第102回:ロンドンに続くデス・ロードをX5で駆けぬけろ!
『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』
2015.06.26
読んでますカー、観てますカー
車内だけのワンシチュエーション映画
前回の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に続き、またトム・ハーディ主演の作品を取り上げることになってしまった。仕方がないのだ。来週には、さらに『チャイルド44』が公開される。映画界ではトム・ハーディ祭りが開催されているようだ。
『デス・ロード』では荒野でエキセントリックな暴走集団と死闘を繰り広げていたが、この映画でも主人公は絶望的な戦いを強いられる。勝ち目はまったくない。マックスよりもはるかに厳しい状況なのだ。『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』というタイトルは、この作品の内容を正確に示している。上映時間86分のほぼすべてがハイウェイ上のシーンなのだ。スクリーンに映される人物は、ひとりだけである。
限定された舞台で物語が展開するワンシチュエーション映画は、これまでにも数多く作られている。古くは『12人の怒れる男』という名作があった。陪審員たちが密室の中で議論し、父殺しの罪に問われた少年の無実を証明する過程が描かれた。密室は犯罪者に圧倒的有利であり、『シャイニング』や『ミザリー』では逃げ場がないことが恐怖を増幅させた。
外界との接触が不可能に近い飛行機は、密室として純度が高い。『エアポート』シリーズや『フライトプラン』『スネーク・フライト』など、多くの作品が作られている。大自然の中で身動きがとれなくなる話では、『127時間』『キャスト・アウェイ』『オープンウォーター』などがある。大都会の街角に密室を出現させるというアクロバティックな手法を見せたのは『フォーンブース』だ。
自動車の中に舞台が限定されると、密室度はさらに高まる。まさにミニマムな空間であり、映像としては単調になってしまいかねない。『ブレーキ』や『逃走車』といったサスペンス映画が作られているが、『オン・ザ・ハイウェイ』にはさらに困難な条件が加わっている。派手な演出をしようにも、そもそも敵が存在しないのだ。問題を引き起こしたのは、主人公なのである。
「X5」で自宅と反対方向に向かう
映画は巨大な工事現場から始まる。仕事を終えた作業着姿の男が長靴を脱ぎ、クルマに乗り込む。「BMW X5」だから、余裕のある暮らしなのだろう。赤信号で止まると、彼は左にウインカーを出してしばし目を閉じる。信号が変わって後ろのトラックからクラクションを鳴らされると、一瞬のためらいの後に逆方向の右に曲がっていった。彼は、ある決断を下したのである。
携帯電話はクルマのシステムに接続してあり、ハンズフリーで通話ができる。iDriveの機能を使い、呼び出したのはベッサンという女性の携帯電話だ。留守番電話にメッセージを吹き込む。上司のガレスの家に電話をかけると彼はまだ帰宅しておらず、アイヴァン・ロックと名乗って返信の伝言を頼んだ。自宅に電話をかけると、息子のエディが受話器をとった。「試合の時はドイツビールだよね?」と無邪気に聞いてくる。今晩はサッカーの試合があり、一緒にテレビで応援する約束だったのだ。
部下のドナルから着信がある。アイヴァンはベテランの現場監督で、ヨーロッパ最大規模の工事を担当しているのだ。翌朝の5時45分には、218台のトラックが355トンの生コンを運んでくる。アイヴァンは工事現場の仕切りをドナルにまかせたいと話す。彼はロンドンに向かっていて、作業には間に合いそうにない。経験の浅いドナルはパニック状態だ。上司のガレスからも着信する。現場を放棄するのは会社に対する背信だと激怒している。
妻のカトリーヌからも電話がかかってきた。アイヴァンは、数カ月前のロンドン出張中に犯した過ちを正直に話す。その結果について義務を果たすため、クルマで聖メアリー病院に向かっているのだと。アイヴァンは努めて冷静に話そうとするが、電話の先では誰もが気持ちを高ぶらせている。事態は悪くなるばかりだ。彼は妻の愛と仕事を同時に失おうとしている。それでも、彼はハイウェイを走り続けるしかない。
会話し続けるトム・ハーディ
『デス・ロード』ではほとんどセリフのなかったトム・ハーディだが、この映画ではずっとしゃべりまくっている。会話はすべて電話での彼と誰かのやりとりなのだから当然だ。これまでのキャリアでは、肉体派のイメージが強かった。『ダークナイト ライジング』のベイン役は強烈だった。フェイスマスクを装着していて表情は見えないものの、全身から禍々(まがまが)しさを発していた。『ブロンソン』では暴力が人格化したような実在の囚人をリアルに演じている。
世界的なスター俳優に地味な一人芝居を依頼したのは、スティーブン・ナイト監督である。彼はこの作品の前にやはり肉体派のジェイソン・ステイサムを使い、監督デビュー作となった『ハミングバード』を撮っていた。『ワイルド・スピード SKY MISSION』では無敵だったが、この映画ではステイサムが弱さも見せる。ナイト監督は、無駄を取り去った、研ぎ澄まされた骨格の作品を好むようだ。
アイヴァンは電話の相手にはていねいに接するが、時折無人の後席に向かって毒づき始める。ルームミラーには過去が写るといわれていて、彼はそこに浮かび上がる父親に向かって怒りをぶつけているらしい。アイヴァンは、父親のようにはなりたくないのだ。希望を見いだせない状況だが、できる限りのことをする。諦めず、最善の道を探る。決して逃げ出したりはしない。
この映画の原題は『Locke』である。主人公の姓をそのままタイトルにしているわけだが、どうしても哲学者ジョン・ロックを想起してしまう。イギリス経験論の父とされるロックは、人間の心はタブラ・ラサ(白紙)であり、経験によっていかようにも変わりうると説いた。アイヴァンも、自らの行動によって父とは異なる人間になれると信じている。
ロンドンへ向かう高速道路は、彼の心の中では“デス・ロード”そのものだった。しかし、闇の中には街灯や自動車のランプの光が流れ、映像は幻のように美しい。アイヴァンは、すべてを失うかもしれない。それでも、走り続けたことが彼にとっての栄光である。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。