DOHCのエキスパートとエンジンを開発

研究を重ね、基本コンセプトが固まっていった。純レーシングカーではないので駆動方式はFRとし、前後の重量配分は50:50に近づける。サスペンションは、前後ともダブルウイッシュボーン。ブレーキは4輪ディスクで、トランスミッションは5段。空力性能を上げるために、床下はフラットにする。

11月中に細部を詰め、12月初旬には5分の1全体図ができあがった。構想は固まったが、大事なパーツが残っていた。エンジンである。開発のパートナーとしてトヨタが選んだのは、ヤマハ発動機だった。

楽器メーカーのヤマハ(日本楽器)は、1954年からオートバイの開発を始めていた。最初は楽器工場の片隅を借りていたが、初の市販モデル「YA1」の本格生産を始めた翌年にヤマハ発動機として分社化されている。オートバイに飽きたらず、1959年からヤマハはスポーツカーの研究に乗り出す。

中心となったのは、三菱重工業出身の安川 力だった。いきなりDOHCエンジンを試すというチャレンジングな姿勢で、試作車の「YX30」が144km/hをマークする成果をあげる。日産からの要請で、2リッターDOHCエンジンを搭載した「A550X」も試作した。ヤマハは、DOHCのエキスパート的存在になっていたのだ。

2000GTのエンジンについては、クラウンのM型6気筒をベースにヘッドをDOHC化することが決まった。ヤマハが培ってきた技術の蓄積が、日の目を見ることになる。1965年1月半ばからトヨタとヤマハとの共同作業が始まり、野崎、山崎、高木の3人は、毎週火曜日から金曜日までヤマハの設計室で作業を行った。ヤマハとの提携は、意外なところでメリットを生む。インパネのウッドパネルにヤマハの母体である日本楽器のピアノ材を使うことになったのだ。共同作業は4月末まで続き、設計図が完成した。

ヤマハにとって初のオートバイとなった1955年型「YA-1」。「バイクといえば黒一色」という時代に、栗茶色のスリムな車体で話題を呼んだ。動力性能も申し分なく、1955年7月の第3回富士登山レースや同年11月の第1回浅間火山レースで上位を独占。3年間で約1万1000台が世に送り出された。
ヤマハにとって初のオートバイとなった1955年型「YA-1」。「バイクといえば黒一色」という時代に、栗茶色のスリムな車体で話題を呼んだ。動力性能も申し分なく、1955年7月の第3回富士登山レースや同年11月の第1回浅間火山レースで上位を独占。3年間で約1万1000台が世に送り出された。拡大
「2000GT」に搭載された、3M型1988cc直6 DOHCエンジン。最高出力150ps/6600rpm、最大トルク18.0kgm/5000rpmを発生した。
「2000GT」に搭載された、3M型1988cc直6 DOHCエンジン。最高出力150ps/6600rpm、最大トルク18.0kgm/5000rpmを発生した。拡大
イギリスのスポーツカーを思わせるT字形のダッシュボード。日本楽器のピアノ材で製作された。
イギリスのスポーツカーを思わせるT字形のダッシュボード。日本楽器のピアノ材で製作された。拡大
ヤマハにとっても特別なクルマとなった「2000GT」。同社の企業ミュージアム「コミュニケーションプラザ」には、ゴールドの個体が動態保存されている。
ヤマハにとっても特別なクルマとなった「2000GT」。同社の企業ミュージアム「コミュニケーションプラザ」には、ゴールドの個体が動態保存されている。拡大
あなたにおすすめの記事
関連記事
ホームへ戻る