第101回:スーパーカーの熱狂
子供たちが夢中になった“未来のクルマ”
2021.05.26
自動車ヒストリー
エキゾチックなスタイリングと浮世離れしたスペックにより、クルマ好きを熱狂させたスーパーカー。日本を席巻した一大ブームは、いかにして襲来し、去っていったのか。「カウンタック」をはじめとした、ブームの中核を担ったモデルとともに当時を振り返る。
最高速で争ったフェラーリとランボルギーニ
1975年1月、集英社の少年漫画雑誌『少年ジャンプ』で新連載が始まった。走り屋の風吹裕矢が公道でライバルたちとバトルを繰り広げる『サーキットの狼』である。当初はあまり注目を集めることもなく打ち切られそうになったが、突然人気が爆発してジャンプの看板マンガとなった。子供たちを引きつけたのは、作品の中に登場するエキゾチックなクルマである。道を走る乗用車とはまったく違うスタイルを持ち、とてつもないスピードを誇るマシンはスーパーカーと呼ばれ、マンガの枠を超えて大ブームとなった。
スーパーカーには明確な定義があるわけではない。大ざっぱに言えば、非現実的なデザインで未来の乗り物のようであり、レーシングカー顔負けの速さを持つクルマのことである。フェラーリやランボルギーニなどのイタリア車が多く、なかでも誰もが認める代表的な存在といえば、「ランボルギーニ・カウンタック」と「フェラーリ365GT4BB」だろう。
1974年に登場したカウンタックは、シザースドアというわかりやすい奇抜な見た目で子供たちの心をとらえた。『サーキットの狼』では悪役である“ハマの黒ヒョウ”の愛車だったが、ガンディーニのデザインしたウエッジシェイプのボディーは水際立っていた。V12エンジンをミドに搭載し、300km/hという最高速度を持つことも重要なポイントである。子供たちは、排気量やエンジン出力、最高速度などのスペックを、すべて丸暗記していた。
新興勢力のランボルギーニに対し、老舗のフェラーリが黙っているわけにはいかない。カウンタックのプロトタイプが発表されたのは1971年3月で、その半年後にフェラーリはBBを発表した。こちらも12気筒エンジンをミドに積み、示された最高速度は302km/h。意地にかけても、最速のロードカーという称号を守らねばならなかったのである。
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軽量なヨーロッパ、ラリーのストラトス
ただ、カウンタックもBBも、最高速度の数字はあまり意味のあるものではなかったようだ。実車でテストすると、どちらもカタログ通りのスピードは出なかったという。現在では300km/hオーバーのセダンもあるくらいだが、当時はこの速度域は夢の領域だったのである。同時に、スーパーカーを名乗るうえではぜひともクリアしておきたい数字だった。
一方で、最高速度は劣っても、スーパーカーとして認められていたクルマがある。風吹裕矢の愛車「ロータス・ヨーロッパ」は、最高速度が200km/hにも満たない。それでも、軽量を利して大排気量のマシンと戦う姿が共感を呼び、人気が高かった。わずか1.6リッターの直列4気筒エンジンだから戦闘力が高いとはいえなかったが、全高わずか1080mmの低く構えたスタイルは異次元の走りを予感させたのである。
マセラティの「ボーラ」と「メラク」も、憧れのクルマだった。エンジンはV8とV6で少々見劣りしたが、ジウジアーロの手がけた美しいデザインがそれを埋め合わせて余りあった。ちょっと異色だったのは、「ランチア・ストラトス」である。世界ラリー選手権(WRC)への出場を前提に開発されたマシンで、シルエットは大胆なウエッジシェイプ。旋回性能を最優先にしていたので、ホイールベースは2180mmと極端に短かった。そのおかげで、宇宙船のような雰囲気をまとうことになったのである。
「デ・トマソ・パンテーラ」は、イタリアとアメリカが合体したスーパーカーである。デ・トマソはすでに「マングスタ」でフォードのエンジンを採用していて、パンテーラにもフォード製の5.8リッターV8エンジンを搭載した。これによってライバルの半分ほどという価格を実現し、親しみやすいスーパーカーとなった。
ドイツからは、ポルシェがスーパーカーの列に加わっている。『サーキットの狼』で風吹裕矢のライバルである早瀬左近が乗っていた「911カレラRS 2.7」が代表的な存在だろう。今でも人気の高い“ナナサンカレラ”で、ダックテール型のスポイラーと派手なデカールが特徴である。さらに、75年にデビューした「930ターボ」も人気だった。
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子供たちが押し寄せたスーパーカーショー
スーパーカーブームはまたたく間に広がり、テレビではゴールデンタイムに『対決!スーパーカークイズ』(東京12チャンネル)という番組が高視聴率をあげた。男子小学生の間ではスーパーカー消しゴムが大流行し、あまりの過熱ぶりに持ち込み禁止にする学校も現れたほど。スーパーカーを扱う輸入車ディーラーには、日曜日になるとカメラを持った子供たちが押し寄せるようになった。
最も有名なディーラーだった横浜のシーサイドモーターは、サンスターとタイアップして商品のパッケージに付いている応募シールを集めて送ると入場券がもらえるイベントを企画した。東京・晴海で行われたスーパーカーショーには、4日間で46万人もの来場者が押し寄せたという。スーパーカーショーは毎週のように全国で開催され、目を輝かせた子供たちが集まった。
しかし、ブームが去るのも早かった。1977年の後半になると、スーパーカーショーの入場者は目に見えて減っていく。『サーキットの狼』は舞台を公道から本来のサーキットに移して本格的なレースを題材にするようになり、人気は以前ほどではなくなっていった。連載は1979年に終了し、シーサイドモーターは1980年に倒産した。
『サーキットの狼』の作者である池沢さとし(現在は池沢早人師)は、連載が始まる2年前に、出版社に作品を持ち込んでいた。しかし高価な外国製スポーツカーに興味を持つ子供は少ないと編集部は判断して保留にしており、ようやく1975年に連載が始まったのだ。このタイムラグは、スーパーカーにとってはあまりにも大きかった。
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オイルショックでブームが終わる
スーパーカーの起源ともされる「ランボルギーニ・ミウラ」のデビューは、1966年である。特異なヘッドランプデザインや流麗なスタイルが、スペシャルな存在であることの証しだった。古いのでスペック的には劣るが、このマシンは別格とされている。正式には1台しかつくられていない派生型の「イオタ」などは、ほとんど神話の世界のクルマのように思われていた。この魅力的なマシンに刺激され、フェラーリやマセラティなどがスーパーカーをこぞって開発していったのである。
その後、1973年のオイルショックで、高価なスーパーカーは厳しい環境に置かれることになる。世界的に景気が後退し、販売台数が激減。さらに排ガス規制が厳しくなり、それに対応するためにエンジンの大幅なパワーダウンが余儀なくされた。日本でブームが始まったとき、すでにスーパーカーにとっては試練の時代が始まっていたのである。
かつてのスーパーカーのスペックは、現在では夢のものではなくなった。フェラーリやランボルギーニ、ポルシェなどは、ごく当たり前に額面通り300km/hで走行できるクルマを販売しており、ブガッティに至っては、最高速度415km/hのモデルまで用意している。日本でも2010年にV10エンジンを搭載する「レクサスLFA」が登場した。今も「日産GT-R」や「ホンダNSX」など、世界のトップレベルに肩を並べるモデルが存在する。
それでも、1970年代のスーパーカーは、今も特別な輝きを放っている。それは、クルマの青春時代にしか現れない、奇跡のような幸福の時間だったのである。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。