第171回:ブリストル405から降りる時、男はすべてを受け入れる
『ファントム・スレッド』
2018.05.25
読んでますカー、観てますカー
ぬるくない『マイ・フェア・レディ』
イギリスファッション界で確固たる地位を占める高級婦人服デザイナーが、レストランのウェイトレスと出会う。ふたりは惹(ひ)かれ合うが、属している階級が違っている。テーブルマナーも知らない田舎娘に、男は美しいドレスを与えた。彼女は次第に洗練された振る舞いを身につけていくのだった……。
そういう紹介の仕方をすると、『ファントム・スレッド』がまるで『マイ・フェア・レディ』の焼き直しのように聞こえてしまう。もちろん、そんなぬるい話ではない。監督は、ポール・トーマス・アンダーソンなのだ。ヒロインは花売り娘イライザとは違い、男の色に染まることを拒否する。この作品は、男女が恋愛という戦場で繰り広げる激しくも華やかなバトルを描いているのだ。
1950年代のロンドン。ハウス・オブ・ウッドコックには朝早くから縫い子が続々と集まってくる。貴族や金持ちの女性にエレガントなドレスを仕立てるオートクチュールの名店なのだ。主人のレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)は、起床するとヒゲを整えて鼻毛を切り、入念に靴を磨く。毎朝のルーティーンらしく、完璧に身だしなみを整えるのだ。完全主義者で、厳格な性格であることが見て取れる。
朝食のテーブルでは、同居している恋人ジョアナが彼に不満を述べようとする。レイノルズはにべもない。冷淡に対話を拒絶した。彼女はもう、レイノルズの霊感をかき立てる存在ではなくなったのだ。彼の姉シリル(レスリー・マンヴィル)は、その光景を見てすべてを悟った。この年まで独身を貫いている姉弟は一心同体で、お互いの心を知り尽くしている。
ロールス・ロイスで来店する貴婦人たち
ハウスを訪れる女性たちが乗ってくるクルマは、ロールス・ロイスやベントレーといった超高級車。美貌は衰え始めているが、優美で閑雅な風情を身にまとっている。理想的な容姿とはいえないモデルに、レイノルズは黙々と着付けを施す。美しい服を作ることだけが使命であり、貴婦人たちは彼の気持ちとは無関係に自らの虚栄心に見合うツールを手に入れる。
ミューズを失ったレイノルズは疲れ切ってしまい、リフレッシュのために海辺の別荘へと出掛けた。ひとりで「ブリストル405」に乗り、勇ましいエンジン音を発しながら早朝の道を走り抜けていく。後方からのカメラで丸いルーフと3分割のリアウィンドウがとらえられ、新たなパワーを得るために疾走する男の姿が浮かび上がる。雄々しいGTカーが、彼に生命力を与えるのだ。
朝食をとるために入ったレストランで、彼はぎこちない動きでサービスするウェイトレス(ヴィッキー・クリープス)に目を留めた。何度も転びそうになるが、そのたびに魅力的な笑顔を見せる。いたずら心なのか、レイノルズは彼女にややこしいメニューを注文した。ラプサンスーチョンの紅茶にウェルシュ・レアビット、ポーチドエッグ……。ほかにもいくつかオーダーすると、彼女は正確に記憶してレイノルズに料理を届けた。名前はアルマ。彼女が「ほかに何か?」と聞くと、彼は夕食に誘う。
夕刻、道で待つ彼女をブリストルで迎えにくる。レイノルズはクルマを降り、助手席のドアを開けた。レディーに対する紳士の作法だ。高級レストランにやってくると、彼はアルマが旺盛な食欲で食事をするのを見守るだけ。マナーを知らない彼女の食べ方はエレガンスとはほど遠いが、レイノルズはいとしげに見つめている。
アルマを仕立て部屋に迎え入れ、レイノルズは生地を合わせながら採寸する。後から入ってきたシリルは瞬時に状況を理解し、仮縫い作業を手伝った。この日から、アルマはレイノルズの新たなミューズとなる。彼女を見ているだけで、いくらでもドレスのデザインが湧いてきた。美しい服を着ることで、アルマは自信とプライドを身につけていく。レイノルズが彼女の可能性を開いたのだ。
運転席でうなだれた男
アルマはレイノルズの隣の部屋で暮らしているが、男女の関係ではない。間には、ドレスが介在している。美のインスピレーションだけが、ふたりを結びつけているのだ。心地よい緊張感の中で、端正な平衡状態が保たれている。イニシアチブを握るのはレイノルズで、アルマは彼のモチベーションを助けながら自らを高めていく。
完全無欠に見えた静的な関係性は、唐突に終わりの時を迎える。いつものようにブリストルで食事に出掛けた後、レイノルズは自分の部屋にアルマを招き入れた。
翌朝の食卓で、アルマはガリガリと音を立ててバターを削り、ドボドボとコーヒーを注ぐ。レイノルズはいら立ち、神経質に彼女を叱責(しっせき)する。謝るどころか、開き直って口答えするアルマ。彼女は最初から下品でがさつな所作を隠してはいなかったのだ。最初の食事の時、レイノルズはそれを優しい目で眺めていたではないか。
ふたりの間にほころびが見え始めても、ハウスの仕事は続く。ファッションショーのためのドレスを仕立てるには、アルマの存在が欠かせない。もはや彼女は受動的な立場ではなくなっている。均衡を保つには、レイノルズが変わるしかないのだ。
ファッションショーが終わると、レイノルズは精魂が尽き果てたような状態になる。メランコリーにとらわれたようで、生気が感じられない。ブリストルで出掛けようとしても、レイノルズは運転席でうなだれたままだ。「私が運転する」と申し出たアルマに対しても無言。席を入れ替わり、関係性の逆転が確定する。これ以降、スクリーンにブリストルが登場することはない。
映画の価値を上げるネタバレ
駆け引きはなおも続くが、レイノルズはもはや抜け殻のようなものである。ハウスの主は、アルマなのだ。彼女はとどめの一撃を決行する。倫理的には許されない行為だ。森で採ってきた毒キノコをスープに混ぜ、レイノルズに食べさせた……。
こんなネタバレを書いてしまっていいのだろうか。まったく問題はない。プレス資料に挟まれていた紙には、宣伝チームからのメッセージが記されていた。
<ストーリーの「アルマがレイノルズに毒を盛る」という部分を伏せていただきたい旨を記載しておりましたが、宣伝をしていくなかで、その箇所を隠すというのは違うのではないか、という思いに至りました>
正常な感覚である。映画というのは単純な謎解きではない。過度にネタバレを恐れるのは間違いだ。以前、ある映画のプレス資料に「主人公の考えていることを“妄想”と表現するのはやめてください」という指令が書かれていたことがある。とんでもない話だ。宣伝会社に解釈を制限する権利があるはずもない。別の映画で「登場人物のひとりがツバ吐き女王だということは伏せてください」と指図されたこともある。その作品が最低の出来で、観る価値のないクズ映画であることのほうが重要なネタバレだったのだが。
ついでにもうひとつこの映画の関係者をほめておくと、シンプルな邦題もすてきだ。映画のストーリーを半ば語ってしまうような長々としたサブタイトルをつけることが常態化している中で、潔い姿勢である。ファントム・スレッドとは幻の糸という意味だそうだが、そんなことを知らなくたっていい。ポール・トーマス・アンダーソンとダニエル・デイ=ルイスが『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以来久々にタッグを組むのだ。価値のわかる観客は劇場にやってくる。
映画の結末は、ビターテイストである。諦め、受け入れることで、愛は完成した。そう思うこともできるし、ただの錯覚であると考えるのにも正当な理由がある。レイノルズには、もうブリストルは必要ない。それが幸福であるという解釈を否定することはできないが、認めるのは嫌だ。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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