第288回:自称詩人は中古車で自由を表現する?
『自然は君に何を語るのか』
2026.03.20
読んでますカー、観てますカー
ホン・サンス……誰?
監督デビュー30周年を記念した「月刊ホン・サンス」というイベントが開催中だ。2025年11月に始まり、2023年以降につくられた5本を連続で公開している。その第5弾作品が『自然は君に何を語るのか』。第75回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品され、世界的に高く評価されている。
と、型どおりの説明をしたわけだが、「ホン・サンス……誰?」という反応が返ってくるのは承知している。よほどの映画好きでなければ知らない名前だろう。熱烈なファンから支持されているとはいえ、メジャーなヒット作があるわけではない。1996年から30以上の映画をつくってきたが、どれもいわゆるアート系、単館系と称される地味な作品である。派手なアクションはないし、美女やイケメンはあまり出演していない。
韓国のソウル出身だが、彼の作品は多くの日本人が抱く韓国映画のイメージとはかけ離れている。韓国映画はエキセントリックなラブストーリーや骨太な社会派サスペンスが多く、いささか強引な展開で凄惨(せいさん)なバイオレンス描写も辞さないところが魅力だろう。ホン・サンスの映画では重大な事件が描かれることはなく、普通の人々の日常を淡々と見せていく。何も起こらないならつまらないのかというとそんなことはなく、裏にはヒリヒリするようなドラマが秘められている。
ホン・サンスはアメリカの美術大学で学び、フランスの映画界と関係が深い。「月刊ホン・サンス」でも『旅人の必需品』ではイザベル・ユペールを主演に迎えている。女性関係のスキャンダルがあったことが影響して、韓国の芸能界とは距離を置かざるを得なくなっているのも事実だ。だからといってフランス映画的な作風ということでもなく、なんともつかみどころがない。
不自然な中古車ほめトーク
『自然は君に何を語るのか』は、思いがけず恋人の両親に対面することになった青年の物語だ。ドンファ(ハ・ソングク)は恋人のジュニ(カン・ソイ)をクルマで家まで送っていった。入り口でグズグズしていると、玄関前にいた彼女の父(クォン・ヘヒョ)と顔を合わせてしまう。3年も交際しているのにあいさつをしておらず、同棲(どうせい)していることも秘密だ。ぎこちない会話の中に緊張感が漂う。
気まずい空気をほぐそうとしたのか、彼女の父はドンファの乗ってきたクルマを話題にする。1996年式「キア・プライド」のステーションワゴンで、かなりヤレている感じだ。ただの中古車にしか見えないが、「ヘッドルームは高いし頑丈にできている。何よりデザインがいい」と妙なほめ方をする。気をよくしたドンファは、誘われるままに一緒にマッコリで乾杯。流されやすい性格のようだ。
ジュニの姉ヌンヒ(パク・ミソ)と3人で出かけることになるが、ドンファは酒を飲んでしまった。ジュニが代わりに運転して訪れた料理店で、ヌンヒは「もう少しいいクルマにすれば?」と提案する。ドンファが「このクルマが気に入っているし金がない」と答えると、「お父さまから援助を受ければ?」とさらに踏み込む。ドンファの父は裕福な弁護士なのだ。
父子関係は良好ではないらしく、彼は家を出て結婚式場でアルバイトをしている。詩人を名乗っているが、作品を発表したことはない。自由なライフスタイルといえば聞こえはいいが、要するにプータローだ。30代なかばになっても夢見る若者気取りである。計画性がないから、この日も流れで家族のディナーに参加することになった。ジュニの母は「クルマは安全が第一よ。新車に乗ったほうがいいんじゃない?」とヌンヒに続いておせっかい発言。酔いのまわったドンファは次第に感情を抑制することができなくなっていく……
自我を支えているクルマとは?
恋人の両親に初めて会いにいくというシチュエーションは、映画では定番の舞台設定である。最も有名なのは、ロバート・デ・ニーロとベン・スティラーが共演した『ミート・ザ・ペアレンツ』だろう。この映画では娘の恋人が乗ってきたレンタカーの「フォード・トーラス」をイジりまくるシーンがあった。ホン・サンス監督はこの先行作を意識していたのだと思われる。
『ミート・ザ・ペアレンツ』はエグい下ネタ多めのドタバタコメディーだった。『自然は君に何を語るのか』は同じような状況を扱いながら対照的なつくりになっている。わかりやすい喜劇演出はなく、リアルな会話劇が続く。カメラはほぼ動かず、居心地の悪い時間が流れるのをねちっこく映し出す。観客は彼らの関係性が徐々に壊れていくさまを同じ空間で見ているような気分にさせられ、自分ごとのように困惑するのだ。
ドンファは自分が既成の社会的システムに縛られず、父の財産をあてにせずに独立していることを誇りに思っている。便利で快適な新車に目もくれず、自らの意思でキア・プライドに乗っているのがその証拠だ。値段の高さやブランド性でクルマを選ぶ連中は俗物である。必要最低限の金とモノだけで自由に生きることに価値を見いだしている、つもりだ。自我を支えているクルマが壊れた時、彼はアイデンティティーの危機に直面することになる。
映画館でこの映画を観て、映像のフォーカスが合っていないことに気づいて機器の不調だとクレームを入れてはいけない。それは意図された映像設計なのだ。「月刊ホン・サンス」第3弾の『水の中で』は、もっとヒドいピンボケだった。映される対象の不確かな関係性を物理的に表現しているのだと思われる。65歳のベテラン監督とは思えない無謀な実験的手法だ。試されているのは、観客の心の若さと柔軟さなのかもしれない。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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