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第87回:漂着サバンナに思う。日本車よ「勝って兜の緒を締めよ!」

2009.04.18 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ
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第87回:漂着サバンナに思う。日本車よ「勝って兜の緒を締めよ!」

「日産キャシュカイ」がトップテン入り!

イタリアでも新車登録台数は落ち込んでいる。2009年1月の登録台数は、前年比32%以上のマイナスを記録した。
でもそんな中、日本車は奮闘している。1月は「日産キャシュカイ(日本名:デュアリス)」が3448台を記録し、「オペル・コルサ」「ランチア・イプシロン」「プジョー207」を抜いて7位に入った。「トヨタ・ヤリス(日本名:ヴィッツ)」も、昨年12月のセグメントBクラスで「フィアット・グランデプント」「フォード・フィエスタ」に次ぐ堂々3位を維持している。

イベントでも注目度抜群

日本車といえば、このところヒストリックカーイベントで、古い日本車がひょっこり展示され、衆目を集めることが多い。3月トリノで開催され、本欄では動画でお伝えしたイベント「アウトモトレトロ」でも、思わず「よく漂着してきたなー」と声をあげてしまうような日本車がいた。

まずは「ホンダZ」である。オリジナルトリノナンバーの付いたこの車両は、1972年モデルであるという。輸出仕様のため、エンジンは360ccではなく598cc。ちょっと調べてみるとZは、1972年にイタリアで130万リラのプライスタグが付いていたらしい。当時「フォルクスワーゲン・ビートル1200」が99万5000リラだったのと比べると、1.3倍も高かったことになる。
なお同じ年、イタリアにおけるホンダのラインナップは、この「Z」と「N360」だけであった。

もう1台は、1975年「マツダ818」こと、初代「サバンナ」である。個人的には、フロントマスクがどこか和田アキ子女史の風貌に似ていると思っているモデルだ。当時ロータリーは輸入されていなかったため、エンジンはレシプロの4気筒1272cc版であるが、こちらも新車時からと思われるトリノナンバーが付いている。2000年に物珍しさから購入したという現オーナーによれば、このクルマ、一時はレース用に使われていたものらしい。その証拠に、付いてなかったリヤバンパーを探すのが目下の課題とのことだ。

筆者が住むシエナでもプリウスタクシーの台数が増えてきた。
筆者が住むシエナでもプリウスタクシーの台数が増えてきた。 拡大
アウトモトレトロの会場で発見した1972年「ホンダZ」。
アウトモトレトロの会場で発見した1972年「ホンダZ」。 拡大
1975年「マツダ818」とオーナー。
1975年「マツダ818」とオーナー。 拡大

日本車が珍しかった時代

いずれのクルマも、会場ではかなりの注目度であった。その背景には、イタリアにおける日本車の歴史が、他の欧州諸国に比べて浅いことがある。

歴史を紐解いてみると、1960年代なかごろのイタリアは、輸入車に対して最高48.7%もの関税が課せられていた。また日本メーカー自体も、イタリアに限らず欧州への本格的なアプローチをする少し前である。そのような背景からだろう、手元にある1966年の正規輸入車価格一覧表に日本車の姿はない。
イタリア各地に日本車輸入代理店が本格的に展開されはじめたのは、1970年代に入ってからである。なお1972年の時点で正規輸入されていたのは、「ダットサン」「ホンダ」「マツダ」「トヨタ」の4社であった。

後年、日本車は徐々に販路を開拓しようとするのだが、依然欧州圏外ということで、29.4%もの関税を課せられた。さらに、1970年代後半になると、イタリア政府は日本製乗用車に対して年間2200台(注:後年台数に変動あり)という乗用車輸出規制を課した。
いずれも、その影には、日本車の上陸阻止を望む大フィアットによる政府への働きかけがあったことは、誰もが認めるところである。

参考までにデ・トマソがイノチェンティを持て余したとき、フィアットが買収してしまったのも、イノチェンティと関係のあったダイハツがイタリアに上陸するのを何とも阻止したかったからだといわれている。

つまり今日イタリアで1970年代の日本車が好奇の視線で捉えられるのは、「珍しいから」なのである。
ちなみに隣国フランスでも同様に、ある程度の日本車輸入規制が行われていたが、早くから日本メーカーの現地法人が整備されたため(たとえばホンダフランスが設立されたのは1964年である)、日本車は確実に広まっていた。

そんな逆境のイタリアにおける日本ブランドにようやく春が訪れたのは、欧州圏の段階的な経済自由化が行われた1990年代中盤以降。イタリアも自国産業の保護政策をとれなくなったのである。
それをきっかけに日本メーカーが、イタリアに現地法人を設立するようになった。続くチャンスは、本欄でも何度か記した1997年以降のイタリア政府による、相次ぐ自動車買い替え奨励金政策だった。ちょうどフィアットの商品的魅力や品質が低下していたこともあり、多くのイタリア人は買い替えに、日本車を有力候補として挙げるようになっていったのだ。

欧州における“日本車”のパイオニアも。ファンならお馴染み、英コーギー製“007は二度死ぬ”の「トヨタ2000GT」。
欧州における“日本車”のパイオニアも。ファンならお馴染み、英コーギー製“007は二度死ぬ”の「トヨタ2000GT」。 拡大
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ハイブリッド&電気自動車があるからといって

そして今日、冒頭のように日本車はイタリアでさまざまなヒットを飛ばすようになった。タクシー業界では、ハイブリッド車「トヨタ・プリウス」を選ぶドライバーも増えている。
しかしボクは敢えて、「気を抜かないで」と言いたい。なぜならクルマや科学技術に詳しい人を除いて、今でも多くのイタリア人はハイブリッド車がなぜ動いているかを知らないからだ。いわゆるインテリ層から普及させるというのは一戦略かもしれないが、「同じ省エネ・環境対策なら、車両価格も安いLPGやメタン車でいいじゃん」という大多数の人たちを、これからどうやって説得できるかという課題が残る。

また、ハイブリッドの延長線上にある電気自動車に関しても、けっして楽観できない。電気自動車は、ガソリンスタンドにかわる充電設備が必要だ。「やるゾ」の一声で一気にインフラが整う日本と違い、イタリアで短期間に整備されることは到底考えられないからである。とくに大都市の古い建築物や集合住宅が多いこの国で、街なかや共有部分に充電設備を整備するのは容易なことではないだろう。

日本メーカーは新エネルギーで格段にリードしているものの、現地の状況とリンクして展開させなければ失敗する。さもないと携帯電話やICカードのように、日本では快適でも世界では通用しない「ガラパゴス現象」の例をまた作ってしまう。日本車にイタリアでもっともっと頑張ってもらいたいからこそ、「勝って兜の緒を締めよ」と言わせていただこう。

(文と写真=大矢アキオ、Akio Lorenzo OYA)

1972年イタリアのトヨタ輸入業者による広告。世界3位のメーカーで、米国では輸入車第2位という“自己紹介”が。
1972年イタリアのトヨタ輸入業者による広告。世界3位のメーカーで、米国では輸入車第2位という“自己紹介”が。 拡大
こちらも当時のインポーターによる1979年「120Y(4代目サニー)」の広告
こちらも当時のインポーターによる1979年「120Y(4代目サニー)」の広告 拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。

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