第244回:記憶喪失の男はクラッシュで何を思い出すのか?
『林檎とポラロイド』
2022.03.11
読んでますカー、観てますカー
何もかも忘れてしまった男
『林檎とポラロイド』が描くのは、奇病が流行して記憶喪失が急増した世界だ。異常な現象の理由は語られない。レオス・カラックスの『汚れた血』が、ハレー彗星(すいせい)の接近で地球が高温になっているという状況設定をしながら、何も説明しなかったのと同じだ。舞台装置としてSF的なシチュエーションを利用しているだけで、スクリーンには静かな日常が映し出される。
主人公の男の名前は示されない。彼も、記憶喪失になってしまうからだ。自宅で奇病治療法のニュースを聞いてから外出し、街で花束を買って歩いていると、クルマを停めて道をふさいでしまった男がいた。後続車からどいてくれ、と言われるが、彼は自分のクルマではない、と答える。どうやら、突然記憶喪失になってしまったようだ。
男はかなり遠くまで行ったのだろう。帰路のバスで眠ってしまい、終点についた時には夜になっていた。運転手に起こされるが、自分がどこに行こうとしていたのか思い出せない。名前すらわからなくなっていた。彼もまた、奇病に冒されてしまったのか。
記憶喪失者は珍しくなくなっていたから、行政の対応はスムーズである。彼は患者が収容されている施設に連れていかれ、14842という数字で呼ばれることになった。慣れてしまったのか、医師たちも同室の患者も、あまり深刻そうではない。のんきに談笑している。男は何もかも忘れてしまったが、自分の好みは変わらなかったようだ。リンゴばかり食べているのは、好物なのだろう。
“新しい自分”を獲得するプログラム
施設では病状を調べるために、記憶力を試験する。箱の中身を当てるテストでは、8問中正解できたのは1つだけ。『ジングルベル』『白鳥の湖』などの曲を流して関連する図像を選ぶのも失敗続き。記憶の回復は困難だと診断される。施設で暮らしている間に家族や友人が探しに来れば一緒に帰ることができるが、面会者は一人も来なかった。
治療の最終手段は、“新しい自分”を獲得するための回復プログラムである。彼はアパートの部屋に案内され、そこで生活して与えられたミッションをこなすように指示される。経験が積み重ねられていくことで、新たな人格が形成されるのだ。達成するたびにポラロイドカメラで写真を撮り、担当医師に報告する。
翌日、彼は公園に出かけた。自転車に乗るというミッションをクリアするためである。子供から借りた自転車に乗って撮影。家に帰るとアルバムに証拠写真を貼り付ける。次々に示される課題に従って行動することが、男の生活のすべてだ。仮装パーティーでは宇宙飛行士に扮(ふん)し、キャットウーマンコスプレの女性と友達になる。ストリップクラブでは、踊り子さんと並んで自撮り。プールで高飛び込みをするというミッションは、勇気が出せずにズルをした。
ホラー映画を観るという課題も。上映されていたのは『悪魔のいけにえ』。客席には怖がって目を覆っている女がいた。彼女も同じプログラムの参加者で、男は映画看板の前で撮影を手伝う。次の日も彼女と出かけた。クルマに乗ってわざと衝突させるというミッションのためだ。
クルマを衝突させるミッション
自転車に乗るという課題が習慣の力を取り戻す目的だったのとは逆で、クルマをクラッシュさせるのは危機的な状況を経験することで心的外傷を植え付けるというショック療法なのだろう。女は「シトロエンAX」を運転して大木に激突。男は別の日に初代「日産マーチ」で課題をクリアした。
この映画では、時代ははっきりと示されていない。課題はいつもカセットテープで知らされるし、デジカメではなくポラロイドを使っているから20世紀なのは確かだ。『悪魔のいけにえ』が公開されたのは1975年だが、AXが販売されていたのは1986~1998年で初代マーチは1982~1992年。アナログな感覚が支配していた頃というぐらいの、ゆるい設定である。
記憶をなくしても、穏やかな生活は続く。一つひとつミッションをこなしていく生活には、それなりの充実感がある。それがユートピアなのかディストピアなのかはわからない。クリストス・ニク監督は、深刻さや悲壮感をおかしみにくるんで見せている。奇妙な設定に乾いた笑いを仕込むスタイルが同じギリシャのヨルゴス・ランティモス監督に似ていると思ったら、『籠の中の乙女』で助監督を務めたという経歴の持ち主だった。
初のメジャー作品にして高い評価を受け、ケイト・ブランシェットがエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ねた。彼女のプロデュース、キャリー・マリガン主演で次作をハリウッドで製作することが決まっているという。恐るべき新人の登場である。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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