第225回:アメリカへの自由の旅はマスタングで
『ストックホルム・ケース』
2020.11.05
読んでますカー、観てますカー
テキサス人を気取る銀行強盗
ストックホルム症候群という言葉は、誘拐や監禁などの被害者が犯人に同情と共感を抱いていく心理的作用を意味する。1974年のパトリシア・ハースト事件が有名だ。過激派に連れ去られた新聞王の孫娘が2カ月後には彼らと一緒に銀行強盗を行ったことが報じられ、アメリカ社会に大きな衝撃を与えた。日本でも、よど号ハイジャック事件、三菱銀行人質事件などが知られる。渡辺 謙主演の『ベル・カント とらわれのアリア』は、1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件を元にした映画だった。
『ストックホルム・ケース』は、この言葉が生まれるきっかけとなった強盗事件を描く。舞台はスウェーデン・ストックホルムのノルマルム広場。1973年8月の出来事である。登場人物の名前が変えられているし実際は6日間だったのを3日間に短縮しているが、おおむね事実に忠実な物語になっているようだ。
さえない悪党のラースは、船に乗ってやってくる。黒の革ジャンと革パンでキメ、長髪のカツラにハットでコーディネート。スウェーデン人なのに、いでたちはアメリカンだ。彼はアメリカに憧れ、金を手に入れて海を渡ろうと考えている。犯行方法は雑だ。銀行に入ってマシンガンをぶっ放し、銀行員を人質に取る。電話で要求を伝えると、異様に顔の長い警察署長が交渉に来た。平和な国だから凶悪事件の経験がなく、稚拙な対応しかできない。どちらも経験が乏しいから、時間はゆるゆると進む。牧歌的な展開で、いささか緊迫感に欠ける。
ラースは警察署長にテキサス州旗がプリントされた革ジャンの背中を見せ、「Remember the Alamo!」とタンカを切った。アラモの戦いでヒューストン将軍が発した言葉を叫んだわけで、テキサス人を気取っているのだ。
シトロエンDSの退場が示すもの
ラースの要求は、刑務所に入っているグンナーを出所させること。さらに逃走用の金とクルマもよこせと言う。スウェーデンなのに、ボルボやサーブではダメらしい。「スティーヴ・マックィーンの『マスタング』を用意しろ」と車種を限定するのだ。警察署長も「『ブリット』で乗っていたクルマですね」と応じていて、この地でもハリウッド映画が人気だったのだろう。ラースとグンナーは、人質たちに『ゲッタウェイ』の話をしていた。マックィーン全盛期である。
マスタングはサンフランシスコ警察のブリット警部補が乗っていたのだから、本来は犯人側の「ダッジ・チャージャー」を選ぶべきだ。まあ、カッコよければOKなのだ。要求通り、ブルーのマスタングが銀行の正面にとめられた。もともとその場所にあったのが同じ色の「シトロエンDS」だったことは意図的だろう。文化の発信地がフランスからアメリカに移ったことを暗示しているのだ。
ほかには「ボルボ・アマゾン」や「ボルボ145」などが並んでいた。丸いボルボから四角いボルボへの移行期である。1973年は第1次オイルショックが始まった年でもあり、世界中で大きな変動が起きていた。
アメリカでは前年にウォーターゲート事件が発覚し、ニクソン大統領が追い詰められつつあった時期である。スウェーデンの首相は社会民主主義者のオロフ・パルメで、はっきりとアメリカの政策に批判的な態度を示していた。不機嫌なパルメは強盗事件の犯人に妥協することを禁じ、事態は膠着(こうちゃく)状態に。非情な姿勢を崩さない政府と警察に対して人質たちもいら立ちを隠せなくなり、次第に犯人たちとの一体感を持ち始める。
楽園の象徴としてのボブ・ディラン
全編を通じて流れるのが、ボブ・ディランの名曲の数々である。『新しい夜明け』『トゥ・ビー・アローン・ウィズ・ユー』など、明るい曲調の歌が多い。これもアメリカの象徴なのだ。ラースが憧れる自由と豊かさが表現されている。しかし、アメリカは楽園ではない。どの国も、それぞれに問題を抱えている。ラースは幻影を求めているのだ。マスタングでアメリカンドリームをつかむ旅に出ることはできない。
刑務所に入るなら、アメリカはやめたほうがいい。自由主義には弱肉強食がセットとなっていて、野蛮さがついてまわるのだ。映画のラストで見せられるのは、人権が重んじられて福祉が充実したスウェーデンならではの快適な刑務所生活である。実際の犯人は、出所後にタイに渡って結婚したという。そこで幸せを見つけたかどうかはわからない。
ラースを演じたのはイーサン・ホーク。監督のロバート・バドローとは、2015年の『ブルーに生まれついて』以来のタッグとなる。チェット・ベイカーの半生を描いた映画で、高い評価を受けた。色合いの異なる作品でともに成功しているのだから、この2人は相性がいいのだろう。ユーモアと哀愁のブレンドが絶妙だ。マーク・ウォールバーグとピーター・バーグ監督のような名コンビとなるかもしれない。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。