第142回:村上春樹の新作はジャガー推し
『騎士団長殺し』
2017.03.08
読んでますカー、観てますカー
プジョー205であてもなく走る
公開中の映画『ラビング』をぜひ劇場で観てほしい。ベースとなっているのは、1958年のアメリカで、白人男性と黒人女性が結婚の罪で逮捕されたという実話だ。祝福されるべき結婚が罪という言葉と結びつくなんて不可解極まるが、それが60年前のアメリカである。迫害に負けず愛を貫く夫婦を演じるジョエル・エドガートンとルース・ネッガの演技が素晴らしい。アメリカのモータリゼーションが背景にある物語だからここで紹介したいと思っていたのだが、不測の事態が起きた。村上春樹が7年ぶりに書いた本格長編『騎士団長殺し』が、傑作であるとともに出色のクルマ小説だったのである。
タイトルは意味不明だ。騎士団長というのが誰なのかわからない。表紙には『Killing Comendatore』という英文字タイトルも記されていた。コンメンダトーレと呼ばれる人物といえば、エンツォ・フェラーリに決まっている。この小説は、1960年代のルマンを舞台にしたイタリアのスポーツメーカーとアメリカの大企業フォードの抗争を描いている、というのはもちろんウソだ。村上春樹がそんな話を書くわけがない。
フェラーリは出てこないが、さまざまなクルマが登場する。主人公の「私」が乗っているのは赤い「プジョー205」だ。「私」は妻から突然別れを告げられ、身の回りのものだけを荷台に積んで家を出る。西麻布から青山、四谷とあてもなく走った。マニュアルトランスミッションの操作に集中し、妻が別の男と寝ていたという事実を忘れるようとする。目白通りを進んで関越道に入り、寝ずに運転して夜明け前には日本海に着いていた。
右折して海岸沿いに走り、「私」は北海道に渡る。3週間ほど北の大地をめぐって再び本州に戻り、福島県いわき市を走っていた時にエンジンが止まった。走行距離12万kmのプジョー205は天寿をまっとうしたのだ。
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『グレート・ギャツビー』と同じ設定
「私」は美大時代からの友人である天田政彦の好意で、彼の父が住んでいた家に住むことになった。「私」は肖像画家である。注文を受けて実業家や政治家の絵を描く。芸術作品とは言いがたい代物だが、手を抜かずに誠実に仕事をするので評判はいい。『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公が「文化的雪かき」としてライター仕事をしていたのと同型だ。
家は山の上にあった。政彦の父は著名な日本画家で、養護施設に入る前はそこで絵を描いていた。まわりに人家はなく、創作に適した環境だ。谷を挟んだ別の山の上には、白いコンクリート造りの立派な邸宅が見える。住んでいるのは免色渉という名の男で、髪は真っ白だ。色を免れるという不思議な名字は、言うまでもなく前作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』とつながっている。
展望が開けた免色邸からは、街の様子がよく見える。彼は景色を眺めて楽しむことはない。何かを渇望するように、一軒の家を毎日見続けている。もちろんこれは村上が敬愛するスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下敷きにした設定だ。ニューヨークのロングアイランドではなく、小田原の山あいではあるが。
不便な場所なので、「私」はまずクルマを手に入れる必要があった。中古車屋で見つけたのは、格安の「トヨタ・カローラ・ワゴン」である。走行距離は3万6000kmの事故車である。ボディーカラーはパウダーブルーということだったが、ホコリにまみれて形容しがたい色になっていた。
Eタイプのおかげで女性と親密に
免色は4台のクルマを所有している。すべて英国車だ。「クラシックMINI」と「レンジローバー」がガレージに収まっているらしいが、彼が乗るシーンはない。彼は「銀色のジャガーのスポーツ・クーペ」で「私」の家にやってくる。モデル名は示されないが、あとで4.2リッターV8エンジンを搭載していることが明かされるので、おそらく初代「XK」だろう。
シートがコノリー社のものではないという記述があり、2002年以降のモデルということになる。2007年に2代目に切り替わるから、この物語は2002年から2006年の間の出来事だと判断していい。最後のほうで2011年3月に保育園に通う娘が登場する。2004年生まれだと小学生になっているはずだから、2005年か2006年のどちらかに絞られる。
免色はもう1台ジャガーを所有している。「Eタイプ」のロードスターだ。彼はこのクルマのおかげで、美しい女性と親密な関係になる。彼女が乗っているのは明るいブルーの「トヨタ・プリウス」だが、父の愛車だった「ジャガーXJ6」を懐かしく思い出すのだ。
小説の中ではプリウスがあまりいい扱いを受けていない。「自動車というよりは巨大な真空掃除機のように見えた」とまで書かれている。彼女が着飾ってきた時は、「トヨタ・プリウスのハンドルを握るにはいささかファッショナブルに過ぎるような気がする」と主人公に言わせている。「トヨタの広報担当者は私とはまったく違う意見を持つかもしれない」とフォローしてはいたけれど。
天田政彦のクルマは「ボルボ・ワゴン」とだけ書いてある。色は黒で「旧型の、真四角で実直頑強な」「トナカイの死体を運ぶには便利そう」などという言わずもがなの記述もある。でも、説明してあるだけマシだと思ったほうがいいだろう。「私」が交際している人妻が乗っているBMWの「MINI」は、色が赤である以外の情報はない。
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フォレスターは「ずんぐりした機械」
一番ひどいことを書かれているのは、「スバル・フォレスター」である。
「私の観点からすれば、とくに美しい車とは言いがたい。ごく当たり前の小型SUV、実用のために作られたずんぐりとした機械だ。それに思わず手を触れてみたくなるというような人はかなり少ないだろう」
Eタイプが美の象徴として扱われているのとは対照的で、さすがにかわいそうになる。
美的評価は低いものの、フォレスターは重要な役割を担っている。宮城県のファミリーレストランで見かけて以来、「白いフォレスターの男」を「私」は何度も思い出す。スティーブン・スピルバーグの『激突!』を思わせる展開もある。不気味で邪悪な何かを浮かび上がらせるために、最もふさわしいクルマとして選ばれたのがフォレスターなのだ。
登場人物のまとう服装は具体的に記述され、セックス描写も山ほどある。実はこの作品は「おっぱい小説」でもあるのだ。ジャズとオペラのLPレコード、パスタとサンドイッチといったおなじみのアイテムがふんだんに登場する。井戸(のような穴)も重要な舞台装置として描かれ、不思議な話し方をする小人が活躍する。村上春樹博覧会の様相を呈していて、ファンにとっては安心して読める小説だ。
だからといって、自己模倣の手抜き作品と思ってはいけない。喪失と回復の物語であると同時に、イデアとメタファーが複雑な模様を形成する。非現実的な出来事は、リアリズムとして描かれる。武田泰淳の『富士』を想起させる骨太さもある。小説空間が一段と広がったように感じられた。『1Q84』のように第3部が書かれる可能性もある。「白いフォレスターの男」は今度こそ「私」の前に現れるのだろうか。
(鈴木真人)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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