第122回:助手席文学の人がクルマに乗って愛を描く
『愛のようだ』
2016.05.13
読んでますカー、観てますカー
ついに免許を取った芥川賞作家
「運転免許小説」と言ってもいいのだろうか。長嶋有がついに運転免許を取得し、その経験を生かして小説を書き下ろした。2002年の芥川賞受賞作『猛スピードで母は』が自動車を扱った作品だったのに、本人は免許を持っていなかった。受賞直後にインタビューした際には、「懸賞でクルマが当たったりすれば免許取らなきゃいけないけど、そうでもなきゃ取らないですね」と話していたことを覚えている。
一生クルマには乗らないような口ぶりだったのに、どういう心境の変化があったのか。『愛のようだ』の主人公である戸倉は、「実家近くで暮らしていた兄の急死で家にまつわる諸事を引き受けることになった」ことが免許を取った理由だと述べている。田舎では、クルマを運転できない人間は役立たずだ。彼は「免許は個人のためのことではない、『家』の誰かが継承する技能なのだと」気づく。クルマが好き、運転が好きということより、よほど切実な理由である。
もちろん、作者と主人公を同一視することはできない。ただ、マンガ評をメインの仕事とするフリーライターで、40歳になって免許を取得したという戸倉のプロフィールは、長嶋有と似通っている。彼はブルボン小林という名でマンガやゲームの評論活動をしていて、最近では小説家よりもそちらの活動のほうが目立っているくらいだ。戸倉にブルボン小林=長嶋有の行動と思考が反映されている部分は確かにある。
「日産ラシーン」で伊勢神宮へ
プロローグでは、自動車教習所での仮免試験が描かれる。戸倉がマンガで学んだ知識では、教官は横暴で威張り散らしていた。1980年代の新田たつお『こちら凡人組』や狩撫麻礼『迷走王ボーダー』などの作品では、それがリアリズムだったのだ。最近は少子化で志望者が減り、雑な応対をしていては生徒が集まらない。教官は優しく懇切丁寧に指導してくれるし、待合ロビーではお茶が飲み放題、マンガも読み放題。若いうちに免許を取った友人たちに今はお客さま扱いされると話しても、誰も信じてくれない。
晴れて免許を手に入れて、戸倉が買ったのは「日産ラシーン」。最終モデルだったとしても15年落ちである。初心者が乗るにはいい選択だ。「同性能の車と比べても割高で燃費も悪い」と戸倉は言っているが、50万円もあればそこそこの程度のものが手に入るはずだ。
運転に慣れるために、仕事仲間で友人の須崎、その恋人の琴美と3人で伊勢神宮までドライブに行くことになった。東京から足柄サービスエリアまで戸倉が運転し、その先はベテランドライバーの須崎が引き継ぐ。戸倉はまだ高速道路に慣れておらず、車線変更はぎこちない。長嶋有もラジオ番組で「車線変更でクラクションを鳴らされなかったことがない」と話していたから、やはりこの小説には作家の経験が生かされている。
パーキングブレーキをあげるたびに機械をいじっている実感を持ったり、足柄サービスエリアの金太郎看板を見て感慨にふけったり、初心者ドライバーにとってはクルマとドライブにまつわるすべてが新鮮だ。今ごろになってコーヒー抽出の様子がモニターに映し出される自販機に驚くのも、クルマで遠出をする機会がなかったからこそだ。
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ワインディングロードは大冒険
伊勢神宮に行くのは、病気快癒を祈願するためだ。琴美がガンの手術を受け、再発しないよう神様にお願いしに行く。それでも道中の車内に悲壮感はない。BGMは『キン肉マン』のオープニングテーマ曲だ。超人オリンピックでロビン・マスクと死闘を繰り広げる場面について会話が弾む。長嶋有はイラストレーターのフジモトマサルが白血病を発症した時、一緒に伊勢神宮にお参りに行った。ドライブプランを立てたのはフジモトだったそうだ。その時も車内ではアニソンが流れていたのだろうか。
戸倉たちは伊良湖岬から鳥羽行きのフェリーに乗る。甲板で海を見ていると、琴美が『キン肉マン』の歌を口ずさむ。それを聞いた瞬間、彼は恋に落ちてしまう。相手は友人の恋人であり、死の病に冒されている女性。限りなく不可能な愛だ。戸倉はまだ自分の気持ちに気づいていない。しかし、読者は彼が教習所に通っていたころから琴美に惹(ひ)かれていたことを知っている。
伊勢神宮行きの後、戸倉は草津温泉に向けてドライブしていた。レンタカーの「ホンダ・フリード」に乗っているのは、6人乗らなければならないからだ。藤岡ジャンクションで分岐を間違えて高崎で降りるハメになり、カーナビの指示に従って走っているとワインディングロードに入ってしまった。走り屋なら狂喜するところだが、彼らはパニックだ。「地獄さ行ぐんだで」と『蟹工船』の有名なセリフをつぶやく始末。運転初心者にとっては二度上峠を走るのは生きるか死ぬかの大冒険なのだ。
戸倉は次に氷見、そして岡山まで足を伸ばす。伊勢神宮や草津温泉もそうだったが、目的地での出来事は一切描かれない。この小説のほとんどは車内の描写なのだ。音楽を聴き、美人らしきライダーが走っているのを眺め、マンガや映画の話をする。このロードノベルには、長嶋有が自動車を知って感じた新鮮な気持ちが詰め込まれている。
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『愛のごとく』との共通性
タイトルの『愛のようだ』というのは、主人公ではなくほかの登場人物が発した言葉である。誰にかぎらず、本人にとって愛は愛のようなものとしか感知されない。似たタイトルを持つ日本の小説がある。『愛のごとく』という作品だ。渡辺淳一のエロ小説のことではない。彼は不届きにもタイトルだけを盗用した。『愛のようだ』の源流にあるのは、山川方夫が1964年に発表した『愛のごとく』である。
第51回芥川賞の候補作となったこの作品は、人嫌いの放送作家が主人公である。生活のためにラジオドラマの脚本を書くだけの無気力な生活を送っている彼のもとに、かつての恋人が偶然現れる。今では友人の妻となっている彼女は彼の仕事場である三畳間に毎週末通うようになり、泥沼のような愛欲生活を続ける。しかし彼はひたすら受け身であろうとした。自分が彼女を必要としていることを認めようとしない。彼女が不慮の事故で死んでしまった時、彼はようやく愛に気づく。
文章のトーンも状況設定も異なっているが、『愛のようだ』と『愛のごとく』に流れるテーマには共通のものがある。愛は、「ようだ」や「ごとく」というエクスキューズなしでは語ることができない。真実に思い至るのは、大切なものを失った瞬間なのだ。まったく逆のアプローチで、2編の小説は同じことを描いている。長嶋有が山川方夫の作品を意識していたのかどうかはわからない。似通ったタイトルを付けたことで内容までが接近したのだとしたら、文学の大いなる力に驚嘆せざるを得ない。
インタビューの中で「もし自分で運転するようになると小説も変わりますか?」と聞いたら、彼は免許を取るつもりはないと言いながら「乗ると新たな視点を手に入れるだろうという気がする」と答えた。自らを「助手席文学の人」と語っていたが、これで運転席の視線を手に入れた。それでも、長嶋有はすべてを自分の意思でコントロールしようとする思い上がった姿勢とは無縁だ。助手席からひそやかに「愛のようだ」とつぶやくだけだ。
(文=鈴木真人)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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