クルマ好きなら毎日みてる webCG 新車情報・新型情報・カーグラフィック

第961回:海賊エンツォ・フェラーリ 敵に取り囲まれる

2026.05.14 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ
【webCG】クルマを高く手軽に売りたいですか? 車一括査定サービスのおすすめランキングを紹介!

“修理工”にやられた

イタリアでは近年、スクーデリア・フェラーリに関して2000年代初頭の熱狂的雰囲気に匹敵するものが感じられない。ゆえにここ数年のF1世界選手権には、筆者もさほど関心を抱いていなかった。ところが2026年シーズンは、キャデラック、アウディ、そしてホンダとアストンマーティンのコンビと、新参組が数々みられる。キャデラックはフェラーリからエンジンの供給を受け、アウディはザウバーを買収しての参戦だが、強豪がひしめく世界で即座に頭角を現すのは難しいだろう。それでも、どの程度のパフォーマンスを示してくれるのか興味をもって見守っているところである。

F1といえば、イタリアの「トリノ自動車博物館(MAUTO)」で、2026年4月2日から10月11日まで「ドレイクの敵—エンツォ・フェラーリと英国のチームたち」と題した企画展が開催されている。1960年代から1980年代に、F1でフェラーリと競い合った英国のさまざまなコンストラクターに焦点を当てたものである。

技術、形状そして進取の気性の塊であるF1は、第2次大戦後において自動車競技の象徴となった。企画展のタイトルにある「ドレイク(Drake)」とはエンツォ・フェラーリのニックネームである。彼の異名としては、イタリア政府が彼に授けた勲位「イル・コメンダトーレ」が有名だ。いっぽうドレイクとは、16世紀後半のイングランドにおける伝説の私拿捕船(しだほせん)船長、フランシス・ドレイクにあやかったものだ。エンツォと誕生したばかりの彼の小さな会社が、さまざまなレースでライバルを圧倒するさまを、英国のコンストラクターが無敵の海賊にたとえたものである。

またドレイクは、エンツォのワンマンぶりを評したものでもあった。それをほうふつとさせるのは、1956年から1961年までスクーデリア・フェラーリでドライバーとして活躍したオリビエ・ジャンドビアンの言葉だ。「フェラーリ? 彼の前ではムッソリーニだって子供のようになるだろう」

エンツォ・フェラーリは当初、イギリスのコンストラクターをガラジスタ(garagista:自動車修理工)と軽蔑を込めて呼んでいた。だがF1が開催され始めると、英国勢は軽量構造、革新的シャシー、驚異的な速度を武器に、フェラーリにとってあなどれないライバルとなった。そして気がつけばレースのパワーバランスを塗り替えていた、というのが企画展の訴えるところである。

展示の締めくくりには、1989年フェラーリ「F1-89」が選ばれている。F1初の装備として同車に搭載されたステアリングパドル操作式セミオートマチック変速機は、ギルフォードにあるフェラーリの技術拠点でジョン・バーナードによって開発されたものである。「フェラーリが英国のエンジニアリングスクールに暗黙のうちに屈服したことを示すもの」というのが、展示の理由だ。

1958年「フェラーリ246」。フロントエンジンでタイトルを獲得した最後のフェラーリである。以下、年は展示車のもの。
1958年「フェラーリ246」。フロントエンジンでタイトルを獲得した最後のフェラーリである。以下、年は展示車のもの。拡大
クーパーT51(1959年:右手前)
クーパーT51(1959年:右手前)拡大
英国勢のF1躍進と時を同じくして登場したモデルとして展示された1959年「モーリス・ミニ マイナー」。
英国勢のF1躍進と時を同じくして登場したモデルとして展示された1959年「モーリス・ミニ マイナー」。拡大
1963年「フェラーリ156」。同社初のミドシップF1マシンであるとともに、展示の後期型では、こちらも初めてアルミ製ボディーパネルが採用された。
1963年「フェラーリ156」。同社初のミドシップF1マシンであるとともに、展示の後期型では、こちらも初めてアルミ製ボディーパネルが採用された。拡大
1966年「クーパー・マセラティT81」。規定の排気量が1.5リッターから3リッターへと倍増した年に登場したマシンで、展示車はヨアキム・ボニエが操縦した個体。
1966年「クーパー・マセラティT81」。規定の排気量が1.5リッターから3リッターへと倍増した年に登場したマシンで、展示車はヨアキム・ボニエが操縦した個体。拡大
自動車競技が登場する映画のポスター。一番左は1966年『男と女』のイタリア語版。
自動車競技が登場する映画のポスター。一番左は1966年『男と女』のイタリア語版。拡大
「フォード・コスワースDFV」V8エンジン。ロータス、ティレル、マクラーレン、ウィリアムズなど、数々の英国チームによって10年以上にわたり用いられた。
「フォード・コスワースDFV」V8エンジン。ロータス、ティレル、マクラーレン、ウィリアムズなど、数々の英国チームによって10年以上にわたり用いられた。拡大
1968年「ブラバムBT24」。展示車はデニス・ハルムをワールドチャンピオンに導いた車両そのもので、現在の塗色は後年、別のレーシングチームであるシルビオ・モーザーにわたってからのもの。
1968年「ブラバムBT24」。展示車はデニス・ハルムをワールドチャンピオンに導いた車両そのもので、現在の塗色は後年、別のレーシングチームであるシルビオ・モーザーにわたってからのもの。拡大
1971年「ロータス56B」。ガスタービンエンジンを搭載。エマーソン・フィッティパルディらが操縦した。
1971年「ロータス56B」。ガスタービンエンジンを搭載。エマーソン・フィッティパルディらが操縦した。拡大
1972年「ロータス72D」。6シーズンにわたって用いられた長寿マシンで、ヨッヘン・リント(1970年)とエマーソン・フィッティパルディ(1972年)の2人をチャンピオンに導いた。
1972年「ロータス72D」。6シーズンにわたって用いられた長寿マシンで、ヨッヘン・リント(1970年)とエマーソン・フィッティパルディ(1972年)の2人をチャンピオンに導いた。拡大
ロータス72D(1971年)
ロータス72D(1971年)拡大
1973年「ティレル005」。「フォード・コスワースDFV」V8エンジンを搭載。ジャッキー・スチュワートが3度目の世界チャンピオンに輝く原動力となった。左後方の壁には、当時の風俗や世相が回顧されている。
1973年「ティレル005」。「フォード・コスワースDFV」V8エンジンを搭載。ジャッキー・スチュワートが3度目の世界チャンピオンに輝く原動力となった。左後方の壁には、当時の風俗や世相が回顧されている。拡大
ヘルメットの展示。左手前は1974年にエンバシー・レーシングのグラハム・ヒルが着用したもの。
ヘルメットの展示。左手前は1974年にエンバシー・レーシングのグラハム・ヒルが着用したもの。拡大
1976年「マーチ761」。同年のモンツァ・グランプリでロニー・ピーターソンの操縦により、コンストラクターに最後のF1勝利をもたらした。
1976年「マーチ761」。同年のモンツァ・グランプリでロニー・ピーターソンの操縦により、コンストラクターに最後のF1勝利をもたらした。拡大
1976年「マクラーレンM23」。こちらもパワーユニットは「フォード・コスワースDFV」V8である。ジェームス・ハントが駆った。
1976年「マクラーレンM23」。こちらもパワーユニットは「フォード・コスワースDFV」V8である。ジェームス・ハントが駆った。拡大

ヒーローたちの名言も

訪問前の筆者による思い込みを明かせば、「『イタリア側から見た英国のグランプリカー』という企画の新しさはあるものの、回顧展の域を出ないものだろう」というものであった。

ところが実際に会場を訪れてみると、車両だけでなく、英国のF1コンストラクターの活躍が「スウィンギング・ロンドン」として音楽、ファッション、写真、映画へと拡大し、活力と楽観主義の時代を形成したことにもパネルで言及されていた。

同時に、筆者は歴代マシンのディテールにも目を奪われた。例を挙げれば、1972年「ロータス72D」の限りなく薄いフロントカウルと、リズムを刻んでいるかのように並べられた3連メーターとステアリングホイール、そして6輪エクスペリメンタルカーである1977年「マーチ2-4-0」のレザーシートである。

レーシングスーツのコレクションでは、1978年にアロウズを駆ったリカルド・パトレーゼが着用していたストライプ状のパターンに目を奪われた。ファッションアイテムのように洗練されているのだ。

言うまでもなく、それらの空力性能、人間工学、安全性、(レーシングスーツに関して)耐火性が、今日の水準から著しく乖離(かいり)していることは明らかだ。しかし、当時のものにそこはかとない美しさを見いだすのは筆者だけではあるまい。

レースが生んだ社会的副次効果として、1966年『男と女』、1971年『栄光のル・マン』といった、モータースポーツにまつわる映画のポスター展示コーナーも設けられていた。ちなみに少し前、ブラッド・ピット主演の2025年『F1/エフワン』を鑑賞した筆者の感想はといえば、実走シーンよりもCG制作によるカットのほうがより強く印象に残ってしまった。特殊効果が限定されていた1960-1970年代の作品に、よりつくり手の気迫を感じてしまうのはどうしたものだろうか。

天井からは、ヒーローたちが残した、さまざまな名言が垂れ幕となってビジターに訴えかけていた。

「多くの人がF1は意味なき危険という。しかし、私たちが必要なことのみしていたら、どのような人生になるというのだ」(ニキ・ラウダ)

「もしすべてがアンダーコントロールであるなら、お前は最速で走っていないということだ」(マリオ・アンドレッティ)

常設展のF1展示室では、このような言葉も発見した。

「追い越しが不可能なカーブなどない」(アイルトン・セナ)

彼らと対照的に、日ごろからリスクを避け、不可能を恐れてばかりいる自分の情けないことよ。フェラーリの躍進を阻止した英国のグランプリマシンという本題を置いて、しばし反省してしまったトリノの一日であった。

(文と写真=大矢アキオ ロレンツォ<Akio Lorenzo OYA>/編集=堀田剛資)

1977年「ブラバムBT45」。エンジンサプライヤーとしてF1に復帰したアルファ・ロメオによる12気筒フラットエンジンが搭載されている。
1977年「ブラバムBT45」。エンジンサプライヤーとしてF1に復帰したアルファ・ロメオによる12気筒フラットエンジンが搭載されている。拡大
1977年「マーチ2-4-0」。有名な「ティレルP34」同様、小径6輪の採用で空気抵抗の改善を狙った。ただしティレルが前4輪だったのに対して、こちらは後ろが4輪。残念ながらプロトタイプに終わった。
1977年「マーチ2-4-0」。有名な「ティレルP34」同様、小径6輪の採用で空気抵抗の改善を狙った。ただしティレルが前4輪だったのに対して、こちらは後ろが4輪。残念ながらプロトタイプに終わった。拡大
マーチ2-4-0(1977年)
マーチ2-4-0(1977年)拡大
マーチ2-4-0(1977年)
マーチ2-4-0(1977年)拡大
往年のレーシングスーツ。左から1965年ジム・クラーク、1971年ジャッキー・ステュワート、1972年ヴィットリオ・ブランビラ、1978年リカルド・パトレーゼ。
往年のレーシングスーツ。左から1965年ジム・クラーク、1971年ジャッキー・ステュワート、1972年ヴィットリオ・ブランビラ、1978年リカルド・パトレーゼ。拡大
1978年「セオドールTR1」。当時英国領の香港を本拠としていたセオドールのF1参加を実現するとともに、ケケ・ロズベルグにとってはF1デビューの記念すべき一台となった。
1978年「セオドールTR1」。当時英国領の香港を本拠としていたセオドールのF1参加を実現するとともに、ケケ・ロズベルグにとってはF1デビューの記念すべき一台となった。拡大
1981年「ウィリアムズFW07」。1979年英国グランプリでクレイ・レガッツォーニの操縦により、ウィリアムズ初の優勝を実現した。さらに1980年にはコンストラクター/ドライバー(アラン・ジョーンズ)双方のタイトル獲得に一役買った。
1981年「ウィリアムズFW07」。1979年英国グランプリでクレイ・レガッツォーニの操縦により、ウィリアムズ初の優勝を実現した。さらに1980年にはコンストラクター/ドライバー(アラン・ジョーンズ)双方のタイトル獲得に一役買った。拡大
1981年「ロータス88B」。モノコック+フローティングマウント式カウルでダウンフォース向上を狙った「ツインシャシー」を採用。しかしレギュレーションに合致せずと判断され、実戦参加はかなわなかった。
1981年「ロータス88B」。モノコック+フローティングマウント式カウルでダウンフォース向上を狙った「ツインシャシー」を採用。しかしレギュレーションに合致せずと判断され、実戦参加はかなわなかった。拡大
「ロータス88B」(1981年)。
「ロータス88B」(1981年)。拡大
1985年「ブラバムBMW BT54ターボ」(手前)。レーシングカーデザイナーのゴードン・マレーがブラバム時代に手がけた最後の仕事である。
1985年「ブラバムBMW BT54ターボ」(手前)。レーシングカーデザイナーのゴードン・マレーがブラバム時代に手がけた最後の仕事である。拡大
ブラバムBMW BT54ターボ(1985年)
ブラバムBMW BT54ターボ(1985年)拡大
1985年「ブラバムBMW BT54ターボ」。コックピットはデジタル時代黎明(れいめい)期のものである。
1985年「ブラバムBMW BT54ターボ」。コックピットはデジタル時代黎明(れいめい)期のものである。拡大
1989年「フェラーリF1-89」。フェラーリの英国技術センターで開発された半自動変速機を採用していた。モナコ大公コレクション所蔵。
1989年「フェラーリF1-89」。フェラーリの英国技術センターで開発された半自動変速機を採用していた。モナコ大公コレクション所蔵。拡大
「フェラーリF1-89」のコクピット。
「フェラーリF1-89」のコクピット。拡大
1989年「マクラーレンMP4/5」。ターボ時代の終焉(しゅうえん)後、新しい3.5リッター自然吸気時代の幕開けを象徴した一台である。マクラーレン・ホンダはこのマシンで、ドライバー(アラン・プロスト)とコンストラクター双方のチャンピオンシップを獲得した。
1989年「マクラーレンMP4/5」。ターボ時代の終焉(しゅうえん)後、新しい3.5リッター自然吸気時代の幕開けを象徴した一台である。マクラーレン・ホンダはこのマシンで、ドライバー(アラン・プロスト)とコンストラクター双方のチャンピオンシップを獲得した。拡大
2000m2以上の展示スペースに、モノポストF1マシン22台と「モーリス・ミニ マイナー」1台が展示されている。
2000m2以上の展示スペースに、モノポストF1マシン22台と「モーリス・ミニ マイナー」1台が展示されている。拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、25年間にわたってリポーターを務めあげる。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。

マッキナ あらモーダ!の新着記事
マッキナ あらモーダ!の記事をもっとみる
関連キーワード
新着記事
新着記事をもっとみる

メルマガでしか読めないコラムや更新情報、次週の予告などを受け取る。

ご登録いただいた情報は、メールマガジン配信のほか、『webCG』のサービス向上やプロモーション活動などに使い、その他の利用は行いません。

ご登録ありがとうございました。

webCGの最新記事の通知を受け取りませんか?

詳しくはこちら

表示されたお知らせの「許可」または「はい」ボタンを押してください。