第486回:「不器用すぎるイタリア人」と「いいトコ取りのドイツ人」の話
2017.01.27 マッキナ あらモーダ!人気のビーエムはイタリア生まれ!?
今回は、イタリアとドイツの微妙な関係のお話を。
2016年、BMWが同社の創業100周年を数々なイベントで祝った。ボク自身は2016年9月、本社所在地であるミュンヘンに赴き、BMWファン向けのイベント「BMWフェスティバル」を取材した。
その会場で好評だったモデルに「BMWイセッタ」があった。いや、女性や子どもの来場者にとっては、“本当のBMW”をさしおいて一番人気といってもよかった。ユニークで愛らしいフォルムと、フロントをガバッと開けて乗り降りする大胆さが功を奏していたに違いない。
エンスージアストならご存じのように、BMWイセッタの設計のオリジナルは、BMWではない。
物語は第2次大戦前にさかのぼる。イタリア人技術者のレンツォ・リヴォルタは、ジェノバ郊外に冷蔵庫工場「Isothermos(イソテルモス)」を設立する。第2次大戦中にはミラノに移転。引き続き電気製品を製造した。
戦後いち早くモータリゼーションの胎動を感じたリヴォルタは、二輪車の製造を経て、四輪自動車界への進出を企てる。それは、「フィアット・トポリーノ」よりもさらに軽便な自動車の開発だった。
設計は、航空機設計で豊富な経験を有していた技術者のエルメネジルド・プレーティに託され、それは別の技術者であるピエールルイージ・ラッジへと引き継がれた。そして、1953年のトリノ自動車ショーで、「Iso Isetta(イソ・イセッタ)」の名前で車両が公開された。Isoは前述のイソテルモスにちなんだ新社名で、Isettaは「イソの子ども」といった意味合いを持っていた。
マーケティングのスキルがネック
このイセッタ、結果としては、スクーターでさえ高根の花だった当時のイタリアでは大ヒットにはつながらなかった。イソは製造権の売却を1954年から1955年にかけて各国で試みる。売却に成功した先は、フランスおよびブラジルの企業、そしてドイツのBMWであった。
高級車中心のラインナップだった当時のBMWは経営危機にあえぎ、敗戦国の大衆に訴求できる商品をそろえるのが急務だった。そこで手っ取り早くイセッタのライセンスを手に入れたのだった。
BMW版「イセッタ250/300」の生産台数は、1962年までで16万台以上に達した。本家イタリア製(約1500台)を10倍以上も上回った。さらにBMWはそのライセンスをイギリスにも供与。加えて後年、より自動車らしいモデル「BMW 600」へと発展させた。
これが今日「イセッタといえばBMW」といわれるゆえんであり、本家イソの影が薄い理由である。ちなみにイセッタを手放したイソは、イソ・リヴォルタと再び新たな社名をひっさげて、名車といわれるGTモデルをいくつも世に送り出した。しかしフェラーリなどのライバルを相手に経営は安定せず、1974年をもって自動車製造業から撤退している。
「もしも」を考えるのはナンセンスだが、今となっては「イソ社にもう少しマーケティングのスキルや宣伝能力があれば、本家のイセッタは売れたかも」と考えてしまうのである。イタリア人は素晴らしい創造力を持ちながらも、生み出したものを育てる能力が欠如していることがままある。まさにその一例である。
ディーゼルとワインの“がっかり”な関係
同様に「もうちょっと頑張っていれば……」と思えてならないのが、ディーゼルエンジンのコモンレール式噴射装置だろう。
これなくしては、1990年代終盤以降の低公害ディーゼルはあり得なかった。コモンレール式とそうでないディーゼル車をイタリアで所有したボクとしては、コモンレールにした途端に排気ガスの黒さが消えたことや静粛性に「同じディーゼルかよ」と感動したものだ。
コモンレール技術の起源は古いが、今日に続く乗用車用の技術は、1990年代初頭にフィアットが関連会社であるマニエッティ・マレリおよびエラシスと研究していたものである。しかし、間もなくフィアット自体が、ヒット車種の不足やライバルブランドの台頭により、急速に経営不振に陥った。結果として、1994年に関連特許をドイツのボッシュに売却してしまう。
3年後の1997年、最初にコモンレール式ディーゼルエンジン搭載市販乗用車として「アルファ・ロメオ・アルファ156」がデビューしたのをきっかけに、たちまちコモンレールは欧州でディーゼルエンジンのデフォルトとなっていった。そのためイタリアの自動車雑誌では「あのとき、わが国が手放していなければ……」という“もしも特集”が何度となく組まれたものだ。
「イタリア人が生み出しながらも早々に手放してしまい、その後ドイツ人がヒットさせる」という例は、何も自動車業界だけにとどまらない。
ボクが身近に知る例としては、わが家から約15kmの山中にある、キャンティ・クラシコのワイナリーが挙げられる。
ワイナリーは11世紀末に歴史をさかのぼる老舗であるにもかかわらず、数ある近隣ワイナリーとの差別化をできずにいた。ところが1970年代にドイツ資本が注入されると、そのワイナリーで作るワインは一躍有名になった。公式格付けから外れても毎年果敢に他国のワインとブレンドしてみたり、畑を守る人々の写真をラベルにする、といった話題づくりの連続射撃が功を奏したのだ。
これまたイタリア人が育てられなかったものを、ドイツ人が開花させた例である。もちろんドイツ資本家の努力あってこそだが、イタリア人のマーケティング能力不足と対照的に、ドイツ人の「いいトコ取り」感覚がにおう。
不器用さは今も変わらず
そんなことを考えていたら、さらに、イタリア起源でありながらドイツによって発展した例にいきあたった。
ナチス政権下のドイツにおける「KdF」という組織である。「Kraft durch Freude(歓喜による力行)」の略語で、従来上流階級のものだった休暇旅行といったレクリエーションを、労働者階級にも提供する組織だった。ナチス政府の人心掌握術のひとつだ。
フォルクスワーゲンファンならご存じかと思うが、KdF計画のひとつとして一般大衆にモータリゼーションをもたらすために計画されたのが「KdFヴァーゲン」で、これこそ初代「ビートル」の起源であった。
ナチスが各方面で活発に推し進めたそのKdF、お手本はなんとイタリアにあった。ムッソリーニ率いるファシスト政権によって政権発足と同じ1925年に発足した「ドーポラヴォーロ(=仕事の後)」という、国家規模の労働者向け福利厚生組織が下敷きになっていたのだ。
ただし、これまで挙げた例とちょっと違うのは、ここからだ。
ドイツのKdFは敗戦とともに解体された。一方イタリアの“余暇事業団”たる「DOPOLAVORO(ドーポラヴォーロ)」は、第2次大戦後も組織を変えて1978年に廃止されるまで存続し、鉄道職員のドーポラヴォーロは現在まで続いている。珍しくイタリアの“勝ち”である。
今回のエッセイ執筆を機会に、ボクは初めて地元の鉄道駅に併設されたドーポラヴォーロの施設を訪れてみた。
「会員以外はダメダメ」と門前払いされるのかと思いきや、今や誰でも歓迎なのだという。喫茶室では10ユーロ(約1200円)の昼定食をはじめ、会員とビジターとで値段も変わらない。12ユーロ(約1400円)の年会費は、ドーポラヴォーロ主催の旅行などに参加するときこそ必要だが、それ以外ビジターも処遇はまったく同じである。非番の鉄道職員もやってくるが、会員ではない地元のおじさんもたくさんいて一緒にトランプを楽しんでいる。
それにしても、第2次大戦中に設計が進められた駅舎は、ファシズム建築の幻影をぷんぷんと感じさせる。DOPOLAVOROというロゴの書体もしかりだ。ああ、日本なら「歴史感漂う鉄道カフェ」とかなんとか看板出して、“鉄ヲタ”をはじめ、お客さんを派手に呼び込むだろうに……。イタリア人の不器用さは、やはり惜しい。
(文と写真=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/編集=関 顕也)

大矢 アキオ
コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナ在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、22年間にわたってリポーターを務めている。『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。最新刊は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。