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第623回:鬼才デザイナー、ルイジ・コラーニ逝く
大矢アキオ、氏の手がけた製品の愛憎半ばする使用感を語る

2019.09.27 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ

「バイオデザイン」の開祖

工業デザイナーのルイジ・コラーニ氏が2019年9月16日、ドイツのカールスルーエで死去した。91歳だった。

ルイジ(本名:ルッツ)・コラーニ氏は1928年ベルリンに生まれた。子ども時代に玩具(がんぐ)製作に親しんだことからデザインに関心を抱いた。ベルリン美術アカデミーとパリ大学で学んだあと、1953年に米国のダグラス社で航空用新素材の研究者の職に就いた。

1年後、ヨーロッパに戻り活動を開始。高級コーチワーカー、エルトマン&ロッシとの自動車計画や、自身の名前を冠した車両改造キットなどを手がけた。

1972年からはドイツ中部ハーコッテン城を拠点とし、「バイオデザイン」と名付けた有機的な形状の輸送機器やプロダクトデザインを多数提案した。うつぶせになって観劇するシアターなど、建築に関する数々のアイデアも提示した。

1991年には「フェラーリ・テスタロッサ」をベースにした、「テスタドーロ(金のヘッド)」と名付けたワンオフスーパースポーツを発表。翌1992年にソルトレイクシティーで「ブガッティEB110」よりも速い最高速351km/hを記録した。

2018年「エッセン・テヒノクラシカ」に出展された、ルイジ・コラーニ氏作の1961年「コラーニGT」。キットとして販売された。
2018年「エッセン・テヒノクラシカ」に出展された、ルイジ・コラーニ氏作の1961年「コラーニGT」。キットとして販売された。拡大
「コラーニGT」は「フォルクスワーゲン・タイプI(ビートル)」をベースとする。コラーニ氏の活動歴では初期の作品だが、彼のアイコンである有機的な曲線の萌芽(ほうが)が見られる。
「コラーニGT」は「フォルクスワーゲン・タイプI(ビートル)」をベースとする。コラーニ氏の活動歴では初期の作品だが、彼のアイコンである有機的な曲線の萌芽(ほうが)が見られる。拡大

“変な”メガネフレームをあえて買ってみた

コラーニ氏は日本ともさまざまな接点があった。最も交流が活発だった時期は、1980年代中盤である。

一例は、陶磁器メーカーのたち吉とのコラボレーションである。卵をイメージしたカップは「宇宙に直線はない」という彼のモットーにしたがったもので、フラットな高台(底面)を持たなかった。したがってソーサーがないと立たないという、極めてユニークなものであった。それでも、コラーニ氏がこのカップ&ソーサーを持ってほほ笑む姿は、当時彼のオフィシャル写真で最も有名なもののひとつだった。

また、キヤノンによる1986年の一眼レフカメラ「T90」、愛称“タンク”の先行開発においては、コンセプトとなるデザインを提供した。

当時高校生だった筆者は、三栄書房(現・三栄)や小学館から発売されていた作品集を手に入れ、そこに展開されていた大胆で、時にはエロティックなモックアップやイラストレーションに引かれていた。

そうした折、東京の玉川高島屋で開催された彼の講演会に行く機会があった。内容は、コラーニ氏がさまざまな作例を示しながら、バイオデザインについて語るというものであった。

だが、筆者の記憶に最も残っているのは、質疑応答におけるコラーニ氏と観客とのやりとりだ。若者のひとりがコラーニデザインの腕時計「ウルナ・ウオッチ」の人間工学性について「よくわからない」と質問したのだ。

コラーニ氏は熱心に彼の問いを聞いてから、「この講演会が終わったら詳しく説明するので、あとでおいでください」と答えた。今日でいうB to Bの取引がビジネスの中心であった彼が、一般の若者を真剣に相手にする姿が印象的だった。

感銘を受けた筆者は、コラーニデザインのペリカン製ボールペンを記念に1本買って帰った。これが自ら手にした最初のコラーニ作品だった。

いっぽう残念ながら、前述の立たないたち吉のカップ&ソーサーは、財布を握っている親には、何が面白いのか理解してもらえなかった。

代わりに買ってもらえたのは「メガネ」だった。左右の蝶番(ちょうつがい)が一般的なフレームよりも低く設定されていた。それにともないテンプル(つる)も低い位置から始まり、耳に向かってコラーニらしいカーブを描くデザインだった。左右の視界が妨げられないというのがセリングポイントだった。

実際に装着した感じはといえば、正直なところ、それほど左右の視界が画期的に向上したという印象はなかった。そればかりか、上下逆さにかけているように見えたことから、先輩たちの間では自分のメガネを逆さにかけて、「大矢君!」という瞬間芸がはやってしまい、筆者としては複雑な気持ちになった。

ルイジ・コラーニ氏デザインのメガネフレームを装着する高校3年生の筆者。1984年。
ルイジ・コラーニ氏デザインのメガネフレームを装着する高校3年生の筆者。1984年。拡大

「科学万博」から「スーツケース」まで

話は前後するが、高校を卒業したときの春休みには、筑波研究学園都市で始まったばかりの「国際科学技術博覧会(科学万博)」に行った。コラーニ氏がデザインを監修した「芙蓉(ふよう)ロボットシアター」を真っ先に見るため、夏の間に「チケットぴあ」で前売り券を買っておいた。

ところが同シアターは会場でも一、二を争う大人気パビリオンに。とても見学できるものではなくなってしまった。

仕方がないので売店に行くと、ショーで活躍していたコラーニデザインの「ベビーロボット」のミニチュアが販売されていた。トミー(現タカラトミー)製のこれは、それなりに高価だったので購入を断念せざるを得なかった。参考までに同社は、コラーニ氏デザインの「チョロQ」もリリースした。

さらに、大学1年の夏休みに再び万博会場を訪れても、芙蓉ロボットシアターを見ることはかなわなかった。

ところがどうだ。再び売店をのぞいてみると、例のトミー製ベビーロボットが、閉幕直前のために大幅値引きされているではないか。

早速購入して帰った。主なアクションといえば、壁などの障害物にぶつかると向きを変えるだけであった。のちの「ソニー・アイボ」と比べれば、“ロボット”という名称を用いるのはいささか大げさなほどであった。だが、首を左右に振る動きが楽しくて、家の畳の上でしばらくの期間遊んでいたものである。

日本でいうところの平成第1期生として社会人になってから手に入れたコラーニ作品といえば、松崎のハードスーツケースであった。

勤務先の出版社では、最初の海外出張の際に「支度金」として数万円が支給される制度があった。そのお金の大半を投じて買ったのである。

学生時代、旅行カバンはレンタルしていたから、生まれて初めての「自己所有スーツケース」がコラーニということに、少なからず心躍った。

またイラストに示したように、このスーツケースにはさまざまなアイデアが盛り込まれていた。

だが、せり上がる左右のレバー部分に、旅先の客室で足を引っ掛けて何度痛い思いをしたことか。

そのうえ、本体の材質も今日の軽量スーツケースの多くに使われているポリカーボネートでなくプラスチックであったから、やたら重かった。

こうして思い起こせば、ずいぶんとコラーニに“投資”してしまったものである。

それでも筆者が1996年、シエナに最初の一歩を記したとき、バイオリン一丁とともに持ってきたのは、そのコラーニのスーツケースであった。余談だが、それは今から8年ほど前に処分するまで、わが家の物置で書類入れとして余生を送っていた。

1985年に「つくば科学万博」で入手した「ベビーロボット」を楽しむ、大学生時代の筆者の図。
1985年に「つくば科学万博」で入手した「ベビーロボット」を楽しむ、大学生時代の筆者の図。拡大
マルエム松崎のスーツケース「コラーニ」。
マルエム松崎のスーツケース「コラーニ」。拡大

コラーニ作品の価値

しかしながら今日の欧州生活で、実際に接することができるコラーニ作品は極めて少ない。

ゆえに2018年、ドイツ・エッセンで開催されたヒストリックカーショー「テヒノクラシカ」に、初期の作品である1961年「コラーニGT」の実車がさりげなく出品されていたときには驚いたものだ。

手に取れる製品が少ないのは、デザイン活動の中心が提案の形であったためだと考えられる。例えば、製品の先行試作段階におけるスケッチ提供といったものだ。

コラーニ氏が最もラジカルな提案を連発した1980年代当時、クルマであれ他のプロダクトであれ、その複雑な造形を量産品で実現するには問題が多すぎた。

素材の成形技術はある程度存在していても、コストが見合わなかったのである。

2000年代以降、アジア新興国で実現したように、プレスや樹脂成形した製品を低コストで供給できる環境が整っていたら、コラーニ氏のさまざまなアイデアは、もっと多くが製品化されていたと察することができる。

歴史的な観点から見れば、コラーニ氏のバイオデザインは、19世紀末アールヌーヴォーの旗手エクトール・ギマールや、エミール・ガレと同じ方向を目指していた。

ギマールは自然の草花にモチーフを求め、それを1900年のパリ万博に合わせて開通した地下鉄駅の入り口アーチに反映した。急速に人工化する都市の景観に自然を反映することで、市民に安堵(あんど)をもたらす演出をしたのである。

コラーニ氏は顕微鏡を用いて、さまざまな自然の物体を観察していた。そしてその成果を自動車や航空機のデザインにつなげた。1970~80年代におけるイタリアの、ベルトーネやジウジアーロによるウエッジを強調したデザインに対するアンチテーゼであったに違いない。

そうしたイタリアのデザイナーらとコラーニ氏との大きな違いは組織であった。ジウジアーロの場合、彼のアイデアを具体的なものにするエンジニアリング担当のアルド・マントヴァーニ氏と世界で作品をセールスする宮川秀之氏という、いわばドリームチームが背後にあった。コラーニ氏は、それに相当する組織を持たなかった。

しかしながらコラーニ氏は、時に逸脱ともとれるような誇張表現を、いわば自身のブランド価値とし、それに成功していた。

自動車デザインが行き詰まりともいえる閉塞(へいそく)感に満ちている今、こうした強い刺激を与えてくれるデザイナーがいなくなったことが悔やまれる。

ちなみに、前述のたち吉は2015年に投資ファンドの傘下に入り、創業家が経営から退いている。松崎も2010年に自己破産している。

意欲的なクリエイターのアイデアをあえてカタチにする、パトロンのような企業が消えていく。コラーニ氏の他界をきっかけに、日本のデザイン文化の行く先をも憂う筆者である。

(文と写真とイラスト=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/編集=藤沢 勝)

2018年「エッセン・テヒノクラシカ」の会場で「コラーニGT」は、10年間所有したオーナーにより、2万5000ユーロで出品されていた。
2018年「エッセン・テヒノクラシカ」の会場で「コラーニGT」は、10年間所有したオーナーにより、2万5000ユーロで出品されていた。拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナ在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、22年間にわたってリポーターを務めている。『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。最新刊は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。

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