第267回:カーチェイスが映画冒頭だけである理由とは?
『ARGYLLE/アーガイル』
2024.03.01
読んでますカー、観てますカー
ギリシャの旧市街をMiniモークが爆走
マシュー・ヴォーンが帰ってきた! うれしいことにスパイ映画である。『キングスマン』シリーズは続編が示唆されていたのに、2021年の『キングスマン:ファースト・エージェント』は前日譚(たん)で肩すかしだった。『ARGYLLE/アーガイル』は完全に別物である。ラストではちょっと気になるほのめかしがあったものの、とりあえずは無関係なストーリーだ。
ド派手なオープニングである。ゴールドのドレスに身を包んだ美女が、マオカラーのジャケットでキメたイケメンに声をかける。
「色男はダンスも上手かしら?」
「試してみるか?」
デビッド・ボウイの『レッツ・ダンス』にのせて華麗なダンスが始まる。いい感じに盛り上がるが、このイケメンがスパイなのはバレていた。美女の合図で一斉に銃口が向けられ危機一髪。古き良きスパイ映画のようなケレン味たっぷりの見せ方だ。
なんとか脱出し、ギリシャの旧市街でカーチェイスが始まる。男が乗るのは「Miniモーク」。Miniをベースにビーチバギー風に仕立てたモデルである。本来は非力なクルマだが、目の覚めるようなスピードで爆走。石塀の上をまるでスケートボードのように滑り落ちるシーンもある。リアルさは度外視して、視覚効果だけを狙った撮影手法だ。
ただし、この後はこういったカーアクションは出てこない。フェラーリ、ボルボなどが登場するものの、単なる移動手段である。この映画は2つの世界で交互にストーリーが展開していて、フィクションラインが揺れ動いているからだ。
小説と現実が入れ替わる
ダンスとカーチェイスは、スパイアクション小説『アーガイル』で描かれている場面だった。作者のエリー・コンウェイ(ブライス・ダラス・ハワード)は、猫のアルフィーをこよなく愛する地味めな独身女性である。彼女の日常は至って平和だ。美男美女のスパイが丁々発止の駆け引きを繰り広げているのは、パソコンに向かって新作の構想を練っている脳内である。
しかし、この2つの世界はどこかで通じ合っているようなのだ。エリーが電車に乗っていると、ヒッピーじみたさえない男エイダン(サム・ロックウェル)に声をかけられた。礼儀を知らないガサツなタイプである。関わり合いにならないようにしたのは当然だ。本を読んでいるふりをして無視していると、車内にいたほかの男たちが彼に襲いかかってきた。エイダンはスパイで、対立する組織から狙われているのだという。巻き込まれたエリーは、一緒に逃亡するハメになる。
エリーが小説で描いたイケメンスパイのアーガイルは空想の産物であり、実際には目立たない男のほうがこの仕事に向いている。それでフィクションラインが2つあるわけだ、と納得するわけにはいかない。エリーの目には、エイダンとアーガイルが重なって見えている。2人が何度も入れ替わり、何が現実なのかわからなくなってしまう。
地味で退屈だったはずの日常に小説世界が入り込んでくる。平和どころか、本当に命をかけた逃亡劇が続いていくのだ。『ボーン・アイデンティティー』のマット・デイモン的な展開もあり、エリー自身もキレのいいアクションを披露することになる。
バカバカしくも斬新なアクション
『キック・アス』で幼いクロエ・グレース・モレッツにおてんばバイオレンスを披露させたマシュー・ヴォーン監督だから、今回も荒唐無稽で斬新なアクション演出を用意している。スモークの中で回転ダンスをしながら銃を乱射し、バラエティー番組のヌルヌル相撲のような状況をスケーティングで切り抜ける。バカバカしいけれど、エンターテインメント的にはこれでいい。シリアスを追求しすぎている最近の『007』や『ミッション・インポッシブル』へのアンチテーゼが彼の求める世界である。
アーガイルを演じているのはヘンリー・カヴィル。『0011 ナポレオン・ソロ』のリメイク作品『コードネームU.N.C.L.E.』では、1960年代の腕利きスパイを演じていた。仕立てのいいスーツを着こなす古典的なキャラクターだったが、今回はその誇張しすぎたモノマネっぽい。カサのある角刈りで、福禄寿(ふくろくじゅ)のように頭が長い。イケメンではあるが、コミカル寄りである。
オープニングのゴージャス美女は、イケイケシンガーでポップアイコンのデュア・リパ。映画に出演するのは『バービー』に続いて2度目だ。サミュエル・L・ジャクソン、ジョン・シナも出演していて、キャストの豪華さには目を見張る。みんなこういう良質なエンタメ作品に出演したいのだ。東西冷戦が終わってリアリティーを失ったとも言われるが、スパイ映画にはまだまだ未知の可能性が残されていることを彼らはよく知っている。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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