第199回:最強のMILFは最凶のプラッツで暴走する
『よこがお』
2019.07.24
読んでますカー、観てますカー
『淵に立つ』のコンビが復活
深田晃司監督と筒井真理子。2016年のカンヌ映画祭で「ある視点」部門審査員賞を獲得したコンビの復活である。『淵に立つ』も鑑賞後に気分がどーんと沈み込む作品だったが、『よこがお』の衝撃度はさらに上かもしれない。腹の底にもやもやしたものが残り、嫌な気分で映画館を後にすることになる。観客は今まで観ていた映画がただのフィクションとは思われなくなり、様相を変えた現実へと戻っていく。しばらくは心の底から笑うことはできないだろう。
なぜそんな苦行のような映画体験をしなければならないかといぶかるのは当然だ。しかし、深田監督の魅力は強力な現実改変力にある。描かれるのは何のことはない日常だが、彼はその中に潜む亀裂を露呈させるのだ。われわれが安心して身を委ねている生活が、いかに危うい基盤のもとに築かれているのかを容赦なく見せる。例えば、家族というものが実にあやふやなつながりであることを暴き出す。
『よこがお』での筒井は、まずリサという役名で登場する。美容院に髪を染めにやってきた彼女は、米田和道(池松壮亮)というヘアスタイリストを指名していた。「前にも来ました?」と聞かれるのは当然だが、彼女はその店に来るのが初めてだった。彼を指名したのは、「名前が死んだ夫と同じだから、懐かしくて」と話す。数日後の朝、リサはゴミ置き場で米田に出会う。すぐ近所に住んでいたのだ。
リサはほとんど家具が置かれていないアパートの一室で、缶ビール片手に外を眺めている。向かいのマンションを見ると、1階の窓の向こうには米田の姿があった。彼女は、偶然を装って米田とコンタクトを取ったのだ。
ぶつかり合う現実と妄想
回想シーンでは、市子という役名で登場する。訪問看護の仕事をしていて、誠実な仕事ぶりには定評があった。老女の世話をするために通う大石家では家族全員から信頼を寄せられている。長女の基子(市川実日子)とはいい関係で、介護福祉士を目指している彼女の資格取得の勉強を手伝うことも。中学生の次女・サキ(小川未祐)からも慕われている。
勉強会をするのは、行きつけの喫茶店だ。サキも一緒にいたが、彼女は学習塾へ。入れ替わりに入ってきたのが、基子に頼まれて参考書を持ってきたおいの辰男(須藤蓮)だった。戻ってきたサキと、一瞬視線が交わる。学習塾が終わっても、サキは大石家に帰らなかった。数日後、サキは保護されるが、逮捕された犯人を見て基子は言葉を失う。
映画は現在と過去のシーンが入れ替わるように現れ、リサ/市子の心の中で展開される映像も加わる。説明のないまま唐突に場面が変わるので、観客は戸惑いながらついていくしかない。現実と妄想はゴツゴツとした感触でぶつかり合うが、接点はあやふやなものだ。確固としたリアリティーなど存在しない。足元のおぼつかない感覚が、スクリーンから伝わってくる。
市子はいわれのない疑惑をかけられ、生活は崩壊する。メディアスクラムが彼女を追い詰める様子が描かれるが、映画は社会悪を告発しようとしているのではない。市子が決定的に転落するのは、最も身近な位置にいた人の裏切りがきっかけである。しかし、そこに悪意は介在しない。むしろ、原因は愛なのだ。
不条理でも端然と美しい
偶然の重なりが重大な事態を引き起こしていくという展開は、深田作品ではおなじみのものだ。2010年の『歓待』では、主人公の優柔不断さが突拍子もないカオスを作り出していく過程が描かれた。いたたまれなくなるような騒がしい混乱状態が現れるが、まだそこには余裕があった。不条理ではあっても祝祭的で、ドリフ的な結末が笑いを呼んだのだ。
『よこがお』では、むき出しの不条理がごろりと投げ出されているように見える。いくつかのボタンの掛け違いから、市子はリサになることを選択せざるを得ない。明るい希望が見えることはなく、行動原理はネガティブなものになる。リサはサンダルを引きずって歩き、何もない部屋に帰ると体育座りをしてビールを飲む。窓から向かいのマンションを見下ろして犬のようにほえるのは、本当に彼女自身なのだろうか。
異常な行動をとっていても、スクリーンに映し出される彼女は端然たる表情を見せる。深田監督は、「筒井真理子さんの美しい『よこがお』を撮ってみたいという思いが、はじめにありました」と語っている。ヒロインを最大限に美しく見せるのは監督の大切な役割であり、その意味ではこの映画は間違いなく大きな成功を収めた。
リサは美容師の米田との距離を縮めていく。市子だった時にはなかった妖艶(ようえん)さをまとった彼女は、米田と一夜を過ごすことになる。この場面に確かなリアリティーをもたらすことに深田監督は心血を注ぎ、筒井真理子は見事に応えた。彼女の年齢は、池松壮亮のちょうと2倍である。ヘレン・ミレンに代わるMILF女王の称号は彼女に与えられるべきだろう。
人畜無害ではないコンパクトカー
ここまでクルマの話がまったく出ていない。予告編に赤いペンキをかけられた「ダイハツ・エッセ」が映っていたので期待していたのだが、たいした活躍はしなかった。ストーリー展開から想像されるように、よくある犯罪加害者への嫌がらせ描写である。市子が生乾きのペンキを洗車機で洗い流そうとするのが気になったが、さすがにそれだけでクルマ映画として取り上げるわけにはいかない。
諦めかけていた最終盤に、別のクルマが登場した。「トヨタ・プラッツ」である。なんともアンバランスなフォルムを持ち、都会的な洗練とは無縁なデザインの小型セダンだ。乗っている人は間違いなくいい人だと思わせる。人畜無害度では自動車史の中でかなり上位に位置するだろう。そのプラッツが、隠されていた凶暴な顔を見せるのだ。
コンパクトカーであっても、自動車というのは殺傷能力がある。いつでも温和な表情を保っていると思ったら大間違いだ。緊張感は最高潮に達し、恐怖の時間が始まる。小排気量の直列4気筒とは思えない爆音を発してプラッツが暴走する。ドアミラーに映る横顔だけにピントが合った疾走シーンなんて見たことがない。
2015年の『さようなら』ではアンドロイドのジェミノイドFをヒロインに起用した深田監督は、クルマにだって俳優としての役割を持たせているはずである。筒井真理子、市川実日子、池内壮亮、そしてプラッツ。完璧なキャスティングが、この映画の異様なサスペンスのベースとなっているのだ。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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