第10回:アイルトン・セナ――悲劇の貴公子
事故が引き起こした早すぎる世代交代
2017.11.02
自動車ヒストリー
他の追随を許さない優れたドライビングスキルにより、F1において一時代を築いたブラジルの天才、アイルトン・セナ。1994年のイタリアGPで夭逝(ようせい)した“音速の貴公子”の生涯を、レースシーンに残してきた華々しいエピソードとともに振り返る。
災厄が相次いだ1994年のイモラ
1994年5月5日、グアルーリョス国際空港からサンパウロの中心街へと向かう道は、数百万の人波で埋まっていた。静かに進む車列の中に、花に包まれたひつぎがあった。4日前にサンマリノGPで事故死したアイルトン・セナの遺体である。葬儀場では、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガーらがひつぎを担いだ。
日曜日のレース前、セナの様子はいつもと違っていた。「ウィリアムズFW16」をイモラ・サーキットのグリッド最前列に止めると、彼はコックピットから出ようとせず、誰から声をかけられても応じなかった。前日には、恋人との電話で不安を訴えていたという。セナが精神的に揺れていたのには理由がある。不吉な出来事が相次いでいたのだ。
金曜日の予選第1日に、ルーベンス・バリケロがクラッシュした。重症だと聞き、セナがメディカルセンターに駆けつける。前年にF1デビューした同郷の後輩を、彼は弟のようにかわいがっていた。幸いなことに情報は間違いで、鼻骨骨折と打撲程度の軽症であることが判明する。セナは再びサーキットに向かった。
胸をなでおろしたものの、不穏な空気はさらに拡大する。翌日の予選第2日、タイムアタック中のローランド・ラッツェンバーガーが、ビルヌーブコーナー外壁にたたきつけられた。フロントウイングが脱落し、コントロールを失ってしまったのだ。救急蘇生を行ったが、すでに脳死状態でなすすべもない。F1のレース中に死亡事故が起きたのは、1982年のリカルド・パレッティ以来だった。
重大な事故が続いたにもかかわらず、レース中止を求める声は大きくならなかった。ラッツェンバーガーが無名の新人だったことで、事態の深刻さが十分に受け止められなかったとも言われている。セナは違う。彼だけは事故後に現場を訪れて原因を探ろうとしていた。悲劇を予感していたのかもしれない。しかし、不世出の天才が最速を目指す戦いを避けるわけにはいかなかった。
4歳の誕生日プレゼントは父手作りのカート
1994年のシーズンは、セナにとって万全のスタートにはなっていなかった。第1戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPでは、ポールポジションを獲得したもののいずれもリタイアに終わっている。1988年から在籍していたマクラーレンを離れ、このシーズンからウィリアムズに移っていた。マクラーレンでは3度チャンピオンに輝いていたが、最後の2年はランキング4位と2位だった。ホンダが撤退してF1の勢力図が一変する中、新チームでの再起を期していたのだ。
1987年にロータスでランキング3位となり、翌年にロータスと並んでホンダエンジンを供給されることになったマクラーレンに移籍。鈴鹿でグランプリが開催されるようになり、ホンダとセナが組むことで日本でのF1人気は沸騰した。哀愁を帯びたまなざしを持つブラジル人ドライバーは「音速の貴公子」と呼ばれ、若い女性からも熱烈な支持を得た。
ブラジルはサッカーの国として知られるが、モータースポーツにも同じくらいの熱量が注がれる。子供たちの夢は、サッカー選手かF1ドライバーなのだ。セナの運命は、4歳の誕生日に定まった。父親から手作りのカートを贈られたのだ。クルマ好きの父の思惑をはるかに超えて、セナはレースにのめり込んでいく。1973年、13歳で初めて公式カートレースに出場し、いきなり優勝を手にした。才能は誰の目にも明らかだった。
カートに飽き足らず、1981年にイギリスに渡ってフォーミュラ・フォード1600に参戦する。フォーミュラでも才能を発揮して優勝を果たすが、資金不足に悩むことになる。実家は裕福だったが、父は援助を拒否した。ゆくゆくは息子に事業を継がせたいと思っていたからである。セナは自らスポンサーを集め、翌年にはフォーミュラ・フォード2000にステップアップ。1983年にはF3に参戦した。
F3で圧倒的な走りを見せてF1へ
F1への登竜門といわれるこのカテゴリーでも、セナの実力は飛び抜けていた。開幕からの9連勝を含め、20戦中12勝を挙げてチャンピオンを獲得する。最終戦のマカオGPでも、ポールポジションからスタートして最初にフィニッシュした。ファステストラップを記録する完全優勝である。マーティン・ブランドルやゲルハルト・ベルガーも参戦していたが、まったく相手にならなかった。
才能を高く買ったフランク・ウィリアムズは、ドニントンパークにセナを呼んだ。「FW08C」をドライブさせてみると、軽く流したラップの記録が当時のコースレコードとなってしまった。F1がこの驚異の新人を放っておくはずがない。ウィリアムズを含め、複数のチームからオファーがあったのは当然だろう。
「ブラバム」が最有力といわれたが、セナが選んだのは有力チームとはいえない「トールマン」だった。ナンバーワンドライバーを務めていたネルソン・ピケが嫌がったことで、ブラバム入りが実現しなかったともいわれている。同じブラジル人でもピケはリオ・デ・ジャネイロ、セナはサンパウロ出身である。2つの都市は対抗意識が強く、カリオカとパウリスタは仲が悪いのだという。
トールマンは非力なマシンだったが、セナはモナコGPで鮮烈な走りを見せた。大雨の中でプッシュし続け、「マクラーレン・ポルシェ」に乗るプロストを追い詰めたのだ。予選タイムは2秒半ほど遅かったのに、ウエットコンディションでは1周ごとに差を数秒縮めていく。プロストの直後に迫ったが、無情にも赤旗が振られてレースは打ち切られた。セナはプロストが自らの勝利のために圧力をかけてレースを中止させたと受け取った。因縁の始まりである。
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ブラジルGP優勝で見せた涙
1988年から、セナはそのプロストとともにマクラーレンで走ることになる。序列はつけず2人ともナンバーワンドライバーの扱いだったが、彼らが協調してレースに臨むことはなかった。行き違いや誤解が重なり、対立は深まっていく。1989年に鈴鹿で接触事故を起こしたことが決定的な亀裂を生み、プロストがフェラーリに移籍した1990年の鈴鹿では、セナが報復を果たすことになる。
1991年は最高の年となった。2年連続でチャンピオンを獲得したのだ。ただ、セナにとって一番うれしかったのはブラジルGPで初優勝を果たしたことだろう。母国グランプリとはなぜか相性が悪く、それまでは予選でいい走りを見せても、決勝では何かしらのトラブルが起きて涙をのんできたのだ。
この年も、インテルラゴスはセナに試練を与えた。1位で周回していた終盤、突如ギアトラブルが襲いかかったのだ。最後には6速以外のすべてのギアを失い、右手でレバーを必死に押さえながら走らざるを得なくなる。セナは死力を尽くし、迫ってくるリカルド・パトレーゼを2.991秒差でかわした。フィニッシュラインを越えたセナの無線からは、すすり泣くようなうめき声が聞こえてきた。
1992年、1993年のマクラーレンには十分な戦闘力がなく、セナは苦戦を強いられた。環境を変えたいと考えたのは自然な成り行きである。10年遅れでフランク・ウィリアムズのオファーを受け入れたのだ。理想的な準備を整えたように見えたが、2年の間に強力なライバルが頭角を現していた。ベネトンのミハエル・シューマッハーである。ブラジルGP、パシフィックGPを制したのは、この若者だった。
セナのFW16がタンブレロコーナーに300km/h以上のスピードで激突した時、すぐ後ろを走って一部始終を目撃したのはシューマッハーだった。彼はこのレースにも勝ち、勢いに乗って初のドライバーズタイトルを獲得する。ゆるやかに進むはずだった世代交代を、事故が一瞬にして進めてしまった。音速で人生を駆け抜けた天才は、悲劇の貴公子として永遠に記憶されることになった。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。