第112回:アストンvsジャガー――ローマで優雅なカーチェイス
『007 スペクター』
2015.12.03
読んでますカー、観てますカー
あの世界的犯罪組織が復活
スパイ映画の当たり年といわれた2015年だったが、トリに控えているのが本家本元、元祖中の元祖である。シリーズ24作目となる『007 スペクター』だ。ダニエル・クレイグが出演するようになってこれが4作目。監督は前作『スカイフォール』と同じサム・メンデスが務める。
今作には画期的な要素が3つある。1つ目は、タイトルが示すようにスペクターが復活したことだ。『ロシアより愛をこめて』や『サンダーボール作戦』などの初期作品でボンドが戦っていた世界的犯罪組織スペクターが、『ユア・アイズ・オンリー』を最後に映画には現れなくなっていた。著作権でモメていたのが原因で、ようやく和解が成立してカムバックすることになったのだ。
スペクター(SPECTRE)は「Special Executive for Counter-intelligence, Terrorism, Revenge and Extortion」の略称である。『0011 ナポレオン・ソロ』のTHRUSHと同じく取ってつけたような名前で、真面目に訳してもしょうがない。とにかくものすごく悪いやつらだということを示しているだけなのだ。ダニエル=ボンドの前3作にはもちろん登場していないが、この作品でこれまでもスペクターが後ろで糸を引いていたことが明らかになる。後付け設定でしっかり説得力を持たせているのだから、大変な力技の脚本だ。
アバンタイトルでは、死者の日の祝祭でにぎわうメキシコシティーが舞台となる。仮面をかぶった人々や巨大なドクロ人形が練り歩く中、ボンドは爆弾テロをたくらむ男を追う。群衆に紛れて逃げる悪人を追跡するというのはありがちな演出ではあるものの、1520人ものエキストラを動員したというのはさすがに本家の貫禄だ。ヘリコプターまで登場して雑踏の上でアクロバット飛行をするのだが、CGではなく実際にエキストラの9メートル上を飛行していたのだという。
御年51歳のボンドガール
ボンドはヘリコプターに飛び乗って操縦士を機外に放り出し、悪人から指輪を奪い取る。表面に刻まれているタコをかたどった紋章がアップになったところでタイトルシークエンスが始まる仕掛けだ。前作では上海の夜景をバックに格闘シーンをアーティスティックに描いて観客を驚かせたが、さらにスタイリッシュな映像を堪能できる。しかも、なんともなまめかしい。ダニエル・クレイグの裸体と妖しげにうごめくタコがからみ合い、エロティックな雰囲気を醸し出す。北斎漫画を思い起こさせ、日本が世界に誇る触手ポルノの趣さえ感じさせるのだ。
メキシコで大暴れした責任を取らされ、ボンドは停職処分を受ける。彼は上司のM(レイフ・ファインズ)にも明かさなかったが、前作で命を落とした前のM(ジュディ・デンチ)からの指令で動いていた。彼女は生前にビデオレターをボンドに送り、マルコ・スキアラを探して殺すように指示していたのだ。メキシコで仕留めた男というのがスキアラだった。ボンドは彼の葬儀が行われるローマに赴く。そこで出会ったのが未亡人のルチアだった。
ボンドは自分が殺した男の妻とデキてしまうわけだが、このルチアを演じるのがモニカ・ベルッチである。これが2つ目の画期的要素で、彼女は御年51歳、史上最年長のボンドガールである。ダニエル・クレイグは47歳だから、実年齢でもモニカ姉さんということになる。熟女ブームはついに007にまで及んでしまった。ちなみに、もう一人のボンドガールは30歳のレア・セドゥ。彼女は『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』にも出演していたから、二大スパイ映画を制覇したことになる。
ルチアから情報を仕入れ、ボンドは悪人たちの会議場に潜入する。そこでは整然と秩序だった議論が行われていた。アフリカにおける偽医薬品のシェア拡大について現状報告があり、売春組織の効率的な運営に関して情報が交換される。悪人ヅラをしたやからが怒鳴り合ったりはしないのだ。近代的な犯罪組織では、悪事だってビジネスライクに処理されなければならない。
映画のためだけに作られた「DB10」
事務的な雰囲気は、ボスのオーベルハウザーが現れた瞬間に一変した。張り詰めた空気がみなぎり、全員が緊張で身を固くする。影になって顔は見えないが、まがまがしい空気をまとっていることは隠せない。それもそのはず、演じているのはクリストフ・ヴァルツである。『イングロリアス・バスターズ』では非情なナチス将校役で邪悪さそのものをスクリーンに浮かび上がらせた男だ。ボンドの最強の敵にふさわしい配役である。
オーベルハウザーはボンドに気づくと、なぜか「ジェームズ、久しぶりだ……」と語りかける。以前に会ったことがあるような口ぶりだ。ボンドは殺気立つ手下たちを振りきって逃走し、ローマの街でカーチェイスが始まる。ボンドが乗るのは「アストンマーティンDB10」。これが3つ目の画期的要素である。シリーズ史上初めて、映画のためだけに製作されたスペシャルモデルなのだ。
ベースになっているのは「V8ヴァンテージ」で、ホイールベースを延長している。ノーズの造形はサメからインスピレーションを受けたものだという。カーボンファイバー製のボディーパネルを用いて軽量化し、0-100km/h加速は3.2秒、最高速は305km/hとされる。撮影のために8台、プロモーション用に2台が作られた。
ボンドを追うのは殺し屋ヒンクスである。演じるのはプロレスラーでもあるデイヴ・バウティスタ。同じプロレスラー俳優のドウェイン・ジョンソンにも劣らぬ凶暴なカラダを持つ。『アイアン・フィスト』でブラス・ボディ、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でドラックス・ザ・デストロイヤーを演じていた荒くれ男である。彼が乗るのは「ジャガーC-X75」。2010年に発表されたコンセプトカーで、ツインチャージャーを備える1.6リッターエンジンと電動モーターを組み合わせて350km/hを実現したとされる。
たった5億5000万円のクルマ
ローマ市街を閉鎖し、サン・ピエトロ広場とコロッセオの間を流れる川沿いの道路などでカーチェイスの撮影が行われた。サム・メンデス監督は、こういったシーンでも力強さより美しさを優先する。石畳道を走る2台はダンスをしているように優雅で、スムーズなドリフトでコーナーを抜けていく。姿はエレガントでもボンドカーらしく秘密兵器が仕込まれていて、後ろの敵にはボタン一つで火炎放射を浴びせかける。
DB10は、秘密兵器開発主任のQ(ベン・ウィショー)が作ったスパイ業務用のモデルなのだ。ただし、009のために製造されたもので、ボンドはQの仕事場から盗み出して乗ってきた。前作でボンドが乗った「DB5」は、プライベートカーという設定だった。マシンガンで穴だらけにされてしまったが、無事ロンドンに運ばれてQがレストアしている。どう考えても業務外の仕事だ。しかも、「無傷なのはハンドルだけ」と言っていたから相当ひどい状態ということ。オタクっぽい見かけながら、Qは案外お人よしらしい。
Qだけでなく、Mやマネーペニー(ナオミ・ハリス)もボンドに親切で協力的だ。国家の支援を受けられなくなった工作員が強大な悪に立ち向かい、組織壊滅の危機に陥った仲間が力を合わせて手助けする。この構図は『ミッション:インポッシブル』と同じだ。現代を舞台にシリアスな状況を提示することになると、どうしても道具立てが似てくるのかもしれない。
例によってボンドカーはオシャカになってしまうが、Qは「たった5億5000万円のクルマだから気にするな」と寛大さを示す。そういえば、プロモーション用に作られたDB10のうち1台はチャリティーオークションにかけられるという話だ。5億5000万円には届かないにしても、落札価格がV8ヴァンテージの数倍になるのは間違いないだろう。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。