第271回:“腹黒いキツネ”はロールス・ロイスでやってくる
『オールド・フォックス 11歳の選択』
2024.06.13
読んでますカー、観てますカー
1989年、台北郊外で暮らす父子
失礼ながら、シャオ・ヤーチュエンという名前は聞いたことがなかった。監督作が日本で公開されるのは、『オールド・フォックス 11歳の選択』が初めてである。プロフィールを見ると、ホウ・シャオシェン監督のもとで助監督を務めたことがあると書いてあった。それなら、間違いない。『冬冬の夏休み』『恋恋風塵』などの大傑作を生み出した台湾を代表する名匠の薫陶を受けたのだ。ホウ・シャオシェンは、今作のプロデューサーに名を連ねている。
1989年の台北郊外。11歳のリャオジエは父と2人で暮らしている。生活はつつましい。倹約してコツコツと貯金しているのは、いつか理髪店を開くためだ。それは亡き母の夢だった。父は高級料理店のウエーターとして働いている。リャオジエは学校の帰りに店に寄り、キッチンの片隅で宿題を片づける。店の人たちは親切で、余った料理を食べさせてくれたりする。
家に帰ると風呂に入る。蛇口を絞って細く水を出し、昼間から風呂おけにためておいた。これも節約の一環である。昭和の日本でも広く知られていた方法で、水流が弱いのでメーターが回らないといわれていた。本当に効果があったのかはわからない。お湯が沸くと、ガス湯沸かし器の種火を消す。エコかもしれないが、節約の効果は疑わしい。
家賃の集金でリンさんという女性がやってきた。派手な色のジャケットにゆるいパーマヘアで、真っ赤なルージュを引いている。日本のバブル期ファッションとよく似たスタイルだ。リャオジエが“美人のお姉さん”と呼ぶとうれしそうに笑う。彼女は階下の料理店が閉店すると話す。リャオジエはその物件を買えば理髪店を開けると喜ぶが、父はまだ早いと言う。店を買う金をためるには、あと3年かかるのだ。
高級車で安屋台に通う
『オールド・フォックス』というのは不思議なタイトルだ。原題では『老狐狸』。つまり“腹黒いキツネ”で、いいイメージの言葉ではない。主人公の少年リャオジエのことではないだろう。“キツネ”は、雨の日に「ロールス・ロイス・シルバースピリット」に乗ってやってきた。傘を持たずにぬれていたリャオジエに、家まで送ると声をかける。
“キツネ”はシャという金持ちで、リャオジエの家や階下の店の地主だった。リンさんは彼のもとで働いている。シャはこのあたりでは一目置かれている名士だが、血も涙もないやり方が嫌われて陰で“キツネ”と呼ばれていた。貧乏な身から成り上がるのに、あくどいこともやってきたのだろう。金はうなるほどあっても、安屋台で飯を食う。昔の習慣が抜けないのだ。
シャはほかにもクルマを持っている。「ジャガーXJSコンバーチブル」「ポルシェ911ターボ カブリオレ フラットノーズ」などだ。どれもいいクルマだが、セレクトに一貫性がない。ガレージは粗末で、愛情を注いでいるようには見えない。クルマ好きなのではなく、金持ちであることを示す記号として高価なクルマを買っているだけのように見える。
シャはなぜかリャオジエを気に入り、家に招き入れる。リャオジエはシャを警戒しつつも、彼の持つパワーの魅力に気づいていく。シャの人生哲学は単純明快だ。彼はリャオジエに勝つための秘訣(ひけつ)を伝授する。
「強者といれば上がり、弱者とつるんでいれば落ちていく」
「不平等を利用し、不平等を作り出せ」
「自分を救えるのは自分だけだ」
父を助けるための2つの道
シャは父とは正反対の人間だ。父は誠実で、いつも他人を思いやる。まわりがバブルに踊って株に手を出しても、自分は勤労と節約で地道に貯金する。演じるのは『1秒先の彼女』で気弱な青年だったリウ・グァンティン。いい人に決まっている。
彼の勤めるレストランには、いつも1人でやってくる女性がいた。金は持っているが、いつも憂い顔である。今は客とウエーターという関係だが、2人は昔から知り合いだったようだ。ぎこちない会話が彼らの過去を映し出す。ストーリーに陰影をもたらす重要な役に監督が指名したのは門脇 麦。“お嬢さま気質でちょっとわがままな感じがして、でも憂いが感じられてどこか孤独の影がある”女優が台湾では見つからず悩んでいた時に、ホウ・シャオシェンから「日本の俳優と仕事をしてみるといいよ」と勧められていたことを思い出したという。
リャオジエは父が理髪店を開くことを望んでいる。そのためには自分が強くならなくてはならない。シャは、他人の気持ちを理解するのは負担になると諭す。「同情を断つためには“知ったこっちゃない”と思え」
それが勝ち組への道なのだ。
父のような生き方をしたら、負け組になってしまうのか。父を助けるためには、自らが“キツネ”になるしかないのか。エンドロールが流れる時、誰もがチャンドラーのあの言葉を頭に思い浮かべるだろう。
If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.
(文=鈴木真人)
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