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現在の価値は20億円以上!?
“史上初のポルシェ”ってどんなクルマ?

2019.08.30 デイリーコラム 伊東 和彦

36年ぶりのざわつき

2019年のモントレー・ヒストリック・カー・ウイークエンドの大きな話題のひとつは、「ポルシェ・タイプ64」がRMサザビーズのオークションに掛けられたことだった。落札価格は2000万ドル(約21億3000万円)に達するとの前評判であったが、一流のオークハウスらしからぬ入札進行での初歩的な失態によって、流札に終わってしまった。

実は、タイプ64は1983年にもモントレーのイベントを訪れている。その頃、タイプ64の存在と歴史的価値を知る人は一部のポルシェ・エンスージアストに限られており、モントレーほど多数の人々が集まる場に現れたのは1983年が初めてのことだった。

鈍い銀色に輝くタイプ64は、「ポルシェ356」のようでもあり、「フォルクスワーゲン・ビートル」の変形にも見えたことで、会場はもちろん世界中で大きな話題となった。案の定、“出生の経緯”を知ったバイヤーたちが、オーナーのオットー・マテの元に大挙して集まることになった。そのマテには手放す気持ちなどみじんもなく、イベント終了後にクルマとともにオーストリアに帰っていった。

マテはポルシェ家からこのタイプ64を購入して以降、1950年代にレースに使い、レースから引退したあとは、1995年に亡くなるまで46年間にわたって所有し続け、自宅に併設した非公開の私的博物館に収めていた。だが、一度、世界中に広く知られてしまったからには、タイプ64はバイヤーたちの目から逃れることはできず、詐欺まがいのものを含めて、彼のまわりに商談が渦巻くことになり、訴訟沙汰にもなっている。

米国カリフォルニア州モントレーで開催されたカーオークション(2019年8月15日~17日)に出展された「ポルシェ・タイプ64」。唯一の現存車とされるこの個体は、自走も可能な状態にある。
米国カリフォルニア州モントレーで開催されたカーオークション(2019年8月15日~17日)に出展された「ポルシェ・タイプ64」。唯一の現存車とされるこの個体は、自走も可能な状態にある。拡大
特徴的な曲面を描くボディーは、軽量なアルミニウムでできている。
特徴的な曲面を描くボディーは、軽量なアルミニウムでできている。拡大
完成当時の「タイプ64」の姿を伝えるモノクロ写真。1939年の誕生から、ちょうど80年が経過したことになる。
完成当時の「タイプ64」の姿を伝えるモノクロ写真。1939年の誕生から、ちょうど80年が経過したことになる。拡大
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初のポルシェのロードカー

なぜ、タイプ64がそれほど高く評価されているかといえば、初めてポルシェの名を冠したクルマだからにほかならない。また、このクルマがたどった数奇な運命が、ポルシェという企業の黎明(れいめい)期の姿を表していることもあろう。

2018年、ポルシェはスポーツカー生産開始から70周年を祝った。その根拠としているのが、ポルシェが疎開先のグミュントで製作し、1948年6月8日に完成した「356/1ロードスター」である。これはフォルクスワーゲン・ビートルのパーツを用いたミドエンジン車で、その完成後にリアエンジンの「356/2」アルミ製クーペの2台が製作された。現在のポルシェ社の起点であるDr.Ing.,h.c.Ferdinand Porsche GmbH(1931年創立)は、自動車や航空機などの設計・試作を請け負う企業であり、自らクルマを製造するのは1948年からであった。これが356を起点とするポルシェ生産車の源流とされている。

だが、後の356の誕生につながる“ロードカー”として第2次大戦前の1939年にポルシェ・タイプ64が誕生。3台だけ製作されている。ベースとなったのは、ポルシェ設計事務所が当時のドイツ政府からの依頼によって社内コードネーム「タイプ60」として開発した、フォルクスワーゲン(1938年の完成と同時に「KdF」と改称)であった。

タイプ64が製作された目的は、ベルリンをスタートしてオーストリアを経由してローマにゴールする、1500kmのロードレースに出場するためであり、1939年9月に第1号車が完成している。このレースは、ドイツとイタリアという枢軸側の権勢を広く知らしめる政治色の濃いものだったが、スタート2週間前にドイツ軍がポーランドに侵攻、レースは実現されなかった。

優れた空力性能を感じさせる流線形のフォルム。「タイプ64」のエクステリアデザインは、後の「356」や「911」にも継承されている。
優れた空力性能を感じさせる流線形のフォルム。「タイプ64」のエクステリアデザインは、後の「356」や「911」にも継承されている。拡大
明るい色調のインテリア。極力オリジナルを保ってレストアを受けているため、ドアパネルとシート地のほつれや染みが残り、今日に至る歳月を感じさせる。右手を事故で失ったマテが所有していた時期には右ハンドルに改造されていたが、現在は左ハンドルに戻されている。
明るい色調のインテリア。極力オリジナルを保ってレストアを受けているため、ドアパネルとシート地のほつれや染みが残り、今日に至る歳月を感じさせる。右手を事故で失ったマテが所有していた時期には右ハンドルに改造されていたが、現在は左ハンドルに戻されている。拡大
フロントサスペンションはフォルクスワーゲンのままの、トーションバー式ダブルトレーリングアームなので、荷室スペースは浅いが、なんとかスペアタイヤも搭載可能。
フロントサスペンションはフォルクスワーゲンのままの、トーションバー式ダブルトレーリングアームなので、荷室スペースは浅いが、なんとかスペアタイヤも搭載可能。拡大

タイプ64こそ356の祖

もともと、ポルシェ博士はフォルクスワーゲンの開発段階から、その主要コンポーネンツを流用してスポーツカーを製作する計画を抱いていた。だが、ドイツ政府は国民車にはスポーツカーは必要ないとして、ポルシェの計画を封じ込めてしまった。そこに湧き上がったベルリン・ローマ・レースの開催をポルシェは好機と捉え、長距離レースこそKdFの耐久力を誇示する最適な場になると政府を説得し、3台の製作許可を得た。ポルシェはまだスポーツカーの生産化を諦めてはおらず、型式名をタイプ64から「タイプ60K10」へと変更したくらいである(稿は正式名のタイプ64として進める)。

タイプ64の設計陣は、フォルクスワーゲンを完成させ、後にポルシェ356の開発にあたるメンバー。エンジンや変速機、懸架装置はフォルクスワーゲンからの流用であった。完成時にはフォルクスワーゲンの生産型と同じ985ccユニットをツインキャブ等で最高出力32PSにパワーアップして搭載。その後、軍用車の「キューベルワーゲン」用1131ccに換装し、さらなる出力増強を図っている。風洞実験によって形状を決定した総アルミ製ボディーはロイター社が架装し、車重は545kgと極めて軽量で、一般道でも135km/hの巡航が実証された。

1939年と翌40年には2台がポルシェ社の実験車の名目で完成。1台がポルシェ博士の足になるなど、2台のタイプ64は膨大な距離を走り込み、そのデータは後にタイプ356を開発する際に生かされた。

コックピットのつくりはシンプルそのもの。中央にメーターを配するのはフォルクスワーゲンと同様で、パーツの一部を流用している。
コックピットのつくりはシンプルそのもの。中央にメーターを配するのはフォルクスワーゲンと同様で、パーツの一部を流用している。拡大
リアに搭載される、空冷の1.1リッター水平対向4気筒エンジン。軍用車「キューベルワーゲン」のものに換装され、さらにマテが所有していた時代に「356」用の1.3リッターに交換されている。
リアに搭載される、空冷の1.1リッター水平対向4気筒エンジン。軍用車「キューベルワーゲン」のものに換装され、さらにマテが所有していた時代に「356」用の1.3リッターに交換されている。拡大

かけがえのない歴史的遺産

気になる3台の行方だが、1号車は1941年にKdF労働組合幹部が事故で全損させ、このシャシーが3号車に転用されたことがわかっている。2号車も事故に遭遇して修理を受けたが、戦後にドイツに駐留してきた米兵がポルシェ家から接収して、狭いからとルーフを切り取ったほか、酷使したあとでスクラップにしてしまった。こうしてポルシェ親子が愛用していた3号車だけが唯一生き残り、1947年にポルシェはその修復をピニン・ファリーナに託している。修復から間もない1948年7月、ポルシェは完成したばかりの356/1ロードスターをインスブルックのサーキットで観衆に披露したが、その場でタイプ64に一目ぼれしたレーシングドライバーのオットー・マテが1年後に入手。前述したように、それから46年後の1995年11月にオットー・マテが88歳に亡くなるまで手放さなかった。

オットー・マテの没後に入手した人物は著名なポルシェ研究家のトーマス・グルバーで、修理の際には構造を解明しようとシャシーとボディーを分離して、フォルクスワーゲンに流線形のボディーをかぶせたスペシャルではなく、フォルクスワーゲンがベースながら、広範囲に強化を図った専用シャシーを持っていることを証明した。また、英国人研究家のクリス・バーバーは、タイプ64のノーズに備わる“PORSCHE”のロゴはフェリー自身が添えたという事実をフェリーの元秘書の証言によって明らかにした。つまり、これが正真正銘のポルシェ、それも最初のポルシェであることが証明されたことになる。また彼は、タイプ64はフォルクスワーゲンよりもポルシェに近い成り立ちであるとしている。

ご理解いただけたと思うが、タイプ64はまさしく356の祖であり、ポルシェにとって重要なモデルであることは明らかである。本来なら、真っ先にポルシェ社自身が収蔵するべきクルマであろう。だが、ポルシェ社は戦争直後の社会的な風潮を考慮して、プロパガンダから生まれたタイプ64の存在を自ら遠ざけていた。しかしながら、フェリー・ポルシェは、「あれはいずれ帰ってくる……」と周囲に漏らしていたという。そして時は流れ、ポルシェ博物館にはタイプ64の複製ボディーシェルが展示されるようになった。さらに、ハンブルクのプロトタイプ博物館は、マテのクルマを3D計測して、寸分違わぬ複製車を製作したが、それには多くの“実質的な”オリジナル部品が含まれているという。こうしてタイプ64が戻って来る環境は整備された。

もし、モントレーでのオークションが成立していたのなら、この極めて重要な歴史的ポルシェはどこに収蔵されたのだろうか。いずれ、公になるときが楽しみである。

この稿を書き上げたところで、フェルディナント・ポルシェ博士の孫に当たるフェルディナント・ピエヒ博士(1937年4月17日~2019年8月25日)の訃報に接した。ポルシェ在籍時代には、「911S」用エンジンの開発でキャリアをスタートさせ、「917」の開発を陣頭指揮したポルシェのレース活動の核であった人物だ。彼が多感な少年時代、老ポルシェ博士とともに、タイプ64はまだポルシェ家のものであった。フェリー亡き後、せめてピエヒが存命中にポルシェに戻ってきてほしかったと、そう思ったポルシェ・エンスージアストは少なくないだろう。

(文=伊東和彦<Mobi-curators Labo.>/写真=RMサザビーズ、ポルシェ、Mobi-curators Labo./編集=関 顕也)

ポルシェのヒストリーを紹介するポルシェ博物館には「タイプ64」のボディーシェル(複製)が展示されている。
ポルシェのヒストリーを紹介するポルシェ博物館には「タイプ64」のボディーシェル(複製)が展示されている。拡大
フロントノーズには“PORSCHE”のロゴが添えられる。リアにロゴが並ぶ現代のポルシェ車とは対照的。
フロントノーズには“PORSCHE”のロゴが添えられる。リアにロゴが並ぶ現代のポルシェ車とは対照的。拡大
オークションでの売買は成立せずとも、あらためてその価値を示した「ポルシェ・タイプ64」。今後どう歩んでいくのか、興味は尽きない。
オークションでの売買は成立せずとも、あらためてその価値を示した「ポルシェ・タイプ64」。今後どう歩んでいくのか、興味は尽きない。拡大
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