第376回:持続可能なモビリティーの実現に向けて
仏ミシュランの新しい研究施設「RDIキャンパス」を訪問する
2016.11.08
エディターから一言
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フランスのタイヤメーカー、ミシュランは去る9月、新しい研究施設である「RDIキャンパス」をお披露目した。同社の研究開発拠点であるラドゥ・テクノロジー・センター内に建設されたRDIキャンパスは、各研究部署の連携を強化すると同時に、開発の効率化を図ろうとするもの。持続可能なモビリティーの実現に向けて、ミシュランは大きな一歩を踏み出した。
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約70年前から省燃費タイヤを開発
ミシュランには、こんな逸話が残されている。
ドイツ占領下にあった第2次世界大戦中のフランスで、ミシュランはタイヤメーカーとしての操業を取りやめ、薪(まき)ストーブを作っていた。タイヤを作れば、間接的にナチス政権にくみするので、それはできない。しかし、タイヤを生産しないでフランス国民の役に立つには、どうすればいいのか? 燃料不足の戦時中、冬の寒さをしのぐには薪ストーブが最も好都合。薪ストーブ作りは、そんな一般市民の視点に立っての判断だったのではないかと私は想像する。
1889年に設立され、第2次世界大戦中にはすでにタイヤメーカーとしての名声を確立していたミシュランの操業停止をどうしてヒトラーが見逃したのかは疑問の残るところだが、ミシュランの本拠地であるフランス・クレルモンフェランの「ラバンチュール・ミシュラン」という同社の足跡を示す博物館には、当時ミシュランが生産していた薪ストーブがいまも残されている。逸話はフィクションではなく、真実なのだ。
しかし、当時のミシュランと現代の私たちをつなぐ意外なストーリーは、この裏側に隠されている。ミシュランは薪ストーブを生産するいっぽうで、技術者を集めた別組織を立ち上げ、そこで次世代タイヤをひそかに開発していたのだ。ここで得られた知見をもとに戦後発売されることになるのが、「ミシュランX」と名付けられた世界初のラジアルタイヤだった。
グリップ力や耐久性の向上に役立つとされるラジアルタイヤだが、ミシュランは当初より燃費性能の改善に着目していた。繊維や金属で編んだカーカスがサイドウォールに何層にも重なっているバイアスタイヤは、サイドウォールがたわむたびにカーカス同士がこすれあい、熱を発生する。熱の発生はエネルギーのロスに通じる。これはすなわち転がり抵抗の増加を招き、燃費の悪化に直結する。
ミシュランが考案したラジアルタイヤは、サイドウォールを支えるケーシングレイヤーとトレッドを補強するカーカスを分離、サイドウォールがたわんでも摩擦熱が発生しにくい構造とすることで、転がり抵抗の低減を狙ったものだった。つまり、ミシュランは70年近くも前から省燃費タイヤの開発に取り組んでいたのである。
ミシュランの研究開発拠点・ラドゥを訪れる
去る9月16日、ミシュランはグローバルな研究開発拠点であるラドゥ・テクノロジー・センター、通称“ラドゥ”に新築した建物の開設式を行った。式典は、ミシュラングループのジャン-ドミニク・スナール会長や同社R&D責任者のテリー・ゲッティ氏、ラドゥの代表を務めるピエール・ロベール氏だけでなく、フランスのマニュエル・バルス首相まで出席する格式の高いもので、ヨーロッパから集まった多くの報道陣とともに私もこの席に招かれた。
式典そのものは、前述した4人のスピーチを中心とする比較的シンプルな内容だったが、このイベントにはミシュランの将来を左右しかねない重要な意味が込められていた。
その話題に移る前に、発表会の舞台となったラドゥについて紹介しておこう。
1963年にオープンしたラドゥにはテストコースが併設されており、1965年以降、タイヤ摩耗テストをはじめとするさまざまな試験がここで行われてきた。実は、現実の使用条件に近い環境で製品をテストしようと考えた世界初のタイヤメーカーはミシュランだったという。
私は以前、ラドゥの内部を取材したことがあるが、450万平行メートル(450ヘクタール)の広大な敷地内に合計で21、総延長43kmのテストコースを有しているだけでなく、タイヤと路面とサスペンションの関係を現実に近い環境で多角的に捉える試験装置が数多く用意されていることに驚かされた。
言うまでもなく、タイヤは自動車に装着されて初めて機能を発揮する。つまりタイヤと自動車は一体となってパフォーマンスを生み出すわけだが、個々の製品を開発する過程では、互いの影響を排除した状態で性能を評価・計測する必要が出てくる。さもなければ、タイヤが悪いのか、サスペンションの設定に問題があるのか、はたまたボディー剛性が低いからなのかといった原因の究明が難しくなる。
ラドゥには、タイヤとサスペンションは一体となって機能するという前提に立ちながらも、実車を使ったテストではかえって問題の本質が見えにくくなる評価試験に適した数多くの開発ツールが存在する。そうしたツールの数は400基に上り、700通りもの評価方法を確立しているというから驚くしかない。つまりミシュランは、これほど多角的な視点からタイヤを評価し、それらを製品の開発に役立てているのだ。
もうひとつ、ラドゥで興味深いのはプルービンググラウンドと開発・設計施設が一体化している点にある。タイヤメーカーの多くは、テストコースはテストコース、開発・設計は開発・設計でそれぞれ別の施設を設けているが、これでは迅速な技術開発が難しい。ところがラドゥにはテストコースと開発・設計施設が同居しているだけでなく、ここに試作部門、評価部隊、シミュレーションといった機能までひとつの敷地内に設けられている。言い換えれば、ラドゥだけでタイヤ開発を完結させることもできるのだ。
実はミシュランは世界中の3つの大陸に25の研究開発施設を持ち(そのうちのひとつは群馬県太田市にある)、6600人のスタッフが年間800億円ほどを投じて研究開発に取り組んでいるのだが、そうしたグローバルな開発のおよそ70%はラドゥで行われているというから、その重要性は明らかだろう。
開発のスピードアップを図る
今回、お披露目された新施設は、ミシュランのこうした開発体制をさらに強化し、より効率的で迅速に製品を開発する環境を整えることを目指したものだ。
「ラドゥには素材、物理、機械設計などの研究開発を担当するさまざまな部署があり、それらが密接に関係しあってひとつの製品を生み出しています」
そう語るのは、私のインタビューに答えてくれたラドゥ・テクノロジー・センターの代表、ピエール・ロベール氏である。
「私は、ミシュランで過去、さまざまな仕事を成し遂げた人々に常々敬意を払っていますが、とりわけ驚かされるのがラジアルタイヤの開発チームです。彼らは設計上の素晴らしいアイデアを思いつくと同時に、このアイデアを現実の製品とするのに必要なベルト、カーカス、サイドウォールなどを作り上げていきました。つまり、ラジアルタイヤの誕生は素材の革命によって生み出されたともいえるのです。実は、このとき活用された素材開発には、そのおよそ10年前に実用化された工業用ベルトの経験が役立っていたとされます。言い換えれば、材料、物理、そして機械設計が有機的に結び付いて、初めて先進的なタイヤが誕生したのです」
新施設には、この各部署を有機的に結びつけるための工夫が凝らされている。例えば、これまでは広大な敷地のなかに分散していた各部署を、巨大なひとつの研究棟に集約。今回、発表されたのがこの研究棟の一部なのだが、これは20以上といわれる各部署をただ1カ所にまとめると同時に、それらがひとつのチームとして機能できるよう、300平方メートルの床面積を持つ部屋を合計で80も用意し、そこで各プロジェクトチームが一体となって開発に取り組める環境も作り上げたのだ。
「各専門家のコミュニケーションを改善することで開発のスピードアップを図る。新施設の役割は、これまでもミシュランの強みであった各部署の連携をさらに強化し、効率化を図ることで、いままで以上に革新的な製品を素早く生み出すことにあるのです」
ロベール氏はそう語ると胸を張った。
持続可能なモビリティーを目指して
では、新たにオープンした施設で、ミシュランは何を作るというのか?
「ミシュランにとって最も重要なのは、持続可能なモビリティーを実現することにあります」
これはロベール氏ひとりが考える理想ではなく、ミシュラン全体の使命として公に定められたことでもある。
「中でも、最も重要なのはタイヤの転がり抵抗低減です。乗用車が消費するエネルギーのうち、実に20%がタイヤの転がり抵抗によって失われています。この比率は、大型トラックでは実に33%に跳ね上がります。持続可能なモビリティー社会を構築するには、まずこの転がり抵抗を低減するのが重要であることは言うまでもありません」
今日、省燃費タイヤには必ずといっていいくらいシリカと呼ばれる素材が用いられているが、実はシリカを初めてタイヤに用いたのはミシュランだった。つまりミシュランは、転がり抵抗を低減するうえでの大きなふたつの柱であるラジアル構造とシリカの両方を考案したタイヤメーカーでもあるのだ。
「私たちはタイヤの転がり抵抗を今後10年間でさらに10%低減することを目指しています」
ロベール氏は力強く宣言した。
「もうひとつ忘れるわけにいかないのは素材のサステナビリティーです」とロベール氏。
「おそらくミシュランは今後も長くタイヤの原料として天然ゴムを使用するでしょう。そこで私たちはインドネシアに大規模な投資を行ってゴム農園の運営にあたっていますが、この活動は世界自然保護基金(WWF)と連携し、環境保護にも取り組んでいます」
「いっぽう、従来の化学合成素材は石油から精製していましたが、私たちは外部の研究機関と協力してバイオマスから同様の化学素材を生み出すプロセスを研究しています。これも素材のサステナビリティーという点で非常に重要なことだと認識しています」
素材のサステナビリティーを考えるうえではタイヤの耐久性、つまり寿命を延ばすことも重要になるが、タイヤが長持ちすればタイヤの販売量が減少し、タイヤメーカーにとって不都合な事態を招きかねない。
「たしかに企業にとって収益性は大切ですが、私たちの使命は人々をよりよい世界に導くことにあります。そのためには企業としての収益性と持続可能な未来のモビリティー社会を両立させるベストバランスを考えなければなりません。そして、これを実現するうえで最も重要なのが先進的な技術に基づくイノベーションなのです。私たちは売り上げの3%ほどをR&Dに投じていますが、これはタイヤ産業界では異例の規模といえます。それはすべて、持続可能なモビリティーを実現するための研究開発に用いられているのです」
ナチス政権への協力を拒んでラジアルタイヤを誕生させ、シリカでタイヤの転がり抵抗を飛躍的に改善したミシュラン。彼らの省燃費タイヤへの取り組みは、単なるタイヤメーカーのビジネス戦略という枠組みをはるかに超え、次世代の社会的責任を果たすための努力と捉えたほうがふさわしいような気がする。
(文=大谷達也<Little Wing>/写真=大谷達也、ミシュラン/編集=竹下元太郎)

大谷 達也
自動車ライター。大学卒業後、電機メーカーの研究所にエンジニアとして勤務。1990年に自動車雑誌『CAR GRAPHIC』の編集部員へと転身。同誌副編集長に就任した後、2010年に退職し、フリーランスの自動車ライターとなる。現在はラグジュアリーカーを中心に軽自動車まで幅広く取材。先端技術やモータースポーツ関連の原稿執筆も数多く手がける。2022-2023 日本カー・オブ・ザ・イヤー選考員、日本自動車ジャーナリスト協会会員、日本モータースポーツ記者会会員。