コンサバなセダンなんて言わせない!
トヨタ・クラウンの“挑戦の歴史”を振り返る
2018.06.29
デイリーコラム
自動車産業を変えたクルマ
1955年の誕生から60年以上にわたり、トヨタの看板車種として君臨してきた国産最長寿ブランドであり、日本を代表する高級車である「クラウン」。その伝統といい、成り立ちといい、ユーザー層といい、保守の王道のような存在……というイメージは、ここにきて従来より薄れつつあるのではないだろうか。そう思わせるきっかけとなったのは、2012年に登場した先代の「アスリート」のアグレッシブな顔つきであり、ピンクや空色、若草色の限定車などである。
先日発表された、6ライトウィンドウを採用した4ドアクーペ風の15代目のうたい文句は「挑戦と革新を続ける初代コネクティッドカー」。思い返せば、先代がデビューしたときの広報資料にも「クラウンはどの時代にも常に『革新』へと挑戦してきたクルマ」という記述があった。コンサバなイメージの払拭(ふっしょく)にやっきになっているように見えるが、トヨタがそう言いたくなる気持ちもわかる。その歴史を振り返ってみれば、決して保守一辺倒のクルマではなかったからだ。
そもそも戦後、他社が外国メーカーと技術提携を結び、乗用車のライセンス生産を進める中で、純国産にこだわったトヨタが独力で初代クラウンを開発したのは、その後の日本の自動車産業の方向性を左右するほどのチャレンジだった。「乗用車など輸入すればいい」という輸入車依存派と国産車育成派による国策レベルの議論は、クラウンの登場と成功によって終止符を打たれたのである。
クラウンが先陣をきって採用した技術や、切り開いたマーケットも少なくない。初代から例を挙げれば、ダブルウイッシュボーン/コイルの前輪独立懸架。四輪独立ならともかく前輪だけで? と訝(いぶか)る向きもあろうが、当時の日本では、ライセンス生産されていた外国車を除けば、乗用車といえども前後リーフリジッドのトラックシャシーを流用していた。ちなみにクラウンの前輪独立懸架の耐久性に不安を抱くタクシー業界向けに、トヨタは前後リーフリジッドのサスペンションを備えた「トヨペット・マスター」という兄弟車を同時に発売したのだった。
「トヨグライド」と名乗る自動変速機の登場も初代の時代、1959年である。当初は半自動の2段式で効率も低かったが、イージードライブ時代の到来を予測したトヨタの読みが正しかったことは、日本が世界一のAT大国となった後年の歴史が証明している。また、ごく少数しか作られなかったといわれているが、同年には国産乗用車としては初となるディーゼルエンジン搭載車も発表されている。
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大胆な戦略で市場を席巻
初代の面影をまったく残さないほど劇的な変身を遂げた2代目の時代、1964年に加えられた「クラウン エイト」は、日本初のV型8気筒エンジン搭載車だった。後に「センチュリー」に発展するモデルだが、翌1965年にはレギュラーのクラウンシリーズに直列6気筒SOHCエンジン搭載車が加わる。
直6 SOHCエンジンは、日本では1963年に「プリンス・グロリア」が初採用。クラウンと同時期に「日産セドリック」も導入したが、プリンスのG7型や日産のL20型が当時のメルセデスに範を取ったターンフローだったのに対して、クラウンのM型はクロスフローのヘミヘッドというスペック的には高度な設計。加えてSUツインキャブなどでチューンを高めた2リッター級では初のスポーツセダンとなる「クラウンS」もラインナップされた。
「白いクラウン」のキャッチコピーを掲げたセールスキャンペーンで記憶される、1967年デビューの3代目。「白は救急車、赤は消防車と誤認される恐れがあるため自家用車への使用は不可」という、塗色に関するばからしい規制が1965年に撤廃されたため、白いボディーカラーは2代目クラウンの最終型から設定されていたが、3代目はそれを大々的に打ち出したのだ。
都会的な壮年紳士だった俳優の山村 聰をイメージキャラクターに迎え、ドライバーズカーとしての魅力を訴えたこのキャンペーンは、それまでの法人および営業車向けというイメージの払拭に貢献し、個人オーナー市場を広げた。ボディーカラーによるマーケティング戦略は、“ピンクのクラウン”より40年以上前に行われていたのである。1968年には、さらにパーソナル性を高めたクラス初となる2ドアハードトップも追加され、いっそう個人オーナーに強くアピールした。
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冒険しすぎて失敗も
1971年に登場した4代目は、クラウン史上最も冒険したモデルだった。スピンドルシェイプと称する、空力を考慮して丸みを帯びたボディーは、全車にビルトイン式のカラードバンパーを採用。前年に登場した国産初のスペシャルティーカーであり、トヨタのファッションリーダーだった初代「セリカ」でさえ、カラードバンパーは一部車種のみだったといえば、いかに進んでいたかがおわかりいただけるだろうか。
だが、あまりに大胆で、従来との脈絡に乏しい変身ぶりが法人など保守的な需要層に敬遠され、クラウン史上セールスでライバルの後塵(こうじん)を拝した唯一の世代、最大の失敗作と呼ばれる結果となった。トヨタが考えていた以上にユーザーはコンサバ志向だったわけだが、もしこれが受け入れられていたら、その後のクラウンの歩みも、ひいては日本の高級車像も変わっていたことだろう。
冒険しすぎてブランドの信頼を揺るがせた4代目の反省から、1974年に登場した5代目以降、スタイリングに関しては保守路線が続くが、内容的には着々と進化していった。1979年デビューの6代目では、翌80年に誕生した「ソアラ」から流用した2.8リッター直6 DOHCエンジンや、トヨタ初となるターボエンジン搭載車を設定。続く7代目では上級グレードにクラス初となる4輪独立懸架を採用、またターボに代えて日本で初めてスーパーチャージャーを備えたエンジンをラインナップ。1987年に登場した8代目では、電子制御エアサスペンションや日本初となるトラクションコントロールを導入。「セルシオ」に先駆けて、クラウン エイト以来となるV8エンジン搭載車も設定された。
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若返りをかけた挑戦
1991年に世代交代した9代目では、主力の4ドアハードトップを「ロイヤル」シリーズと命名。V8エンジン搭載車は「マジェスタ」のサブネームを持つ上級シリーズとして独立し、誕生以来のセパレートフレーム構造を捨てモノコックボディーを採用。次の10代目からはロイヤルもモノコックとなり、1999年に登場した11代目では、直6エンジン搭載車がフォーマルな「ロイヤル」とスポーティーな「アスリート」の2シリーズに分かれた。
半世紀近い伝統を誇る一方で、保守化、高齢化が進むマーケットへの危機感から2003年に生まれた通称“ゼロクラウン”こと12代目。原点からのクルマづくりに挑むと称してプラットフォームからスタイリング、パワートレインまですべてを刷新。主力となるエンジンは三十数年ぶりに直6からV6に変更された。
それから約10年を経た2012年、再び“Re Born”をうたって登場した14代目(先代)では、主力となるパワーユニットが2.5リッター直4エンジン+モーターのハイブリッドに。ハイブリッド専用車を除き、ハイブリッド車が販売の主役となるのは、セダンではこれが世界初だった。
以上、駆け足ではあるが、筆者が思うところのクラウンの「挑戦と革新の歴史」である。「伝統とは革新の連続」という言い回しがあるが、それはクラウンにもあてはまると言ったら、褒めすぎだろうか?
(文=沼田 亨/写真=トヨタ自動車、CG Library/編集=関 顕也)
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沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。