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今年は「ミライ」の10周年で「都営バス」の100周年! 自動車の歴史を10年周期で振り返る

2024.03.01 デイリーコラム 鈴木 真人
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1974年に登場した初代「フォルクスワーゲン・ゴルフ」。今回は希代の名車の誕生50周年にあやかり、10年周期で自動車の歴史を振り返る。
1974年に登場した初代「フォルクスワーゲン・ゴルフ」。今回は希代の名車の誕生50周年にあやかり、10年周期で自動車の歴史を振り返る。拡大

古きをたずね新しきを知る

2024年は「フォルクスワーゲン・ゴルフ」が誕生して50年のアニバーサリーイヤーである。1974年に「タイプ1(ビートル)」の後継車としてデビュー。直列4気筒エンジンをフロントに搭載して前輪を駆動するハッチバック車で、その高い合理性と実用性で小型車のベンチマークとなった。現在は8代目となっており、累計生産台数は3700万台を超えている。自動車史に残る名車なのは間違いない。

ただ、最近ではSUVに押されて存在感が少しずつ薄れているのも事実。50年もたてば技術もトレンドも変化するのは当然のことだ。半世紀という歳月はもはや歴史である。今回はゴルフの50周年にあやかり、10年周期で自動車史を振り返ってみたい。そこからは、これから迎える未来が見えてくるかもしれない。

まずは切りのいい100年前、1924年からだ。

「T型フォード」のトラックをベースに製造されたバス。「円太郎バス」というのはいわゆるあだ名で、落語家の名前に由来するものだった。
「T型フォード」のトラックをベースに製造されたバス。「円太郎バス」というのはいわゆるあだ名で、落語家の名前に由来するものだった。拡大

◆1924年(100年前)
震災後の東京をバスが走る

今こうしているときも、能登半島地震の被災地では自治体やボランティアが復旧・復興に尽力していることだろう。ちょうど100年前の日本では、首都・東京が復興の途上にあった。1923年9月1日に発生した関東大震災により、都市機能が壊滅したのだ。

震災から4カ月後、東京市で「円太郎バス」が運行を始める。元祖「都バス」である。当時は復興のために自動車が必要とされていたが、日本ではまだ産業が育っておらず、フォードから「T型トラック」を輸入して11人乗りのバスに仕立てていた。翌年にはフォードが横浜に工場を建設し、T型のノックダウン生産が始まる。同じ年に日本初の本格的な量産車「オートモ号」がつくられるが、世界との差はとてつもなく大きかった。

1934年に登場した「シトロエン7CV」。これ以前にも前輪駆動のクルマは存在したが、少量生産の特殊なクルマがほとんどで、量産・量販にこぎ着けたのは「トラクシオン アヴァン」が初だった。
1934年に登場した「シトロエン7CV」。これ以前にも前輪駆動のクルマは存在したが、少量生産の特殊なクルマがほとんどで、量産・量販にこぎ着けたのは「トラクシオン アヴァン」が初だった。拡大
トヨタ自動車の創始者とされている豊田喜一郎(1894-1952)。
トヨタ自動車の創始者とされている豊田喜一郎(1894-1952)。拡大

◆1934年(90年前)
FF大衆車登場&トヨタ自動車の萌芽

1934年、フランスで画期的なモデルが生み出された。「シトロエン7CV」である。愛称の「トラクシオン アヴァン」のほうがよく知られているだろう。前輪駆動という意味だ。今では市販車に広く採用される駆動方式だが、当時は技術的ハードルが高かった。モノコックボディーとトーションバーサスペンションを採用する先進的な設計も特徴で、直進安定性の高さと広い室内が高く評価された。

この年、日本では豊田自動織機製作所の株主総会で自動車事業進出が正式に決定する。技術者を率いた豊田喜一郎は「年内に試作第1号車を完成させる」と宣言したが、開発は難航。最初の製品となった「トヨダG1型トラック」が発表されたのは1935年11月のことだった。

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戦時中はどの国でも軍需が優先で、新しい乗用車が開発される余地はなかった。日本では1943年にヂーゼル自動車工業(後のいすゞ自動車)が「PA10型乗用車」を開発しているが、これも政府の依頼によって試作したものだ。
戦時中はどの国でも軍需が優先で、新しい乗用車が開発される余地はなかった。日本では1943年にヂーゼル自動車工業(後のいすゞ自動車)が「PA10型乗用車」を開発しているが、これも政府の依頼によって試作したものだ。拡大

戦争・復興・消費者文化

◆1944年(80年前)
第2次世界大戦が生んだ空白

次は1944年だが、自動車に関するトピックはほとんど見つからない。第2次世界大戦のさなかで、どの自動車メーカーも軍用車の生産に注力していたからだ。アメリカでは「ジープ」や2.5tトラック、ドイツでは「キューベルワーゲン」が大量につくられていた。日本も同様で、軍需品生産を指令された自動車メーカーに乗用車開発に取り組む余裕はなかったのである。

1954年に日比谷公園で開催された第1回全日本自動車ショウの様子。英語表記は後の東京モーターショーと同じく、「TOKYO MOTOR SHOW」だった。
1954年に日比谷公園で開催された第1回全日本自動車ショウの様子。英語表記は後の東京モーターショーと同じく、「TOKYO MOTOR SHOW」だった。拡大

◆1954年(70年前)
日本でも芽吹いた自動車ショーの機運

戦後、日本の自動車メーカーはノックダウン生産を請け負うことで技術力を高めていった。その成果が表れ始めた1954年に、第1回全日本自動車ショウが開催される。後の東京モーターショー、ジャパンモビリティショーだ。当時の出展は8割ほどが商用車だったが、10日間で54万7000人が訪れる人気を博した。数少ない乗用車のなかで、注目を集めたのが「スズキ・スズライト」である。2ストロークの360cc 2気筒エンジンを搭載する前輪駆動の軽自動車は、庶民でもクルマが持てるかもしれないという希望を抱かせた。

初代「フォード・マスタング」を発表するヘンリー・フォード2世。マスタングの登場はスペシャリティーカーというジャンルの創出にとどまらず、後の自動車の商品企画やマーケティングに、多大な影響を与えることになった。
初代「フォード・マスタング」を発表するヘンリー・フォード2世。マスタングの登場はスペシャリティーカーというジャンルの創出にとどまらず、後の自動車の商品企画やマーケティングに、多大な影響を与えることになった。拡大

◆1964年(60年前)
“スペシャリティーカー”の誕生と拡散

1960年代のアメリカでは消費文化が花開いていた。戦後生まれの若者たち、いわゆるベビーブーマーが成人となる時期である。彼らに向けた新しいクルマを開発すれば、広大なマーケットを手に入れることができるはずだ。

フォードが1964年4月17日に発表したのが「マスタング」である。ロングノーズ、ショートデッキのスポーティーなスタイルを持ち、コンパクトで低価格。豊富なオプションが用意されているのも魅力で、熱狂的に歓迎された。ライバルもこの戦略に追従し、1967年には「シボレー・カマロ」が、1970年には「ダッジ・チャレンジャー/プリマス・バラクーダ」が登場している。

スペシャリティーカーが体現した、スポーティーなイメージとオプション装備でユーザーを魅了する手法は、後にアメリカから世界へと拡散。日本でも多くのメーカーがこれに倣った。

1974年11月に登場した「いすゞ・ジェミニ」。1970年代は姉妹車を用いたグローバルカー戦略が大きく広まった時代で、GMの成功を見てフォードやアルファ・ロメオ/フィアット/ランチア/サーブ連合などが続いた。
1974年11月に登場した「いすゞ・ジェミニ」。1970年代は姉妹車を用いたグローバルカー戦略が大きく広まった時代で、GMの成功を見てフォードやアルファ・ロメオ/フィアット/ランチア/サーブ連合などが続いた。拡大

経済のありようでガラリと変わるトレンド

◆1974年(50年前)
“姉妹車”とグローバル戦略

ゴルフが誕生したこの年、日本では「いすゞ・ジェミニ」がデビューしている。いすゞは戦後に「ヒルマン・ミンクス」のノックダウン生産で乗用車の製造をスタートし、「ベレット」「117クーペ」などの独自モデルを生み出していた。いずれも好評を博したものの市場で大きなシェアを得ることはできず、1960年代には経営が悪化。1971年にアメリカのゼネラルモーターズ(GM)と資本提携する。

GMが推進していた「グローバルカー構想」のなかで生まれたのがジェミニだ。「オペル・カデット」をベースとしていて、「シボレー・シェベット」や「ポンティアック1000」は姉妹車である。今では当たり前のこととなっている、グローバルカーによるブランドの枠を超えた世界戦略。その端緒にある一台がいすゞ・ジェミニだった。

1984年8月に発売された5代目「トヨタ・マークII」。ボディータイプには先代でも高い人気を誇った4ドアハードトップと、6ライトのセダン、ワゴン(1984年11月発売)の3種類が用意された。
1984年8月に発売された5代目「トヨタ・マークII」。ボディータイプには先代でも高い人気を誇った4ドアハードトップと、6ライトのセダン、ワゴン(1984年11月発売)の3種類が用意された。拡大

◆1984年(40年前)
人が浮かれればクルマも浮かれる

日本がバブル景気に浮かれていた1984年、大人気だったのがハイソカーである。上級感のあるクルマを意味する和製英語で、4ドアハードトップや2ドアクーペが多い。「トヨタ・ソアラ」や「日産ローレル」などがもてはやされた。この年、「トヨタ・マークII」が5代目となり、姉妹車の「チェイサー」「クレスタ」とともに大人気となる。「マークII三兄弟」はナンパの必須アイテムと目されていたのだ。

圧倒的な支持を集めたボディーカラーが「スーパーホワイト」である。輝くような白が高級感とエレガンスの象徴とされていた。「TWINCAM」「TURBO」といったバッジも重要なパーツだ。スポーティーであることを示す無敵のお札だったのだ。

当時のミニバンとしては珍しく、乗用車用のプラットフォームをベースに開発された「ホンダ・オデッセイ」。商用車ベースのライバルより洗練された操作性と乗り心地を備えており、ホンダとしても予想外の大ヒットとなった。ちなみに開発には、F1や軽自動車事業で何度もホンダを救っている、浅木泰昭氏も携わっている。
当時のミニバンとしては珍しく、乗用車用のプラットフォームをベースに開発された「ホンダ・オデッセイ」。商用車ベースのライバルより洗練された操作性と乗り心地を備えており、ホンダとしても予想外の大ヒットとなった。ちなみに開発には、F1や軽自動車事業で何度もホンダを救っている、浅木泰昭氏も携わっている。拡大

◆1994年(30年前)
“モノ消費”から“コト消費”へ

バブルがはじけると、人々は地道な日常へと戻っていく。クルマも“見え”より、家族でお出かけする楽しさが求められるようになった。そんな時代の変化を象徴する一台となったのが、1994年10月に登場した「ホンダ・オデッセイ」である。「アコード」のプラットフォームを利用してつくられたミニバンで、乗用車的な運転感覚と、家族みんなが快適に出かけられる乗り心地がウケた。当時のミニバンは商用バンの派生が多く、乗り心地や操縦安定性に問題のあるものが多かったのだ。

セダンやクーペの売れ行きが落ちてきた時期で、ホンダはファミリーカー市場で出遅れていた。開発資金が乏しいなか、苦肉の策でアコードベースのオデッセイを投入すると、思いがけないヒット作に。これに味をしめ、ホンダは「クリエイティブ・ムーバー」戦略を展開する。「CR-V」「ステップワゴン」「S-MX」といったニューモデルで、一気にトップに躍り出たのだ。

2004年6月に登場した「トヨタ・パッソ」(右下)と「ダイハツ・ブーン」(左上)。トヨタにおける最小コンパクトカーと、ダイハツにおける上級コンパクトカーの役割を担っていた。
2004年6月に登場した「トヨタ・パッソ」(右下)と「ダイハツ・ブーン」(左上)。トヨタにおける最小コンパクトカーと、ダイハツにおける上級コンパクトカーの役割を担っていた。拡大

10年先ですら占うのは難しい

◆2004年(20年前)
トヨタとダイハツが国内向けコンパクトを共作

昨今、いささか残念なかたちで注目を浴びているトヨタとダイハツの関係だが、両社の協業の端緒ともいえるモデルが登場したのが2004年だった。6月発売の「トヨタ・パッソ/ダイハツ・ブーン」は、2社が国内で初めて商品企画の段階から共同開発したコンパクトカーであり、軽自動車で磨かれたダイハツの技術が盛り込まれていた。

バブル崩壊後、経済の低迷により消費意欲が減退するなかで、安価で実用的なコンパクトカーは広く受け入れられるようになった。トヨタでは1999年に初代「ヴィッツ」の販売が始まり人気となっていたが、さらに小さなモデルが求められていたのだ。

そうした世相もあり、コンパクトカーは急速に多様化していく。トヨタはスライドドアを持つ「アイシス」を追加投入し、日産は「ティーダ」と「ラフェスタ」で対抗。「ホンダ・フィット」はすでに「トヨタ・カローラ」の地位を脅かす存在で、マツダは売れ筋の「デミオ」をベースに豪華仕様の「ベリーサ」を仕立てた。コンパクトカーという小さな枠のなかで、マーケットの縮図のようなフルラインナップ化が進められていった。

2014年11月に発表、12月に発売された初代「トヨタ・ミライ」。現在は2020年12月に発売された2代目ミライや、「クラウン セダン」のFCEVモデルが活躍している。
2014年11月に発表、12月に発売された初代「トヨタ・ミライ」。現在は2020年12月に発売された2代目ミライや、「クラウン セダン」のFCEVモデルが活躍している。拡大

◆2014年(10年前)
世界初の快挙! トヨタが量産型FCEVを発表

2014年にトヨタが満を持して世に問うたのが「ミライ」。世界初の量産型燃料電池車(FCEV)だ。文字どおりクルマの未来を託して大上段に構えた命名である。2000年頃から次世代エネルギーの本命とされるようになっていたのが、水素を使って発電する燃料電池だった。CO2を発生させないので、環境負荷が少ないと考えられたのだ。世界中の自動車メーカーが開発を競うなかでの快挙であった。

あれから10年。今日では次世代車のエースと目されているのはBEVである。搭載したバッテリーでモーターを駆動するシンプルな方式だ。水素の生産・流通体制が確立していないこともあり、FCEVの普及は遅れている。

未来を断ずる者は疑ってかかれ

冒頭でゴルフの盛衰について触れたが、50年といわず10年でもマーケットのありようはさま変わりする。未来を見通すのは簡単ではないのだ。振り返れば、10年前の2014年にはSTAP細胞騒動があり、ご長寿番組『笑っていいとも!』が終了した。もうずいぶん昔のことのようだ。逆もしかりで、10年後の2034年に自動車の世界がどうなっているかを自信満々に語る人がいたら、偉大な予言者かペテン師のどちらかだろう。

(文=鈴木真人/写真=フォルクスワーゲン、ステランティス、トヨタ自動車、いすゞ自動車、フォード、本田技研工業、webCG/編集=堀田剛資)

鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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