第266回:最強で完璧な仕事グルマとの幸福な生活
『PERFECT DAYS』
2023.12.21
読んでますカー、観てますカー
押上から首都高速で公園のトイレへ
明け方、ホウキで道を掃く音が聞こえてくる。平山は寝床からゆっくりと起き上がる。目覚まし時計はかけていないようだ。歯を磨き、ハサミでヒゲを整える。鉢植えに霧吹きで水をかける。きちょうめんな性格なのだろう。背中にThe Tokyo Toiletのロゴがついたツナギに着替え、玄関に置かれたいくつかの道具を手にする。財布、時計、携帯電話、クルマのキー、そしてオリンパスのフィルムカメラ。
『PERFECT DAYS』は、一人の男の日常を描いている。毎日毎日、判で押したように同じ行動を繰り返す。彼の仕事はトイレ掃除。東京の公園に設置された公衆トイレが彼の仕事場だ。あまり人気のある職業とは言えないが、彼は嫌がっているようには見えない。黙々と、淡々と、仕事をこなす。プロフェッショナルの誇りがある。
木造アパートを出ると自動販売機で缶コーヒーを買い、クルマに乗り込む。「ダイハツ・ハイゼット カーゴ」だ。かなり年季が入っているが、調子はいいらしく一発でエンジンが始動する。コーヒーを飲みながら、音楽をかける。カセットテープだ。選んだのは、アニマルズの『朝日のあたる家』。彼が若かった頃に好きだった曲をずっと聞いているのだ。
平山の家は東京・墨田区の押上にある。亀戸天神の近くで、昭和の情緒が残る下町だ。首都高速を走っていると、スカイツリーの向こうから朝日が見えてきた。日が昇りきった頃に公園のトイレに到着。クルマからバケツやモップなどを運び出し、仕事にかかる。ベルトには鍵の束。「清掃中」のプレートを置き、洗面器から壁、便器と念入りに磨いていく。鏡で裏側をチェックする丁寧な仕事ぶりだ。
同じことを繰り返す毎日
プレートが置いてあるのに入ってくる二日酔いの男がいた。掃除人がいないかのように振る舞い、用を済ませて出ていく。会釈すらしないクソ野郎だ。平山は腹を立てるでもなく、外で静かに待っている。個室で泣いていた男の子を見つけて連れ出すと、母親は礼を言うどころか汚いものを見るような視線を送ってきた。これもいつものことなのだろう。笑顔を向ける男の子にそっと手を振る。
お昼時になると、神社のベンチで昼食をとる。コンビニで買ったサンドイッチと牛乳だ。近くに一人メシのOLがいてあいさつの視線を送るが、彼女は戸惑った様子で目を背ける。踊るかのようにゆったりと手を伸ばすホームレスがいた。孤独だが、泰然たる態度で屈託がない。平山はカメラを上に向けて写真を撮る。木の枝が広がり、太陽の光が透けて見える。
家に帰ると、自転車に乗って銭湯へ。開店と同時に入る。汗を流して出てくると、休憩室では老人がテレビで相撲を観戦している。浅草まで行き、地下商店街の居酒屋へ。愛想のいい亭主が何も聞かずに酎ハイとお通しを持ってくる。テレビではプロ野球中継をやっている。家に帰り、布団を敷いて読書。フォークナーを読んでいるうちに眠くなる。モノクロームの夢を見る。
仕事以外の生活も、決められたスケジュールのように毎日同じことをする。休みの日にはコインランドリーに行き、古本屋で一冊100円の文庫本を買う。フォークナーは読んでしまったので、幸田文の随筆を選んだ。奥に座っている店主が的確な一言コメントをくれる。夜はちょっと高そうな和食バーへ。女将が日本語詞の『朝日のあたる家』を歌う。しっとりとした歌声は絶品だ。石川さゆりが演じているから当然なのだが。
後輩の若者がバックレたり、久しく会っていなかっためいが突然やってきたり、平山の日常にさざなみが立つこともある。悲しみや怒りの感情がないわけではないが、これは彼が選び取った生活なのだ。完全で完璧な生き方である。
カセットデッキが標準装備だった
中年男の平凡な暮らしを描いて映画が成立するものか、不安に思うかもしれない。杞憂(きゆう)である。派手なカーチェイスや爆発シーンがなくたって、観客を引き付ける作品はつくれるのだ。映像の力と、優れた演技のたまものである。平山を演じた役所広司は、カンヌ国際映画祭の最優秀男優賞を受賞した。せりふは少ないが、表情と所作で悲しみを抱えた男の心情が浮かび上がる。眉をしかめてうなるように叫ぶのが演技だと勘違いしている監督も俳優も観客も、この映画を観て考えを改めたほうがいい。
繰り返しの日常を描く映画はこれまでにもあった。ジム・ジャームッシュの『パターソン』は、バス運転手が決められたルートを走り、詩を書き、妻にキスをする。タル・ベーラの『ニーチェの馬』はもっとシンプルだ。老人と娘が井戸から水をくみ、じゃがいもをゆでて食べる6日間の物語である。もちろん、漫然と生活を見せるだけでは映画にならない。人間を見つめる深い洞察と繊細な表現の力が必要だ。ヴィム・ヴェンダース監督は、その系譜に確実な足跡を残した。
ハイゼット カーゴが重要な役割を担う映画というのは前代未聞である。「アトレー」なら『モヒカン故郷に帰る』でいい役どころをもらっていたが、商用車のハイゼットに見せ場を作るのは簡単ではない。この映画では、働くクルマの最善の選択としてハイゼット カーゴが選ばれている。タフで使い勝手がよく、職業に合わせてカスタムすることができる。最強の仕事グルマとして、必然性のある選択なのだ。
もう一つ、理由がある。映画に登場するのは9代目モデル。20年ほど前のモデルで、平山の物持ちのよさを表すアイテムと言っていいだろう。それだけではない。この時期は、カセットデッキ付きのカーステレオが標準だったのだ。平山は、ダッシュボードの上に備えられた棚にカセットテープを置いている。すべて聞き慣れた曲ばかりだ。最近はレトロブームもあって再流行しているが、彼にとってはこれも日常である。
ヴェンダース好みの選曲で、平山の愛好曲としては無理があるものも見受けられるが、ひとつだけ日本の楽曲が使われている。誰がサジェッションしたのか、再評価の兆しがある伝説のシンガーソングライターの曲を選んだセンスがすてきだ。音楽も、この映画の重要なパーツである。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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