第156回:「ベルエア」に乗る黒人女性がNASAを救った
『ドリーム』
2017.09.29
読んでますカー、観てますカー
パトカーの先導でNASAへ
『ドリーム』で最初に映し出されるのは、だだっ広い草原を貫く一本道だ。路肩に停められた1台のクルマは、薄いブルーと白の2トーンに塗り分けられている。「シボレー・ベルエア」だ。黒人女性3人が同乗していて、1人は運転席に座り、1人は外で化粧直し。もう1人は開けたボンネットの中をのぞき込んでいる。どうやら、故障して動かなくなってしまったらしい。
当時人気のフルサイズセダンに乗っていて、オシャレな服に身を包んでいる。それなりに裕福な生活をしているのだろう。しかし、時は1961年。黒人は正当な権利を勝ち得ていない時代だ。パトカーが近づいてくると、彼女たちに緊張が走る。難癖をつけられて暴行されたり、逮捕されたりする危険だってあるからだ。警官は横柄な態度だったが、彼女たちの行き先がNASAの研究所だと聞くと急に協力的になる。修理が済むと、パトカーが先導して職場まで送り届けてくれた。
警官が態度を一変させたのは、NASAに対する敬意を持っていたからだ。アメリカはソ連との宇宙開発競争のただ中にあった。1957年にソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功し、アメリカを出し抜く。宇宙からソ連に監視されているかもしれないと不安になり、核爆弾を積んだミサイルが降ってくるかもしれないと本気で恐れていた。宇宙開発がミサイル技術に直結していることは、最近の北朝鮮を見ればよくわかる。このままではアメリカは共産主義者に牛耳られてしまう。NASAは国民の危機感を払拭(ふっしょく)する責任を負っていたのだ。
ソ連に負けていた宇宙開発
アメリカは戦後の繁栄を謳歌(おうか)し、モータリゼーションが進んで誰もがクルマに乗れる時代が到来していた。ソ連では、個人でクルマを持つことなど夢に近い。自動車産業ではアメリカのリードは明らかなのに、宇宙開発で後塵(こうじん)を拝しているのはいかにも悔しい。
『ドリーム』は、NASAで有人宇宙飛行を目指すマーキュリー計画を支えた女性たちを描いている。人工衛星を打ち上げて無事に回収するには、高度な計算を積み重ねる必要があった。まだ実用的なコンピューターは存在していないから、人力でこなすしかない。ベルエアに乗っていた3人は、NASAが運営するラングレー研究所に計算手として雇われていた女性たちである。キャサリン・G・ジョンソン(タラジ・P・ヘンソン)、ドロシー・ヴォーン(オクタヴィア・スペンサー)、メアリー・ジャクソン(ジャネール・モネイ)は、いずれも数学の天才だった。
黒人女性を雇ったNASAは進歩的なように見えるが、実態はひどいものだったらしい。黒人女性の計算手は全員非常勤で、研究所の中心部から離れた「西計算グループ」と呼ばれる場所に押し込められていた。給料は白人よりはるかに低い。出世も望めず、白人の上司から言いつけられた仕事を黙々と処理するだけである。トイレすら白人と共用することは許されなかった。
1961年4月にボストーク1号が打ち上げられ、ガガーリンが人類初の地球周回軌道飛行に成功する。NASAはいよいよ追いつめられた。マーキュリー計画は失敗続きで、ロケット発射直後に爆発炎上したこともある。遅れを取り返すために、優秀な計算能力を持つ人材がどうしても必要だった。
男たちを描いた『ライトスタッフ』
以前にもマーキュリー計画を描いた映画があった。1983年公開の『ライトスタッフ』だ。映画がまず描くのは、エドワーズ空軍基地に集まった腕自慢のパイロットたちである。同じ時代だから当然なのだが、この映画にもベルエアが登場する。パイロットが妻とドライブしていたのは、赤白2トーンのコンバーチブルだった。
1940年代にジェット機の性能が飛躍的に向上したが、音速飛行はなかなか実現しなかった。1947年に空軍パイロットのチャック・イェーガーが初めて音速の壁を破る。彼はエースパイロットとしてその後も記録を更新し続けた。有人宇宙飛行の乗組員をスカウトしにNASAの職員が訪れるが、イェーガーは拒絶する。飛行機は自分の腕で操ることができるが、宇宙船はただ乗せられるだけだ。実際、マーキュリー計画で最初に宇宙空間に送られたのはチンパンジーである。それでも人類初の宇宙飛行という栄誉を得たいと考えたパイロットは多く、選抜を経て7人が宇宙飛行士になった。
命知らずの男たちが腕と勇気を競った時代は終わり、主役の座はエンジニアへと移りつつあった。人間を宇宙に送り込むには、精密に仕立てられた宇宙船と正確な軌道計算が何よりも重要である。宇宙飛行士が自らの意思で操縦する余地はほとんどない。戦闘機乗りと宇宙飛行士では、求められるRight Stuff(正しい資質)が異なるのだ。
主役がエンジニアになったといっても、現場に不可欠だったのが計算手である。数学の才能を持った黒人女性たちが、マーキュリー計画を成功に導いた。これまであまり知られることのなかった事実で、だから原題は『Hidden Figures(歴史に埋もれた人たち)』となっている。
時代に先んじた女性たち
『ライトスタッフ』は今も評価の高い傑作だが、活躍するのはほぼ白人男性に限られていた。ヒスパニックへの差別意識を皮肉ったりアボリジニの文化を紹介したりしていて、一定の配慮がなされていたことは明らかだ。でも、登場する女性の多くはパイロットの妻で、危険な任務に赴く夫との関係性が描かれるだけである。基本は男たちの友情・努力・勝利の物語なのだ。
NASAはガガーリンが地球周回軌道飛行に成功した1カ月後にアラン・シェパードを宇宙に送り込んだ。ただし、それはわずか15分28秒の弾道飛行である。技術水準がソ連に及んでいないことは明らかだ。周回軌道に乗せるには、とてつもない複雑な計算を要する。黒人女性計算手たちのスキルが不可欠なのだ。
1962年にジョン・グレンが初の周回軌道飛行を成功させた時は、キャサリンが大気圏再突入の角度を設定している。『ライトスタッフ』ではグレンの沈着な行動だけが強調されていたが、『ドリーム』では、グレンとキャサリンの間に生まれた信頼関係が描かれている。
NASAで働く地味なスーツ姿の白人男性たちは皆同じような顔をしていて区別がつかないが、彼女たちは色とりどりの服を着て生き生きと働いている。計算手の役割が終わりそうだと見て取ると、いち早くコンピューター言語を学ぶという優れた対応力を発揮した。プライベートでも妻として母としての幸せを手に入れている。効率的な仕事ぶりと充実した私生活を両立させたスーパーキャリアウーマンなのである。新しい時代を迎えるための「正しい資質」を持っていたのは、彼女たちだった。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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