よし、今日はミックスフライ定食を食べるぞ、と回送板を掲げ、一目散に白山へと向かうリーフタクシー。
ところが、なのだった。
思いもよらない、と言うか、誰だって想像もできない事態が空腹のタクシー運転手を待ち受けていたのである。
白山下の交差点を曲がり、坂を上ると、あたりの雰囲気がいつもとはまるで違っていた。消防車が何台も連なって止まっていて、路面は水浸し。目的の店に近づくにつれ、辺りには焼けた炭のにおいが漂っていた。
火事?
そう。火事だった。
この騒ぎじゃ、この辺りにクルマを止めてのんきにランチとはいかないな、と思った次の瞬間、行きつけの食堂の前に差しかかった俺は絶句した。
えッ!?
「たこ八」が火事だった。
すっかり火は消えていたけれど、燃え残りの炭からプスプスと音でも聞こえてくるようで、まさに鎮火の直後だ。
焼けた炭のにおいと、かすかに漂う青白い煙。直前まで乗っていた乗客と、神田のやぶそばの火事を話題にしていただけに、何だよ、このタイミングは、と、リーフタクシー運転手は身震いしたわけである。
ぼうぜんとしている僕に
タクシー運転手がみんな持っている専用の道路地図帳『都内交通案内地図』(東京タクシーセンター刊)の、ずっと昔の版には「おすすめ食堂」が掲載されていたと古参の運転手から聞いたことがある。
中央区の勝どきの「月よし」という食堂もそのうちの一軒だそうで、そうとは知らず、俺も、スタンプカードにたくさんハンコを押してもらうほど通ったものだ。お昼どきに銀座あたりを走っていたら「月よし」へ。
特に「うまい」というわけではないけれど、大昔の街道沿いのドライブインのようにショーウィンドウに並んだおかずを選びご飯とみそ汁を注文するスタイルだから、早くて安い。しかも店の前にはパーキングメーターがあるものだから、タクシー運転手には好都合なのだ。昼どきの客の半分はタクシー運転手なんじゃないか、というくらい運転手が多く利用する店として有名らしい。
ところが、この「月よし」、2012年の8月で廃業してしまった。立ち退きが理由なのだという
残念だが仕方あるまい。
でも、俺は大丈夫。俺には白山に行きつけの店がある。
そう思ってせっせと通ったのに、想像もしていなかった事態の発生である。後にわかったのだが、火元は別の家で、「たこ八」は、そのとばっちりを受けてしまったのだった。
魚はいつも新鮮で、だからマグロの刺し身定食は当然のごとくうまいけれど、俺の好きなアジフライもとにかくうまい。
その店が火事とは……。
いったい、俺は、明日からどこでランチをすればいい?
駐車場つきのファミレス?
と、明日からのランチを心配し、鎮火したばかりの火事の現場でぼうぜんと立ちすくむ、俺の情けない姿を想像してもらいたい。
さて、ここからが本題である。
ここまで書いておきながら、いまさらこんなことを言うのは何だけれど、今回のテーマ、実は、タクシー食堂の話ではないのだ。
ぼうぜんと立ちすくんでいる俺の元にかかってきた一本の電話。それが本題へと続くプロローグだった。
「斉藤っす」
わが北光自動車交通のもうひとりのリーフタクシー担当運転手、斉藤孝幸さんからの電話だった。彼が、思いもよらない情報を伝えてきたのだ。
「リーフタクシー、近いうちに廃車になるみたいッす」(つづく)
(文=矢貫 隆)
拡大 |

矢貫 隆
1951年生まれ。長距離トラック運転手、タクシードライバーなど、多数の職業を経て、ノンフィクションライターに。現在『CAR GRAPHIC』誌で「矢貫 隆のニッポンジドウシャ奇譚」を連載中。『自殺―生き残りの証言』(文春文庫)、『刑場に消ゆ』(文藝春秋)、『タクシー運転手が教える秘密の京都』(文藝春秋)など、著書多数。
-
NEW
クルマの乗り味の“味”って何だ?
2026.1.20あの多田哲哉のクルマQ&A「乗り味」という言葉があるように、クルマの運転感覚は“味”で表現されることがある。では、車両開発者はその味をどう解釈して、どんなプロセスで理想を実現しているのか? 元トヨタのエンジニア、多田哲哉さんに聞いた。 -
NEW
プジョー208 GTハイブリッド(FF/6AT)【試乗記】
2026.1.20試乗記「プジョー208」にマイルドハイブリッド車の「GTハイブリッド」が登場。仕組みとしては先に上陸を果たしたステランティス グループの各車と同じだが、小さなボディーに合わせてパワーが絞られているのが興味深いところだ。果たしてその乗り味は? -
ベントレー・コンチネンタルGTアズール(4WD/8AT)【試乗記】
2026.1.19試乗記ベントレーのラグジュアリークーペ「コンチネンタルGT」のなかでも、ウェルビーイングにこだわったという「アズール」に試乗。控えめ(?)な680PSのハイブリッドがかなえる走りは、快適で満ち足りていて、ラグジュアリーカーの本分を感じさせるものだった。 -
第327回:髪もクルマもナイスファイト!
2026.1.19カーマニア人間国宝への道清水草一の話題の連載。日産の新型「ルークス」で夜の首都高に出撃した。しっかりしたシャシーとターボエンジンのパワフルな走りに感心していると、前方にスーパーカーの姿を発見。今夜の獲物は「フェラーリ・ローマ」だ! -
日本で売れるクルマはあるのか!? 最新の“アメリカ産ニホンシャ”を清水草一が検証する!
2026.1.19デイリーコラムアメリカからの外圧による制度変更で、北米生産モデルの国内導入を決めたトヨタ。同様に、今後日本での販売が期待できる「海外生産の日本車」には、どんなものがあるだろうか? 清水草一が検証してみた。 -
フェラーリ12チリンドリ(後編)
2026.1.18思考するドライバー 山野哲也の“目”レーシングドライバー山野哲也が「フェラーリ12チリンドリ」に試乗。前編では伝家の宝刀であるV12エンジンを絶賛した山野。後編ではコンビを組むシャシーの印象を余すところなく聞いてみた。






























