第278回:W123の車内でかわされる愛の行為とは……
『ANORA アノーラ』
2025.02.27
読んでますカー、観てますカー
シンデレラストーリーをアップデート
映画にはシンデレラストーリーというジャンルがある。オードリー・ヘプバーンがヒロインを務めた1964年の『マイ・フェア・レディ』が有名だ。1990年には類似した設定の『プリティ・ウーマン』が大ヒットした。いずれもロマンティックコメディーの古典的作品だが、現代の基準では女性の描き方にいささか問題があると感じてしまう。こういったタイプの映画をつくるのは難しい時代になったとも思われていたところに救世主が現れた。『ANORA アノーラ』は古くさいシンデレラストーリーを換骨奪胎し、見事にアップデートしてみせた。
アノーラ(マイキー・マディソン)はブルックリンでストリップダンサーをしている。半裸で踊りを披露するわけだが、浅草ロック座や渋谷道頓堀劇場のようなものとはかなり違う。舞台で踊るだけでなく、エクストラ料金を払えば個室で密着プレイをすることができる。オシャレで高級なセクシーキャバクラとでも言えばいいだろうか。
彼女は店のマネージャーからロシア人客の相手をするように指示される。おばあさんがロシア人なので、少しならロシア語を話せるのだ。個室にいたのはいかにもチャラい感じの青年イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)だった。脂ギッシュなオヤジでなかったのはありがたい。しかも気前よく金を使うタイプだ。アノーラは「ムニェ・ザヴート・アーニャ」とロシア語で自己紹介し、完璧な営業スマイルを披露する。
イヴァンは一瞬にしてアノーラのはじけるような笑顔とセクシーな肢体に魅せられた。個室でのプレイだけでは満足できず、彼女に「出張できる?」と尋ねた。お金さえもらえれば、もちろんOKである。
オリガルヒのドラ息子
イヴァンが住んでいるのは、ブルックリンの最南端にあるブライトンビーチである。ロシアや東欧からの移民が多く居住していて、リトル・オデッサと呼ばれている地域だ。高級住宅街で、彼が住んでいるのは超豪華な低層マンション。本物の金持ちは、タワマンなんて貧乏くさいと思っている。門番がいて、セキュリティーは万全だ。室内の設(しつら)えはアーティスティックで趣味がいい。
イヴァンの親は、とてつもない富豪らしい。いわゆるオリガルヒである。何でそんなに金があるのかと聞くと、薬物売買でもうけていると話すがすぐに冗談だとはぐらかす。実際にどんな商売をしているかはわからないが、オリガルヒはプーチン政権と癒着して荒稼ぎしている連中だから後ろ暗いところもあるはずである。ドラ息子のイヴァンが無教養で品性に欠ける薄っぺらなパリピに育ったのは必然なのだ。
イヴァンはアノーラのプライベートストリップを鑑賞し、ベッドでの情熱的なプレイを楽しむ。シーシャを吸って、またベッドへ。友人たちとのニューイヤーパーティーにも連れていった。毛皮のコートも買ってくれるし、アノーラにとっても最高のハッピーライフだ。ラブラブな毎日を過ごすが、イヴァンはもうすぐロシアに帰らなければならない。最後の思い出づくりをしようと、1週間の“彼女契約”を提案する。
1万ドルでオファーするが、アノーラは1万5000ドルを要求。商売なのだから、価格交渉はシビアである。イヴァンにしても、この程度の金は痛くも痒(かゆ)くもない。どうせなら派手に遊ぼうということで、プライベートジェットでラスベガスに向かった。
ドライブスルーチャペルで結婚
ギャンブルをしてはシャンパンで乾杯し、シーシャを吸ってベッドへ。楽しい日々はあっという間に過ぎて、別れの時が迫ってきた。一緒にいるうちにイヴァンに好意を抱くようになっていたアノーラは、結婚すればロシアに帰らずに済むとささやく。彼にとっても願ったりかなったりの申し出だ。ここはラスベガス。24時間営業のドライブスルーチャペルがある。ニコラス・ケイジが夜中に泥酔して結婚し、4日後に結婚の無効を申し立てたことがあるが、正式な結婚として認定されていた。
かつては、これでハッピーエンドとなっていた。愛の成就がゴールだったのだ。今ではそんな結末では大炎上必至である。ディズニーアニメだって、今どきは白馬に乗った王子様との結婚で終わるようなストーリーはあり得ない。アノーラの物語は、ここから始まるのだ。
情報を聞きつけたロシアの両親は、イヴァンのもとへ手下のチンピラを差し向ける。息子が商売女と結婚するなど、あってはならないことなのだ。コワモテのロシア人たちがマンションにやってくる。見るからに暴力的な面構えで、抵抗するすべはなさそうだ。それでも、アノーラは敢然と立ち向かう。自分の人生は自分で決めるのだ。力でねじ伏せようとする相手の言いなりになるつもりはない。
あふれ出る激情と凶暴な振る舞いが、彼女を美しく輝かせる。演技の参考として、マディソンは『女囚701号 さそり』を観るように言われたそうだ。そう聞くと、確かに梶芽衣子が発する凄絶(せいぜつ)な情念はアノーラに通じるものがあるように思える。
ボスは高級SUV、下っ端は古ぼけたセダン
監督のショーン・ベイカーは、これまで『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』や『レッド・ロケット』などの作品でいつもセックスワーカーを登場させてきた。作品のなかで、彼女ら彼らの生き方を頭ごなしに否定することはない。社会の片隅でもがき苦しんでいても、自分の持つ規範と気概を守って堂々と生きることはできる。娼婦が実業家と結婚することに価値を見いだすのは、もはや時代遅れなのだ。
イヴァンの親に雇われたロシア人のなかでも、最も粗暴な見た目なのがイゴール(ユーリー・ボリソフ)である。下っ端の雑魚キャラで、汚れ仕事を任されているのだ。ただ、なぜかいつも困り顔。暴力をストレートに発揮することができず、失敗しては怒鳴られている。ボスが「キャデラック・エスカレード」に乗っているのに、彼のクルマは古ぼけた「メルセデス・ベンツW123」のセダンだ。
威圧感を見せつける巨大なSUVと違い、クラシカルなたたずまいは優美で気品がある。イゴールはこのクルマを気に入って乗っているらしい。エスカレードにはカーチェイスもあるが、W123はイゴールがアノーラを乗せて家に連れ帰るだけだ。地味な扱いである。
名車をただの移動手段としてしか使わないのはもったいないと思っていたら、最後に重要な役割を与えられた。何よりも強く観客の心に残るのは、W123の室内で不意打ちのように始まるエモーショナルな行為である。コンプライアンス上の問題があり、何があったのかをここで明確に記すことはできない。イゴールは不器用だが、イヴァンにはない篤実な心を持っていた。解釈の分かれるラストだが、アノーラはようやく自分が求めているものが何であるかを知ったのだと思いたい。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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