第783回:時代を先取りしすぎていたシエナの町医者 アレッサンドロおじさんの修理工場
2022.11.17 マッキナ あらモーダ!時計が止まったかのような
今回は筆者が住むシエナ市内にある、一軒のオフィチーナ(自動車修理工場)の話を。その工場は、ピッツェリアの隣にある。2階建ての1階部分で、まるで1970年代で時間が止まったかのようなたたずまいだ。整備ブースにはクルマが2台分しか入らない。
四半世紀前、筆者が住み始めたころは、隣にタイヤ専門ショップがあり、向かいには給油所が2軒も連なっていて、ドライバーにとっては便利な一角だった。だが、気がつけばいずれも店じまいしてしまい、クルマ関連は今やその修理工場のみである。
主(あるじ)はアレッサンドロというおじさんだ。1954年生まれだから、アルファ・ロメオの初代「ジュリエッタ」誕生の1年前である。事務兼ちょっとした助手役を務める奥さんのアマリアさんが午後になると出てくるが、午前中は独りのことが多い。
「TORNO SUBITO(すぐ戻ります)」という札が出ているときは、近所のバールか理髪店をのぞけば、アレッサンドロおじさんは大抵見つかる。
14歳で見習いメカニックとして職業人生をスタートしたおじさんが、42歳だった1996年に古い修理工場を居抜きで買い取ったものが現在の仕事場だ。
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四半世紀落ちパンダの宣伝効果
「若くして働き始めたおかげで、一時は『フィアット850クーペ』を買って乗り回していたよ」というアレッサンドロおじさんだが、現在のクルマはといえば、緑の初代「フィアット・パンダ」である。セーリエ2の後期型だ。899ccエンジンで、簡易な電子制御燃料噴射装置を搭載したモデルである。車検証を見せてもらうと、初年度登録は1997年で、おじさんは5人目のオーナーである。
「俺が買ったのは2005年だ」
当時は「オリーブグリーン」という名前だったボディーカラーは限りなく退色して、近ごろ流行のマットカラーに近い状態である。ウィンドウを取り巻くゴムには、すでに苔(こけ)が生えている。「苔のむすまで」使われているパンダだ。
それでも機関系は四半世紀落ちとは思えぬ良好ぶりであるところがフィアットらしいと、アレッサンドロさんは評する。さらに「仕入れた自動車部品を所構わず載せられるから、便利この上ないんだ」と言う。見れば、そうした用途のために助手席は撤去してある。後席は何年も倒したままだ。潔いほどにパンダを使い倒している。
同時に、朴訥(ぼくとつ)な本人が意識しているとは到底思えないが、そのパンダは工場にとって格好のアイキャッチになっているとみた。なぜなら観察していると、同様の初代パンダや同時代のフィアット車がたびたび入庫しているのだ。「あそこなら、いちいち受付を通して予約しなくてはならないディーラーのサービス工場よりも、気軽に直してもらえる」という気持ちを客に抱かせるのに十分なのである。
幻の充電スタンド
そのように内外とも時間が止まったようなアレッサンドロおじさんの修理工場だが、ある日のこと、本人が奥の引き出しから一枚の書類を取り出してきた。
「前にはな、こんなことも考えていたんだ」
地元市役所への営業許可申請書類である。2010年の文字が記されている。今から12年前だ。おじさんが56歳の年である。
アレッサンドロおじさんは続けた。
「電気自動車(EV)の充電ステーションを計画していたんだよ。そのために土地も確保していたんだ」
場所は郊外道路沿いで、面積はなんと2784平方メートル。842坪である。それなりのスケールだ。そこにちょうど居合わせた常連の男性もアレッサンドロおじさんの計画を覚えていたことからも、当時のアレッサンドロおじさんの意気込みが想像できた。
「でも、市役所の営業許可が下りなかったんだ」とアレッサンドロさんは残念そうに語る。
「当時、お役人には俺が何をやりたいのか、まったく理解してもらえなかったんだよ」
2010年といえば、まだ多くの国でEVなど一般的でなかった。あのテスラでさえ事実上のオリジナルモデル「モデルS」の発売前夜で、ロータス車をベースとした「ロードスター」しかなかった。にもかかわらず、なぜ充電スタンドを? それにはアマリアさんが横から答えてくれた。
「年を取ると、整備作業がだんだんきつくなるでしょう。だから少しでも楽な仕事を、と真剣に考えたのよ」
「早すぎたおじさん」だったのである。
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まるで町医者のごとく
充電スタンド予定地だった場所は、今も空き地だ。そのようなことを話していると、新たなお客が飛び込んでいた。おじさんと同じ初代パンダに乗っている。
日本でも報じられたように2022年10月27日、欧州連合(EU)は、ガソリン車などの内燃機関車を2035年に事実上販売禁止することで合意した。しかし、EUの官僚たちがブリュッセルのビルの中で立案するように域内全体が進行するとは筆者には到底思えない。
イタリアの路上を走る乗用車の平均車齢は、2009年の7.9年から2021年には11.8年と4年連続で伸び続けている。さらに今や4台に1台は車齢15年超えである(データ参照:UNRAE)。そればかりか、有鉛ガソリンの販売が終了した2002年より前、つまり車齢20年以上のクルマでさえたびたび見かける。
イタリアでさらに世帯収入の頭打ちや高齢化が進めば、政府がよほどのEVへの乗り換え奨励策を実施しないかぎり、現在所有している内燃機関車に乗り続ける人は多いと思われる。特に初代パンダのような維持費があまりかからないクルマは人気だ。
充電スタンド計画は夢に終わってしまった。そして仮にサラリーマンだったらすでに定年のアレッサンドロおじさんが、あと何年仕事を続けられるかは知らない。だが、地元ユーザーからは、もうしばらく町医者のごとく支持されることは間違いない。
おじさんは、幻の計画書をそっと引き出しにしまってからスパナを握り、お客のパンダの修理にかかり始めた。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=Akio Lorenzo OYA、ステランティス/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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