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パワーの次はスタイリング、そして…… 競争に明け暮れた1970年代の軽乗用車事情

2023.09.29 デイリーコラム 沼田 亨
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第2のバトルはスペシャルティーカー

先に公開した「スペックは言ったもん勝ち!? 昭和元禄(げんろく)に起きた360cc軽のパワーウォーズ」で紹介したように、サブロクこと360cc軽のパワーウォーズは、1970年7月に登場した「ダイハツ・フェローMAX SS」が40PSを豪語したことによって一段落ついた。だが、若者をターゲットとする軽市場の戦いに終止符が打たれたわけではなかった。競争が次なるステージに突入したのである。

第2ラウンドの主たるテーマはルックス、すなわちスタイリング。それまでの軽スポーツモデルは、ボディーに関してはベースモデルと同じで、カラーリングやストライプなどの装飾でスポーティーに装っているだけだった。それに対して、第2ラウンドでは独自のスタイリッシュなボディーをまとったモデルが覇を競ったのだ。

火付け役はまたもやホンダ。「Zのワンダフル・ワールド」をうたって1970年10月に登場した「ホンダZ」がそれである。「N360」(正確には2度目のマイナーチェンジ後の「N III 360」)のシャシーに、テールゲートを備えたスポーツワゴン風ボディーを架装し、内装も一新されていた。

パワーユニットはN III 360とまったく同じシングルキャブ仕様で31PS、ツインキャブ仕様で36PSを発生する空冷4ストローク並列2気筒354ccだが、遅れて1971年1月に発売されたトップグレードの「GS」は、軽初となる5段MTとサーボ付き前輪ディスクブレーキを備えていた。

一般的にホンダZのように、ベースとなるセダンなどのルーフラインを改めたクーペやハードトップではなく、実用車のシャシーに独自のスポーティーなボディーを載せたモデルをスペシャルティーカーと呼ぶ。1964年に誕生した初代「フォード・マスタング」がその元祖とされ、日本では1970年12月に発売された初代「トヨタ・セリカ」(ベースはシャシーを共有する初代「カリーナ」)がパイオニアとされている。

だが、先に述べたようにホンダZはそれより約2カ月早い同年10月に発売されているのだ。世間では日本初のスペシャルティーカーはセリカで、ホンダZは軽初のそれとされているが、実際は軽を含めて日本初はホンダZだったのである。

1970年10月にデビューした「ホンダZ」。グレードは下位からシングルキャブ仕様の「ACT」「PRO」、ツインキャブ仕様の「TS」「GT」「GS」の5種。これはGSだがグレードによる外観の差異は小さく、下位グレードにそうとは分からない響きの名称を用いたのも新しかった。
1970年10月にデビューした「ホンダZ」。グレードは下位からシングルキャブ仕様の「ACT」「PRO」、ツインキャブ仕様の「TS」「GT」「GS」の5種。これはGSだがグレードによる外観の差異は小さく、下位グレードにそうとは分からない響きの名称を用いたのも新しかった。拡大
クーペというよりスポーツワゴン的な「ホンダZ」のサイドビュー。黒に見えるダークグレーの枠でガラスを囲んだテールゲートは、その形状から“水中メガネ”の異名をとった。
クーペというよりスポーツワゴン的な「ホンダZ」のサイドビュー。黒に見えるダークグレーの枠でガラスを囲んだテールゲートは、その形状から“水中メガネ”の異名をとった。拡大
「ホンダZ」のインテリア。これは「GT」で、オーバーヘッドコンソールなどが備わる。
「ホンダZ」のインテリア。これは「GT」で、オーバーヘッドコンソールなどが備わる。拡大
トップグレードの「GS」には“ゼロブラック”と称するマットブラックが専用色として用意された。21世紀以降になって純正色として採用され始めたと思われているマットカラーだが、半世紀以上前にホンダが導入していたのだ。サイドストライプはオプション。
トップグレードの「GS」には“ゼロブラック”と称するマットブラックが専用色として用意された。21世紀以降になって純正色として採用され始めたと思われているマットカラーだが、半世紀以上前にホンダが導入していたのだ。サイドストライプはオプション。拡大

軽初のフルオープン・ハードトップ

ホンダZを追って、翌1971年には競合他社からも軽スペシャルティーカー(厳密な意味ではスペシャルティーカーではないかもしれないが、ここではそう呼ぶ)が登場する。まず5月には、「こしゃくにも……クーペです」というキャッチフレーズを掲げて三菱から「ミニカ スキッパー」がリリースされた。1969年に登場した「ミニカ'70」(正確にはマイナーチェンジを受けた「ミニカ'71」)のウエストラインから上を、グラスハッチを持つファストバッククーペにアレンジ。当時、同社のイメージリーダー的存在だった「コルト ギャランGTO」のミニチュア版的なモデルだった。

ミニカ'70がデビューした1969年の東京モーターショーに参考出品された「ミニカ クーペ」を生産化したものだが、テール周辺の形状はプロトタイプよりソフィスティケートされていた。目新しかったのが、クーペでは犠牲になりがちな後方視界を改善するため、スパッと切り落とされたコーダトロンカのテールに設けられた“スクープドウィンドウ”。外から車内を見えにくくするためスモークガラスが使われていた。後に2代目「ホンダCR-X」などにも採用されたアイデアだが、スキッパーはそれより10年以上前に導入していたのだ。

メカニズムはミニカ'71とまったく同じで、パワーユニットはシングルキャブ仕様で34PS、ツインキャブを備えて38PSを発生する水冷2ストローク直列2気筒359ccだった。

続いて1971年8月には、ダイハツからズバリ「軽はじめてのフルオープン・ハードトップ」をうたった「フェローMAXハードトップ」が登場する。「フルオープン・ハードトップ」とは、センターピラー(Bピラー)だけでなく三角窓などをすべて取り去ったという意味で、ウィンドウを降ろせば何も残らないサイドビューが当時のトップファッションだったのだ。トップグレードの「GXL」では、これまた流行していたレザートップ(ビニールレザー張りのルーフ)やメタリック塗装、前輪ディスクブレーキ、ラジアルタイヤなどが標準でゴージャスに装っていた。

これも中身はMAXと同じで、前輪を駆動するパワーユニットは、軽パワーウォーズのタイトルを保持する40PSを誇るツインキャブ仕様、または33PSを発生するシングルキャブ仕様の水冷2ストローク直列2気筒356cc。公表されたツインキャブ仕様の性能データは0-400m加速19.9秒で、同じエンジンを積んだMAX SSの19.8秒よりわずかに遅かった。

ピラーレス化に伴うボディー補強によって20kgほど車重が増加したことが、多少なりとも性能が低下した理由だが、スポーツ性よりも見た目命のこの種のモデルでは、それはさしたる問題ではなかった。

オプションをフル装備した「三菱ミニカ スキッパーGT」。38PSユニットを積んだトップグレードである。ちなみにボンネット上にあるのは、当時の「ポンティアックGTO」に倣ったタコメーター。こんなものまで用意されていたのだ。
オプションをフル装備した「三菱ミニカ スキッパーGT」。38PSユニットを積んだトップグレードである。ちなみにボンネット上にあるのは、当時の「ポンティアックGTO」に倣ったタコメーター。こんなものまで用意されていたのだ。拡大
「三菱ミニカ スキッパー」のリアビュー。リアウィンドウは開閉可能なグラスハッチ。テールには“スクープドウィンドウ”と称するスモークウィンドウが設けられている。
「三菱ミニカ スキッパー」のリアビュー。リアウィンドウは開閉可能なグラスハッチ。テールには“スクープドウィンドウ”と称するスモークウィンドウが設けられている。拡大
「ダイハツ・フェローMAXハードトップGXL」。レザートップ張りのボディーに40PSユニットを積んだトップグレード。うがった見方をすれば、「豪華な軽」という矛盾した存在の象徴的なモデルともいえる。
「ダイハツ・フェローMAXハードトップGXL」。レザートップ張りのボディーに40PSユニットを積んだトップグレード。うがった見方をすれば、「豪華な軽」という矛盾した存在の象徴的なモデルともいえる。拡大
「世界一コンパクトなハードトップ」とうたった「フェローMAXハードトップ」の広告より。全長3mのMAXの後方は全長5.3mの「マーキュリー・サイクロンGT」。これでもフルサイズではなくインターミディエート(中間サイズ)なのだから、当時の米車は軽とは対照的にデカかったわけだ。
「世界一コンパクトなハードトップ」とうたった「フェローMAXハードトップ」の広告より。全長3mのMAXの後方は全長5.3mの「マーキュリー・サイクロンGT」。これでもフルサイズではなくインターミディエート(中間サイズ)なのだから、当時の米車は軽とは対照的にデカかったわけだ。拡大

つかの間の「ふたりだけ」

フェローMAXハードトップ登場の約1カ月後の1971年9月、スズキから「ふたりだけのクーペ」のキャッチフレーズとともに「フロンテクーペ」がデビューした。うたい文句や若いカップルをフィーチャーした広告展開からはムード重視のソフトなイメージを抱きがちだが、実体はまったく違った。かつてフロンテが主張していた“ビートマシン”そのものだったのだ。

2ストローク3気筒エンジンが水冷化された「フロンテ71W」のシャシーに構築されるボディーは、まったくの別物。1969年に登場した4代目「キャリイ」のデザインを手がけたジウジアーロが提案したシティーコミューターをベースにスズキが独自にアレンジしたボディーは、乗車定員を2人に割り切ったことで全高は71Wより100mm近く低い1200mmまで下げられた。

リアに積まれるパワーユニットは71Wと同じ水冷2ストローク3気筒356ccで、当初は37PSのハイチューン版のみだった。空冷時代のスポーツユニット(36PS)より1PSだけ高いが発生回転数は下がり、またトルクも太くなってピーキーさはだいぶ解消されていた。車重は当然ながら空冷時代より増したが、ライバルよりは軽い480kgに抑えられており、4段MTを介してのパフォーマンスは0-400m加速19.47秒。これはサブロク軽の公称データでは最速となる。ちなみに最高速は、このころからカタログには掲載されなくなっていた。

絶対的な動力性能もさることながら、高評価を受けたのが操縦性。フロンテのハンドリングはもともと軽のなかでは定評があったが、重心が低くなったことでいっそうシャープになり、ルックスともどもリアルスポーツと呼びたい資質を備えたモデルとなったのだった。

そんなフロンテクーペだったが、このマイクロスポーツにも4人乗車を求める市場の声に押されて翌1972年2月には後席を備えた2+2仕様を追加。さらに34PSにデチューンされた仕様や31PSユニットを積んだ廉価版などを加えた後、デビューから約1年後の同年10月には2+2仕様のみとなり、「ふたりだけのクーペ」ではなくなってしまった。

それはともかく、ホンダZのデビューから1年もたたずに軽パワーウォーズに参戦したメーカーのうち、スバルを除く4社から日本ならではの「箱庭GT」とでもいうべき軽スペシャルティーカーが出そろったのだった。

「ふたりだけのクーペ」とうたって登場した「スズキ・フロンテクーペ」。キャッチフレーズは甘く響くが、スペシャルティーカーというよりスポーツカーに近かった。
「ふたりだけのクーペ」とうたって登場した「スズキ・フロンテクーペ」。キャッチフレーズは甘く響くが、スペシャルティーカーというよりスポーツカーに近かった。拡大
「フロンテクーペ」の原案となった、イタルデザイン(ジウジアーロ)がスズキに提案した「マイクロユーティリティタリア」。同じくイタルデザインが手がけた「キャリイ バン」に通じる造形のシティーコミューターだった。
「フロンテクーペ」の原案となった、イタルデザイン(ジウジアーロ)がスズキに提案した「マイクロユーティリティタリア」。同じくイタルデザインが手がけた「キャリイ バン」に通じる造形のシティーコミューターだった。拡大
「フロンテクーペ」の1200mmという全高は、1960年代生まれの国産小型2座スポーツである「ホンダS600クーペ」(1195mm)とほぼ同じだった。
「フロンテクーペ」の1200mmという全高は、1960年代生まれの国産小型2座スポーツである「ホンダS600クーペ」(1195mm)とほぼ同じだった。拡大
1971年9月に2シーターのみでデビューしたが、市場の要望から1972年2月に2+2(定員4人)の「GXF」(写真下)が追加された。
1971年9月に2シーターのみでデビューしたが、市場の要望から1972年2月に2+2(定員4人)の「GXF」(写真下)が追加された。拡大

スペシャルティーカーの次のトレンド

軽スペシャルティーカーが競っていたいっぽうで、市場には新たな流れが生まれていた。トレンドセッターはまたもやホンダで、1971年6月にまったく新しいモデルである「ライフ」を発売した。「まろやか」をキーワードに、自身が開拓し推進してきた若者路線とは一線を画し、主たるターゲットはファミリー層。軽では「マツダ・キャロル」以来となる4ドアも設定し、パワーユニットはN360と同じ4ストローク並列2気筒SOHCながら水冷に転換。さらにバランサーを備え、カムシャフト駆動に日本で初めてコッグドベルトを採用するなどして、N360では不評を買った騒音・振動対策を徹底していた。

最高出力はN III 360より1PS低い30PSだったが、同時にデビューしたシティーユース重視の「ライフ タウン」では扱いやすさを求めて、自らが口火を切ったパワーウォーズ以前のレベルの21PSに抑えていた。この変わり身の早さはホンダならではだが、高性能より公害・安全対策重視にシフトせざるを得なくなっていた時代の空気にいち早く対応し、具体化した感度の鋭さと実行力は、他社にはまねできないものだった。

他社の動向を見ると、スバルはパワーウォーズには参戦したものの、スペシャルティーカーは出さなかった、いや出せなかった。ホンダN360の出現以前は軽の盟主だったが、わずか数年のうちにホンダ、スズキ、ダイハツそして三菱にも販売実績で抜かれてしまっていたのだ。そのスバルは1972年7月に「R-2」の後継となる「レックス」をリリースした。「スバル360」以来のRRレイアウトを踏襲するものの、スペシャルティーカー的な需要もカバーしようと考えたのか、ウエッジシェイプのボディーを採用。CMソングを、ブレイクを果たしたばかりの吉田拓郎(当時の表記は「よしだたくろう」)に歌わせるなど若年層にターゲットを絞っていた。

パワーユニットは水冷2ストローク並列2気筒356ccで、37PSのハイチューン版を積むスポーツグレードの「GSR」も設定されていた。だが、すでに次なるフェーズに向けたホンダ・ライフが登場していた市場では、「遅れてきた青年」的な印象は否めなかった。

1972年6月にはキャロル以来実に10年ぶりのニューモデルとなる「シャンテ」によって、マツダが軽乗用車市場にカムバックした。本来は1ローターのロータリーエンジン搭載車として企画されたものの、その高性能を恐れた他社の圧力から認可が下りず、やむなくレシプロエンジン搭載車としてデビューしたのである。

ボディーは2ドアセダンのみで、オーソドックスなFRながら軽最長の2200mmのホイールベースにより居住性は優れていた。しかしロータリーの代役に選ばれた、軽トラックの「ポーター」から流用した水冷2ストローク直列2気筒359ccエンジンがラフでノイジーと評されるなどしてセールスは伸び悩んだ。

コンセプト、構造ともに翌1972年にデビューする初代「シビック」の縮小版的なモデルだった「ホンダ・ライフ」。駆動方式はもちろんFFだが、日本で初めてジアコーザ式を採用していた。
コンセプト、構造ともに翌1972年にデビューする初代「シビック」の縮小版的なモデルだった「ホンダ・ライフ」。駆動方式はもちろんFFだが、日本で初めてジアコーザ式を採用していた。拡大
「ホンダ・ライフ」のカタログより、実用的な4ドアの“大人の軽”であることを強調したカット。初期の広告やテレビCMでは夫婦と子供2人の家族をフィーチャーし、ファミリーカー需要に訴えていた。
「ホンダ・ライフ」のカタログより、実用的な4ドアの“大人の軽”であることを強調したカット。初期の広告やテレビCMでは夫婦と子供2人の家族をフィーチャーし、ファミリーカー需要に訴えていた。拡大
1972年4月に追加された「ライフ ツーリング」。スポーティーに仕立てた2ドアボディーにツインキャブ仕様の36PSユニットを積み、トップグレードの「GS」(写真)には5段MTが標準。ライフ本来のコンセプトからは、いささか外れたモデルだった。
1972年4月に追加された「ライフ ツーリング」。スポーティーに仕立てた2ドアボディーにツインキャブ仕様の36PSユニットを積み、トップグレードの「GS」(写真)には5段MTが標準。ライフ本来のコンセプトからは、いささか外れたモデルだった。拡大
時流をフォローすべく、「スバル360」や「R-2」のやさしい表情から、ついに怒り顔になってしまった「スバル・レックス」。ラテン語で「王」を意味する車名に、軽市場の王座奪還の悲願が込められていた。
時流をフォローすべく、「スバル360」や「R-2」のやさしい表情から、ついに怒り顔になってしまった「スバル・レックス」。ラテン語で「王」を意味する車名に、軽市場の王座奪還の悲願が込められていた。拡大
「マツダ・シャンテ」。ボディーは2ドアのみ、エンジンも35PSを発生する1種類だけだった。かつてのキャロルと同様にほとんど変更がないまま1975年までつくり続けられ、軽規格の改定とともにフェードアウトした。
「マツダ・シャンテ」。ボディーは2ドアのみ、エンジンも35PSを発生する1種類だけだった。かつてのキャロルと同様にほとんど変更がないまま1975年までつくり続けられ、軽規格の改定とともにフェードアウトした。拡大

おとなしいムード派に

ホンダ・ライフの登場から約半年後の1971年11月、ホンダZもマイナーチェンジを実施した。見た目はほとんど変わらないが、ベースがN III 360とはホイールベースが異なるライフに変更されたため、ボディーの一部も改変を受けている。エンジンがライフと基本的に同じ水冷ユニットとなり、31PSのシングルキャブ仕様を積んだ「ゴールデン」シリーズと36PSのツインキャブ仕様を積んだ「ダイナミック」シリーズが設定された。後者のトップグレードである「GTL」には引き続き5段MTが標準だったが、ブレーキは全輪ドラムに格下げされた。

さらに1年後の1972年11月、Zはセンターピラー(Bピラー)を廃して「ホンダZハードトップ」となる。エンジンはツインキャブ仕様のみとなり、グレードも4種類に絞られた。広告にはファッションデザイナー、カメラマン、音楽プロデューサー、TVディレクターなど当時の先端人種を起用し、高感度な彼らに愛されるオシャレなタウンカー、といったキャンペーンを展開。スポーティーさよりムードを重視したパーソナルカーにポジションを移行していった。

三菱は1972年10月に、従来の「ミニカ'72」のシャシーを受け継ぎながらボディーを一新、公害対策に有利な水冷4ストロークに転換した直列2気筒SOHC 359ccエンジンを搭載した「ミニカF4」を発売した。ホンダ・ライフが先鞭(せんべん)をつけたまろやか路線のフォロワーといえる。

同時にミニカ スキッパーもF4と同じ4ストロークエンジンに換装して「スキッパーIV」を名乗った。32PSの標準ユニットのほか36PSの高出力版も設定されたが、従来のハイチューンされた2ストロークユニットに比べればはるかにマイルド。ボディーカラーもブライトなイエローやオレンジなどが落とされて、印象はグッと地味になった。

同じく1972年10月、フェローMAXにも4ドアが追加され、これまたファミリー路線へのシフトを開始。同時に公害対策のためエンジンもデチューンされ、軽最強の40PSを誇ったMAXハードトップ用のツインキャブユニットも37PSに下げられた。ホンダZの誕生からおよそ2年、軽スペシャルティーカーの“旬”はすでに過ぎ去ってしまったようだった。

「ライフ」がベースとなり、エンジンが水冷化された「ホンダZ」。ホイールベースが80mm延長されノーズが長くなったことが、1ページ目の空冷モデルと比べればお分かりだろう(フロントホイールアーチとドアまでの長さが異なる)。
「ライフ」がベースとなり、エンジンが水冷化された「ホンダZ」。ホイールベースが80mm延長されノーズが長くなったことが、1ページ目の空冷モデルと比べればお分かりだろう(フロントホイールアーチとドアまでの長さが異なる)。拡大
「ホンダZハードトップ」のカタログより、パープルのボディーカラーに合わせた服装の女性をあしらったファッショナブルなカット。スポーティーさよりもオシャレなイメージを前面に押し出すようになった。
「ホンダZハードトップ」のカタログより、パープルのボディーカラーに合わせた服装の女性をあしらったファッショナブルなカット。スポーティーさよりもオシャレなイメージを前面に押し出すようになった。拡大
「三菱ミニカ スキッパーIV」。4ストロークエンジンへの換装とともにボディーカラーも以前のイエローやオレンジを含む全7色からこのシルバーメタリックやホワイトなど4色に減らされ、“こしゃく”な雰囲気は影を潜めた。
「三菱ミニカ スキッパーIV」。4ストロークエンジンへの換装とともにボディーカラーも以前のイエローやオレンジを含む全7色からこのシルバーメタリックやホワイトなど4色に減らされ、“こしゃく”な雰囲気は影を潜めた。拡大
1973年5月のマイナーチェンジ後の「ダイハツ・フェローMAXハードトップ」の、40PSから37PSにデチューンされたトップグレード「GSL」。記憶にはないが、先の「ホンダZハードトップ」といい、当時は紫がはやっていたのか?
1973年5月のマイナーチェンジ後の「ダイハツ・フェローMAXハードトップ」の、40PSから37PSにデチューンされたトップグレード「GSL」。記憶にはないが、先の「ホンダZハードトップ」といい、当時は紫がはやっていたのか?拡大

終わりを迎えた360cc時代

1973年に入ると、スペシャルティーカーのみならず軽市場全体にもすきま風が吹き始めた。同年10月にはそれまで不要だった車検制度が軽にも適用されることになり、軽のメリットがひとつ失われてしまった。若い方には信じがたいかもしれないが、軽には1952年以来、すなわち実質的には誕生以来車検がなかったのである。さらに車検制度の復活と前後して第1次石油危機によって原油価格が上昇し、景気が低迷。公害や安全問題も重なって社会全体の自動車、特に高性能モデルへの風当たりが強くなった。

そんな空気のなか、ミニカ スキッパーIVは1973年10月に安全対策を施すとともにツインキャブ仕様を廃止し、翌1974年7月には生産終了。さらに同年10月には1967年のN360の発売以来、軽市場をリードしてきたホンダが軽トラックの「TN」シリーズを残してライフやZなどの軽自動車をすべて生産終了し、市場から撤退してしまう。前年の発売以来、販売好調な「シビック」の増産に軽乗用車の生産設備を充てる、というのが公式な理由だった。

残ったフロンテクーペも、1974年5月には37PSから35PSにデチューンされたエンジンを積む2グレードのみとなり、フェローMAXハードトップも1975年2月に37PSのツインキャブ仕様を廃止して車種整理された。

翌1976年1月には軽規格が改定される。全長が200mm、全幅が100mm拡大され、エンジンは550ccとなる。これを受けて、ダイハツは旧規格のフェローMAXのボディーに4ストローク直列2気筒SOHC 547ccを積んだ暫定型の「MAX550」を同年5月に発売するが、この際にハードトップは廃止された。スズキも同月に新規格対応の「フロンテ7-S」を発売、翌6月には最後に残ったフロンテクーペも生産終了。需要の減少に加えて規格改定がとどめを刺し、サブロク軽のスペシャルティーカーは誕生から6年弱にしてすべて消滅したのだった。

さらに厳しくなっていく排ガス規制への対応などもあって先行きが見えず、旧規格の車両を拡大した地味なモデルしかなくなった軽市場は“つわものどもが夢の跡”という感じだったが、しぶとかったのはスズキ。翌1977年10月にはフロンテクーペのボディーを新規格に合わせて拡大し、2ストローク3気筒539ccエンジンを載せたモデルを「セルボ」の名で発売したのである。ただしフロンテ7-Sと共通のエンジンは最高出力28PSと、フロンテクーペと比べてずっとチューンは低かった。乗り味もマイルドになり、ターゲットはもっぱら若い女性に絞られたが、唯一の軽スペシャルティーカーとしてそれなりのポジションを確保したのだった。

(文=沼田 亨/写真=本田技研工業、三菱自動車、ダイハツ工業、スズキ、スバル、マツダ、イタルデザイン/編集=藤沢 勝)

1976年5月、軽規格改定に合わせてボディーを拡大、2ストローク3気筒エンジンを暫定的に443ccとした「スズキ・フロンテ7-S」。翌6月に諸事情からダイハツ製4ストローク直列2気筒SOHC 547ccを加え、さらに10月には2ストローク3気筒ユニットをフルスケールの539ccに拡大するなど、改定への対応にはいささか混乱が見られた。
1976年5月、軽規格改定に合わせてボディーを拡大、2ストローク3気筒エンジンを暫定的に443ccとした「スズキ・フロンテ7-S」。翌6月に諸事情からダイハツ製4ストローク直列2気筒SOHC 547ccを加え、さらに10月には2ストローク3気筒ユニットをフルスケールの539ccに拡大するなど、改定への対応にはいささか混乱が見られた。拡大
ダイハツは旧規格のボディーに4ストローク直列2気筒SOHC 547ccを積んだ「MAX550」を1976年5月に発売し、翌1977年7月になってボディーも拡大した写真の「MAXクオーレ」をリリースした。
ダイハツは旧規格のボディーに4ストローク直列2気筒SOHC 547ccを積んだ「MAX550」を1976年5月に発売し、翌1977年7月になってボディーも拡大した写真の「MAXクオーレ」をリリースした。拡大
1977年10月に登場した「セルボ」。「フロンテクーペ」を長さ、幅ともに拡大したボディーはいささか間延びした感がなくもない。ヘッドライトは角型から丸型に、リアウィンドウは開閉式のガラスハッチとなった。
1977年10月に登場した「セルボ」。「フロンテクーペ」を長さ、幅ともに拡大したボディーはいささか間延びした感がなくもない。ヘッドライトは角型から丸型に、リアウィンドウは開閉式のガラスハッチとなった。拡大
「セルボ」のインテリア。「フロンテクーペ」に比べてインパネは囲まれ感が薄れ、シートもカジュアルな雰囲気となっている。
「セルボ」のインテリア。「フロンテクーペ」に比べてインパネは囲まれ感が薄れ、シートもカジュアルな雰囲気となっている。拡大
沼田 亨

沼田 亨

1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。

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