第91回:つらい現実からクルマで逃げだすことはできない
『ビッグ・アイズ』
2015.01.21
読んでますカー、観てますカー
あの事件にそっくりの作者偽装
マーガレットは、夫のいない間に急いで身の回りのものをカバンに詰め込んだ。幼い娘の手をとって淡いグリーンの「フォード・カスタムライン」に乗り込み、家を出て南へと旅立つのだ。苦痛でしかなかった結婚生活を終わらせ、ふたりで新たな暮らしを始めよう。
パステルカラーのクルマは、希望の象徴のように見える。もう誰も追ってこないことを確信し、彼女は運転しながら後席の娘に手を伸ばす。解放の喜びを示すこのしぐさは、この作品の中で2度繰り返されることになる。
『ビッグ・アイズ』は、1960年代にアメリカのアート界を騒がせた作者偽装事件を描いた映画である。「ティム・バートンも驚いたウソのような本当の話」というキャッチコピーがつけられているが、日本人の多くはあまり驚かないかもしれない。1年ほど前に、われわれは実際に同じような事件を目の当たりにしているからだ。かっぽう着のリケジョや号泣議員と並び、世間で大きな話題になったのが“現代のベートーベン”こと佐村河内守氏だった。
聴覚障害者の作曲家という触れ込みで長髪サングラスがトレードマークだったが、会見ではバッサリ髪を切り落としてフツーのオジサンになっていた。人々を信じさせていたのは、大仰な飾り付けで作り込まれたかりそめのオーラだったのだ。彼の転落の裏で同情を集めたのは、代作を引き受けていた新垣 隆氏だった。気が弱そうで風采の上がらないことが憐(あわ)れさを引き立て、善意を踏みにじられた被害者というイメージが打ち立てられた。
ペテン師になりきったクリストフ・ヴァルツ
その後の新垣氏は一転して人気者となった。テレビのバラエティー番組に出演し、雑誌のファッション記事にモデルとして登場した。才能が枯渇した小説家がアシスタントに代作させるというストーリーのドラマ『ゴーストライター』では、テレビを見ながら当事者として感想を述べるという離れ業を演じている。
喜ばしい限りだが、彼に注目が集まったのは佐村河内氏のおかげである。現代音楽の専門家である新垣氏が普通に仕事をしていたら、こんな有名人になることはなかっただろう。映画で描かれる事件も、構造は同じだ。マーガレットの作品を世に出したのは、口のうまいペテン師だったのである。
美術大学で学んだ経験のあるマーガレットだったが、絵で生計を立てるのは簡単ではない。アーティストの集まるサンフランシスコのノースビーチで絵を展示してもさっぱり売れず、似顔絵を描いてわずかな謝礼をもらうのがせいぜいだ。失意の彼女を慰めたのが、隣でパリの街角を描いた絵を売っていたウォルターである。「君には才能がある」と言われて舞い上がったマーガレットは恋に落ち、ふたりは結婚する。
内気で従順な女性であるマーガレットを、エイミー・アダムスが見事に造形している。田舎臭くてちょっとおばかという雰囲気で、いかにもダマされやすそうだ。そして、いつも素晴らしいクリストフ・ヴァルツ! 呼吸をするようにうそをつく、生まれながらのペテン師になりきっている。『イングロリアス・バスターズ』のナチス将校、『おとなのけんか』の傲慢(ごうまん)な弁護士で見せたしゃべり芸に、さらに磨きがかかった。
ナイトクラブに絵を展示
ウォルターは口八丁で自分の絵を画廊に売り込もうとするが、時代遅れの風景画はまったく相手にされない。なんとか絵を飾ってもらえたのは、酔客で賑(にぎ)わうナイトクラブだった。しかし、酒と音楽を楽しみに来ている連中が絵に注意を払うわけもない。状況が変わったのは、意外なことがきっかけだった。ウォルターがナイトクラブのオーナーとつかみ合いのケンカになり、居合わせていた新聞記者が写真を撮って記事にすると、その絵を見ようと人々が詰めかけたのだ。
ただし、注目されたのは風景画ではなく、マーガレットの描いた目の大きな少女の絵だけだった。説明を求められると、ウォルターはそれを自分が描いたかのように熱弁をふるいはじめる。口から先に生まれた男にとっては、それが自然なのだ。マーガレットは抗議するが、「君が絵を描き、僕がそれを売る。ふたりは一心同体だ」と言われて反論することができない。確かに、マーガレットだけでは成功はおぼつかなかった。
ウォルターはアート界の風雲児としてメディアに取り上げられ、派手に遊びまわるようになる。その陰で、マーガレットはアトリエにこもってひたすら作品を量産し続けた。わずかな報酬で作曲を請け負った新垣氏と、それを自分の作品だと偽って『NHKスペシャル』などのテレビ番組に出演して脚光を浴びた佐村河内氏の関係にそっくりである。
最後は法廷ドラマ
プール付きの豪邸での暮らしを捨て、マーガレットは再び娘と一緒にクルマで逃げ出す。今度こそ本当に自由を手に入れられると確信し、後席に座る成長した娘の手を握った。しかし、ウォルターは生来のイカサマ野郎なのだ。せっかく手に入れた名声と富を簡単に手放すはずがない。
アートと創作をめぐる物語は、終盤には一転して法廷ドラマとなる。弁舌が飛び交う司法の場は、ウォルターにとっては晴れ舞台だ。弁護士など雇わず、自ら身の潔白を証明しようと奮闘する。クリストフ・ヴァルツは、水を得た魚のようだ。『リーガル・ハイ』の古美門研介もかくやとばかりに華麗な弁論を展開し、自分に同情を集めようと秘術の限りを尽くす。
もちろん、いくら言葉でごまかそうとしても、隠し仰せない真実がある。マーガレットは余裕の笑みで娘の手を握った。クルマで脱出しても何も得られなかったが、自らが変わることで人生を取り戻すことができたのだ。
87歳になる今も絵を描き続けているマーガレットは、「彼がいなかったら、私の作品は誰にも発見してもらえなかったはず」と語っている。新垣氏は、年末年始のテレビ番組で引っ張りだこだった。クラシックから歌謡曲までなんでも語れる音楽オタクで、誠実な人柄と天然のおちゃめさが愛されている。彼こそが、佐村河内氏が生み出した唯一の作品なのだ。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。