第21回:グラチャンの時代
日本のモータースポーツを成熟させた特異なレース
2018.04.05
自動車ヒストリー
1971年の初開催より、実に19年にわたり日本のモータースポーツのトップカテゴリーに君臨し続けた「グランチャンピオンレース」。世界的にもユニークなこのレースはいかにして誕生し、どのように進化を遂げていったのか。その盛衰の歴史を振り返る。
日本グランプリの中止で生まれたイベント
日本における戦後初の本格的な自動車レースは、1963年の第1回 日本グランプリとされる。前年に開業したばかりの鈴鹿サーキットで行われ、20万人を超える観客を集めた。ヨーロッパのスポーツカーも参加したが、走ったクルマの多くはほぼノーマルのままの市販車である。中にはナンバー付きのクルマもあった。手探り状態で始まったイベントだったのだ。
翌年からは、一転して各メーカーが本気で取り組むようになった。トヨタが3つのクラスで優勝したことを大々的にアピールし、販売促進につなげたのを目の当たりにしたからだ。各社がワークス体制を整え、開発競争に熱が入った。
1966年の第3回からは富士スピードウェイに舞台を移し、プロトタイプレーシングカーで争われるようになる。プリンス/日産、トヨタ、ポルシェなどが大排気量のマシンで参戦した。日本のレースシーンは大きな盛り上がりを見せようとしていたが、急ブレーキがかかる。1970年になると、トヨタ・日産が排ガス問題に専念するとの理由で不参加を表明したのだ。参加車を集めることができず、グランプリは中止になってしまう。
目玉の大会を失った富士スピードウェイは、新たなイベントをたちあげる必要に迫られた。格好のお手本となったのが、1970年に2回開催したスポーツカーレースである。9月の「フジインター200マイル」では、イタリアから最新の「フェラーリ512S」を持ち込み、多くのファンを引きつけた。これをシリーズ化し、年間チャンピオンを競うイベントに仕立てればいい。これが「富士グランチャンピオンシリーズ」で、“グラチャン”の愛称で親しまれた。
1971年4月25日、「富士300kmレース」でグラチャンが開幕した。6kmのコースを50周で争うレースである。「ポルシェ908/2」や7リッターエンジンを搭載する「マクラーレンM12」などのレーシングカーから、「日産フェアレディ240Z」 や「ホンダS800」の改造車までが混走した。
ドライバーの顔ぶれも豪華だった。生沢 徹、高原敬武、風戸 裕などが、プライベートチームを作って参戦した。それまでレースは自動車メーカー主導で行われていたが、ドライバーがスポンサーを募って参戦する環境が作られたのだ。
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事故と石油危機で逆風にさらされる
活躍の場を奪われたワークスドライバーたちが走ったのは、前座のツーリングカーレースである。1.3リッターを境に「スーパーツーリング」と「マイナーツーリング」にクラス分けされていた。「日産スカイラインGT-R」と「マツダ・サバンナRX3」、 「日産サニー」と「トヨタ・スターレット」などの対決が人気を呼ぶ。前座とはいえ、実力のあるワークスドライバーたちが乗るのだから迫力のあるレースになる。激しいバトルに観客は魅了され、メインレースに劣らない熱狂を生んだ。
各チームがレースに慣れてくると、グラチャンに出走するマシンに変化が表れる。「シェヴロンB19」と「ローラT212」という2リッターレーシングカーが速さと信頼性を見せつけるようになったのだ。それほど高価ではないこの2台のおかげで参戦のハードルが下がり、多くのプライベートチームがレースに出られるようになったのである。ワークスドライバーたちもメーカーの許可を得てグラチャンに出場するようになり、シリーズは活況を呈していった。
2ヒート制を導入するなどしてレースをショーアップし、レースクイーンが戦いに華を添えた。テレビで放映されるようになり、認知度も高まる。順調に発展していくように見えたが、やがてグラチャンは逆風にさらされることとなる。
1973年の最終戦で、スタート直後に30度バンクで多重衝突事故が発生した。4台が爆発炎上し、1人の若いドライバーが命を落とした。翌1974年6月のレースでも同じ場所で事故が起こり、2人が死亡する大惨事となる。かねてから危険性が指摘されていた30度バンクは廃止され、4.3kmのショートコースが使われることになった。
レース外部の事情も影響を及ぼした。1973年末には石油危機が発生し、モータースポーツには自粛ムードが漂う。ガソリンを大量に使うレーシングカーは、目の敵にされたのである。沈滞ムードの中、参加台数も大幅に減少する。レースの白熱度も低下し、観客動員もふるわなくなっていった。
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シングルシーター導入で人気が復活
1976年から2年間、富士スピードウェイでF1グランプリが開催された。最高峰のフォーミュラレースを見てしまったことで、グラチャンの地位低下は隠しようがなくなった。打開策として考えられたのは、単座スポーツカーの導入である。アメリカではCan-AmシリーズでF5000のシャシーにカウルをかぶせたシングルシーターを使い、停滞していた人気を回復していた。それに倣ったのである。
規定の変わった1979年の第1戦では、取りあえず様子を見ようという姿勢のチームが多く、出走したシングルシーターは長谷見昌弘の「MCS」、片山義美の「KIR」、清水正智の「火の鳥」の3台だけだった。優勝こそ逃したものの、単座マシンのポテンシャルは予選と決勝を通じてドライバーやピットスタッフに知れ渡る。
各チームが新たなマシン作りに取り組んだが、まだコンピューターで設計する環境が整えられていない時代である。風洞実験も限られていた。空力性能を高めるためのさまざまな工夫が試され、独創的なデザインのボディーが製作された。
グラチャンの人気が復活する中、新しいスターが育っていく。星野一義は、モトクロスのライダーから日産の契約ドライバーになった。1976年のF1イン・ジャパンで一時3位を走行する活躍を見せ、闘争心あふれる走りで“日本一速い男”の称号を得ていた。
彼がグラチャンで初タイトルを獲得したのは、1978年のシリーズである。翌年チャンピオンに輝いたのは、ヒーローズレーシングで星野の1年後輩にあたる中嶋 悟だった。二人はその後も長くライバルとして名勝負を繰り広げる。中嶋は1987年に日本人初のフルタイムF1ドライバーとなった。
モータースポーツの印象を悪化させた暴走族
レースが盛況となるのと裏腹に、グラチャンはサーキット外の悩みを抱えていた。1970年代から80年代にかけて暴走族が社会問題となっており、彼らの行動がグラチャンのイメージを低下させたのだ。グラチャンの開催日には東名高速や中央高速に暴走族が集まり、会場周辺で集会を開いた。多くの観客が集まるグラチャンで、改造車を見せつけて存在を誇示するのが目的である。主催者も困惑し、「不法改造車での入場をお断りいたします」との文言をチケットに印刷したりしたが、さしたる効果は現れなかった。
ツーリングカーレースでは、性能向上のために改造を施された市販車がレースを行っていた。彼らはそれをまねた仕様のクルマを作って乗り込んできたのである。派手なウイングやオーバーフェンダーを装着していたが、多くはむしろ性能を低下させる飾りにすぎなかった。不良を気取るヤンキースタイルの流行ともシンクロし、特攻服に身を包んだ若者が違法改造車で襲来する。とばっちりを受けた形だが、グラチャン、そしてカーレース全体に対する世間の印象は悪化の一途をたどった。
1987年からは日本グランプリがF1のスケジュールに組み込まれ、中嶋の参戦もあってレースファンは急増した。しかし、1989年を最後にグラチャンは終了する。モータースポーツブームに乗ることができなかったのだ。プライベーター主体のレースは、F2も含めたフォーミュラが主流になっており、グラチャンの存在価値は薄れていた。
お手本にしたCan-Amシリーズも消滅し、グラチャンは世界的に見れば特異なレースでしかない。1988年から鈴鹿や菅生でも開催されるようになっていたが、対応は困難だった。長年富士スピードウェイだけで行われたことで、マシンがガラパゴス的進化を遂げていたからだ。
グラチャンは1989年に終止符を打つが、19年もの間日本のトップカテゴリーのレースであり続けたことになる。グラチャンとヤンキー文化は、時代が生んだ徒花(あだばな)だったかもしれない。ただ、それが日本にプライベーター主体のレースを根付かせたのも事実である。日本のモータースポーツを成熟させるための豊かな土壌となったのがグラチャンだった。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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