東洋の奇跡? 還暦を迎えた「ホンダSシリーズ」が残したもの
2023.12.18 デイリーコラム還暦を祝うファンミーティング
1963年にホンダが軽トラックの「T360」と小型スポーツカーの「S500」で四輪車市場に進出してから、今年でちょうど60年。軽トラながら日本初のDOHCエンジン搭載市販車だったT360もマニアックな存在ではあるが、S500に始まり「S600」「S800」へと発展していった「ホンダスポーツ」こと「Sシリーズ(型式名AS~)」は日本が世界に誇るライトウェイトスポーツの傑作である。
そのSシリーズをこよなく愛するオーナーの集いがホンダツインカムクラブ(HTCC)。1976年に創設された、「ダットサン・フェアレディ」が対象のSP/SRオーナーズクラブや日野コンテッサクラブと並んで、オーナーによる日本車ワンメイククラブのパイオニアである。
創設当時からSシリーズの動体保存を第一義としてさまざまな活動を行ってきたHTCC。イベントも数え切れないほど開催してきたが、近年では2013年にホンダスポーツ生誕50周年イベントをツインリンクもてぎ(現モビリティリゾートもてぎ)で、2016年にS800の生誕50周年イベントをSシリーズの生まれ故郷であるホンダ狭山工場ほかでHTCCが中心となって実施。そして生誕60周年となる今回は「ホンダS還暦ミーティング」と称する集いを去る11月12日に、静岡県伊豆市にある中伊豆ワイナリーヒルズで開催した。
当日集まったSシリーズは、「S600」が24台、「S600クーペ」が2台、「S800」が44台、「S800クーペ」が19台、「S600改」が2台の計91台。それら参加車両のほか、HTCCが長年にわたって良好な関係を築いている製造元であるホンダから、普段はもてぎにあるホンダコレクションホールに展示されている「スポーツ360」のレプリカも出張展示された。
スポーツ360とは、1962年の東京モーターショー(当時の和文表記は全日本自動車ショウ)に参考出品されたものの市販されなかった幻の軽スポーツ。その後オリジナルは所在不明となっていたが、ホンダが2013年にレプリカを製作。実はそれがお披露目されたのも、前述したHTCC主催のSシリーズ生誕50周年イベントだったのだ。ちなみに今回は、本田技研工業取締役代表執行役副社長の青山真二氏も自身の所有するS800クーペを携えて来場した。
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前代未聞の360cc DOHC
冒頭で筆者は、Sシリーズのことを「日本が世界に誇るライトウェイトスポーツの傑作」と記した。その根拠はといえば、誕生した1960年代において、Sシリーズほど高度なメカニズムを持ち、高性能を誇る量産小型スポーツカーは、世界のどこを見わたしても存在しなかったからである。S800は、ルマンウイナーからモータージャーナリストに転身したポール・フレールをして「趣味グルマとしては『ロータス・エラン』に次ぐ存在」と言わしめ、真のセレブリティーであるモナコのグレース王妃にも愛用された。当時の世界における日本車のレベルを考えたら、「東洋が生んだ奇跡」と言っても過言ではない存在といえるだろう。
創業者である本田宗一郎の「四輪に参入するからには世界一のクルマをつくり、世界中の顧客に提供する義務がある」という信念から生まれたというSシリーズ。その高性能の源は総アルミ製の水冷4気筒DOHCエンジン。小排気量のDOHCエンジンというだけなら、アバルトやそれ以前のオスカなどのイタリア製軽スポーツにも存在した。だが、小さいとはいえそれらは750cc前後。500cc、ましてや(市販化されなかったが)360ccとなると四輪車用としては前代未聞。しかも基本的にコンペティション主体の少量生産だったイタリア勢に対して、Sシリーズは量産市販車だったのだ。
実際、1963年から70年までの約7年間につくられたSシリーズは約2万5000台を数える。これは同時代の国産スポーツカーであるダットサン・フェアレディの約9000台や「トヨタ・スポーツ800」の約3000台と比べても、はるかに多いのだ。
クランク支持はニードルローラーベアリングで、4基のCV型キャブレターを備えて1万rpmまで回るといわれたSシリーズのツインカムユニット。海外では「時計のように精巧」と評されたと伝えられていたが、個人的にはリーズナブルな価格を保ちつつ外国製の一級品と肩を並べるほど精度を向上させた、当時の日本製腕時計の姿が重なってしまう。なぜなら、Sシリーズもその凝ったつくりと性能からすれば信じられないほどの低価格で世に出たからだ。
1963年6月、ホンダは同年秋に発売予定の「スポーツ500」(実際に発売された際の名称はS500)の話題づくりのため、過去に例のない「価格当てクイズ」を実施した。しかもズバリ当たれば賞品はスポーツ500と現金100万円という夢のような企画だった。
クイズには570万通以上の応募があったが、発表された価格は45万9000円。大卒初任給が1万7000円ちょっとだった当時の生活水準からすれば高価には違いないが、軽のベストセラーだった「スバル360デラックス」が39万円、国民車構想から生まれた「トヨタ・パブリカ デラックス」が42万9000円だったことを思えば、破格のバーゲンといっていいだろう。
なお、S500の発売は1963年10月だが、実際の納車は翌1964年にズレ込んでしまった。にもかかわらず同年3月には早くも内外装の細部を改め排気量をアップしたS600を追加した。S500と併売とされたが、こうなるとあえてS500を求める客はいなかったのではないか。四輪市場進出に伴い混乱もあったと推察されるが、こうしたドタバタはいまなお散見されるホンダのあしき伝統のように思えてしまう。
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当初からモータースポーツを意識
四輪市場進出に先立ち、ホンダは日本初の全面舗装された常設レーシングコースである鈴鹿サーキットの建設を企画、1962年に完成させていた。「クルマをつくるならば走らせる場も必要」「レースをやらなければいいクルマはつくれない」といった、これまた本田宗一郎の信念から実現させたものだが、これはホンダのみならず日本の自動車工業全体に計り知れない恩恵を与えた英断だった。
1964年3月に市販開始されたS600から本格的なデリバリーが始まり、世にスポーツカーの魅力を広めていくわけだが、いっぽうではモータースポーツへの関心も誘った。同年5月に鈴鹿サーキットで開かれた第2回日本グランプリには、この年から参戦開始するホンダF1のドライバーに抜てきされたロニー・バックナムや契約ライダーだった北野 元らを擁するワークスチームをGT-Iレース(1000cc未満)に送り込み、トップでフィニッシュした「マーコスGT」(997cc)のペナルティーにも助けられてS600が1~4位を独占、その高性能ぶりを印象づけた。
余勢を駆ってホンダは2台のワークスS600を欧州に送り、1300cc以下のマシンによって争われる同年9月のニュルブルクリンク500kmに参戦した。「アバルト・シムカ1300ビアルベロ」が総合1~3位を占めたこのレースで、後にF1王者となるデニス・ハルムが駆ったS600は総合13位、GT1000ccクラス優勝を果たす。これが国際舞台におけるホンダ四輪の初勝利となった。
こうした活躍により、モータースポーツに目覚めた若年層を中心とするユーザーがS600で鈴鹿サーキットを走り始めた。そのなかには、後にトヨタのワークスドライバーとして活躍する鮒子田 寛や見崎清志らがいた。また、すでに他社の契約ドライバーだった生沢 徹や浮谷東次郎も自ら購入したS600で腕を磨いた。浮谷がモータースポーツ誌『モーターファン オートスポーツ』の1965年春号に寄稿した、フルノーマルのS600で鈴鹿を3分10秒以内で走ることを目的とした、13ページにもわたる「ホンダS600によるスズカのドライブ・テクニック」は、レースに憧れる若者のバイブルとなった。Sシリーズはプロを含む多くのドライバーを育てたのだ。
とはいえ、実際にS600を手に入れられる層は限られたが、そうでない人々に向けてもホンダは対応した。S600によるレンタカー事業を始め、鈴鹿サーキットにもスポーツ走行用にS600のレンタカーを用意。少しでも多くの人がスポーツカー体験を味わえるよう計らったのだ。
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数々のレーシングカーのベースモデルに
Sシリーズは別体式のラダーフレームに2座オープンまたはテールゲート付きのクーペボディーを載せていた。その構造、また四輪乗用車の第1作とあって開発が手探りだったこともあり、車重は初期型S600で715kg。レースでライバルだった通称“ヨタハチ”ことトヨタ・スポーツ800はモノコック構造で580kgしかなかったことを考えると、重めであることは否めなかった。
だがその構造ゆえに、コンペティションマシンの格好のベースともなった。もともとパワーユニットやシャシーのポテンシャルは高い。そこで本来のボディーを降ろして軽量なボディーに載せ替えれば、高性能なレーシングカーが出来上がるというわけだ。
後に日本の代表的なレーシングカーコンストラクターに成長する童夢の設立者である林みのるは、1965年に友人だった浮谷東次郎のS600を改造するところからキャリアをスタートさせている。空気抵抗を減らすべくスラントノーズ化し、クーペにモディファイしたボディーをマットブラックの黒板用塗料で塗ったことから「カラス」と呼ばれたマシンを皮切りに、Sシリーズのシャシーを使ったレーシングカーを何台か製作。1967年に登場した「マクランサ」のFRP製ボディーは数台つくられて市販された。
1960年代末から活動を始めたレーシングカーコンストラクターであるレーシングクォータリー(RQ)も、「コニリオ」と称するS800のシャシーに架装するFRP製ボディーを市販した。デザインしたのは、日本におけるFRPボディー製作のパイオニアである工業デザイナーの濱 素紀。ほかに本田宗一郎の長男で、後に無限を設立する本田博俊は、S800のメインフレームをベースとした鋼管スペースフレームにFRP製ボディーを載せたレーシングスポーツ「ホンダ・カムイ」を製作している。
これらSシリーズをベースとするレーシングカーは、1960年代後半から1970年代初頭にかけてサーキットで活躍した。Sシリーズはレーシングドライバーだけでなく、コンストラクターも育てたのである。
赤いボディーカラーはホンダのおかげ
「ホンダS還暦ミーティング」の会場に、一般的にはほとんど知られていない1台の赤いクーペが来場していた。1960年代から1970年代にかけて活動した、日本のカスタムビルダーの草分けといわれるカロッツェリア・ワタナベの手になる、S600のシャシーにFRP製ボディーを載せたスペシャルである。
このクルマは1970年にモービル石油のイメージカー「フライングペガサス」としてつくられ、同社の広告やテレビCMに登場した個体。当時は改造車に対する規制が現在とは比較にならないほど厳しかったが、苦労して公認を取得しており、モービルのキャンペーン終了後に「グリフォン」の名で市販された。
しかし、通称“ハコスカ”の「日産スカイライン2000GT」が86万円だった当時、ベースとなるS600を持ち込んだうえで150万円で製作されたという高コストも災いして、生産台数はこの個体を含めてわずか3台といわれている。ちなみにその後、特撮TVドラマ『電撃!! ストラダ5』に劇中車として登場し、プラモデル化もされている。
そのフライングペガサス/グリフォンだが、「いすゞ・ベレットBタイプ」から流用した異形ヘッドライトにまぶたがかぶさる、セミリトラクタブルライトが印象的だ。日本車では1981年デビューの「いすゞ・ピアッツァ」から採用され始めた、このライトを持つフライングペガサス/グリフォンをデザインしたのは誰かといえば……当時は伏せられていたが、なんとホンダに在籍していたデザイナーなのだという。そして、そのデザイナーは後に「バラードスポーツCR-X」を手がけた、といえば合点がいくだろう。
シャシーがS600で、デザインはホンダのデザイナー。いささかこじつけがましい気もするが、レーシングカーコンストラクターのみならず、カスタムビルダーの育成にもSシリーズは関わっていたといえないだろうか。
というわけで、高性能なライトウェイトスポーツというだけでなく、Sシリーズはさまざまな功績を日本の自動車界に残したモデルなのである。そうそう、最後にもうひとつ。Sシリーズのコンパクトなボディーには真っ赤なカラー(色名は「スカーレット」)が似合うが、実はこれをまとうにあたってもひともんちゃくあったのだ。
スポーツ360/500のプロトタイプがベールを脱いだ1962年当時の日本には、赤は消防車、白は救急車と誤認する恐れがあるため、一般車両には使用禁止というばかげた法規が存在したのである。それをホンダが運輸省(現・国土交通省)を相手に孤軍奮闘して許可させたのだ。つまり今日、われわれが真っ赤なクルマに乗れるのも、さかのぼればホンダSシリーズのおかげというわけなのだ。
(文=沼田 亨/写真=沼田 亨、本田技研工業、トヨタ自動車/編集=藤沢 勝)
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沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。
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