第41回:世界を驚嘆させた「トヨタ2000GT」
サーキットと銀幕で輝いた日本の自動車技術
2019.01.24
自動車ヒストリー
1960年代の日本を代表する名車「トヨタ2000GT」。トヨタとヤマハが、持てる技術の粋を尽くして完成させた高性能グランツーリスモは、どのような経緯で誕生したのか? 銀幕やモータースポーツに残してきた足跡とともに、その歴史を振り返る。
敗北から始まった極秘プロジェクト
1964年に行われた第2回日本グランプリで、トヨタは一敗地にまみれた。前年に行われた第1回では、「クラウン」「コロナ」「パブリカ」が優勝して圧倒的な力を見せつけたが、この時はパブリカのみの優勝に終わったのである。各メーカーがワークス体制を整えて全力で取り組むようになっており、簡単には勝てなくなっていた。
レース監督の河野二郎は、副社長の齋藤尚一から「どうせレースをやるなら、ルマン24時間レースまでは行けよ」と言われていた。しかし、世界最高峰の耐久レースに挑戦するには、技術も経験も足りない。河野は世界に通用するトップレベルのスポーツカーを作ることを最初の目標に掲げる。第2回グランプリを終え、彼はワークスドライバーの細谷四方洋を呼んで計画を打ち明けた。開発ドライバーをまかせたのである。
1964年11月1日、試作ナンバー「280A」のプロジェクトがスタートする。エクステリアデザインは、アメリカのアートセンターで研修を積んだ野崎 喩に依頼した。エンジン設計は高木英匡、サスペンションは山崎進一が担当することになり、少数精鋭のスタッフで極秘のプロジェクトが動き出す。
世界トップレベルの本格的スーパースポーツであること、GTレースに参戦しても通用するポテンシャルを持つことなど、高い目標が定められた。そして、同時に日常的なハイパフォーマンスカーであることも求めている。レースが目的なのではなく、あくまでも普段使いのできるスポーツカーを目指したのだ。
研究のために、ヨーロッパ製のスポーツカーが持ち込まれた。「MGB」「トライアンフTR2」「フィアット・アバルト ビアルベーロ」「ポルシェ911」「ロータス・エラン」「ジャガーEタイプ」などである。日本の「ホンダS600」も購入した。
DOHCのエキスパートとエンジンを開発
研究を重ね、基本コンセプトが固まっていった。純レーシングカーではないので駆動方式はFRとし、前後の重量配分は50:50に近づける。サスペンションは、前後ともダブルウイッシュボーン。ブレーキは4輪ディスクで、トランスミッションは5段。空力性能を上げるために、床下はフラットにする。
11月中に細部を詰め、12月初旬には5分の1全体図ができあがった。構想は固まったが、大事なパーツが残っていた。エンジンである。開発のパートナーとしてトヨタが選んだのは、ヤマハ発動機だった。
楽器メーカーのヤマハ(日本楽器)は、1954年からオートバイの開発を始めていた。最初は楽器工場の片隅を借りていたが、初の市販モデル「YA1」の本格生産を始めた翌年にヤマハ発動機として分社化されている。オートバイに飽きたらず、1959年からヤマハはスポーツカーの研究に乗り出す。
中心となったのは、三菱重工業出身の安川 力だった。いきなりDOHCエンジンを試すというチャレンジングな姿勢で、試作車の「YX30」が144km/hをマークする成果をあげる。日産からの要請で、2リッターDOHCエンジンを搭載した「A550X」も試作した。ヤマハは、DOHCのエキスパート的存在になっていたのだ。
2000GTのエンジンについては、クラウンのM型6気筒をベースにヘッドをDOHC化することが決まった。ヤマハが培ってきた技術の蓄積が、日の目を見ることになる。1965年1月半ばからトヨタとヤマハとの共同作業が始まり、野崎、山崎、高木の3人は、毎週火曜日から金曜日までヤマハの設計室で作業を行った。ヤマハとの提携は、意外なところでメリットを生む。インパネのウッドパネルにヤマハの母体である日本楽器のピアノ材を使うことになったのだ。共同作業は4月末まで続き、設計図が完成した。
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10カ月で試作車を完成させる
試作車を引き取りに行ったのは、8月14日である。開発を始めてからわずか10カ月という驚異的な短さで1号車を仕上げたのだ。トヨタに戻ってすぐに試運転したというから、それなりの完成度だったのだろう。この年に行われた東京モーターショーに2000GTは出品され、低く構えた流麗なスタイルが人々を驚かせた。
会場には、「ホンダS800」「いすゞ・ベレット1600GT」「スバル1000」なども展示されていた。ショーが始まる19日前に外国車の輸入が解禁されており、各メーカーはそれに対抗するため、魅力的な新型車を競って発表したのだ。トヨタが初の本格的純国産乗用車クラウンを作ってから10年、日本の自動車産業は欧米の強力なメーカーと争う時代に突入していた。
2000GTの次なる目標は、1966年5月の第3回日本グランプリに設定された。レースを通じて弱点の洗い出しと性能の向上を図ることにしたのである。第2回までと違い、細かいクラス分けをやめて富士スピードウェイを60周するメインレースに一本化されていた。
開発陣は、レースのために軽量なアルミボディーのスペシャルマシンを用意した。しかし、プロトタイプレーシングカーの出場も認められていたので、市販化前提のスポーツカーである2000GTにとっては勝ち目のない戦いである。それでも、2台の「プリンスR380」に続いて3位でフィニッシュし、ポテンシャルの高さを見せた。
スピードトライアルで3つの世界記録を更新
グランツーリスモとして開発された2000GTは、スプリントレースよりも耐久レースで真価を発揮した。2カ月後に行われた鈴鹿1000kmレースではワンツーフィニッシュを決め、翌年も鈴鹿500kmレースで優勝する。富士24時間レースでは「スポーツ800」とともに“デイトナフィニッシュ”を飾った。
レースの合間に、2000GTはスピード記録にも挑戦した。78時間1万マイルスピードトライアルである。茨城県谷田部の高速自動車試験場にマシンを持ち込み、国際記録の樹立を狙ったのだ。テストを行うとエンジンの焼き付きなどのトラブルが発生し、オイルポンプの容量を増やすなどの対策を施した。本番では1万マイルを平均時速206.18kmで走り抜き、3つの世界記録を更新。この経験が耐久レースでの勝利を生み、さらに市販車の信頼性を高めたのだ。
スピードトライアルの準備を進めていた頃、もうひとつのビッグなプロジェクトが飛び込んできた。日本が舞台となった映画『007は二度死ぬ』で2000GTを使いたいという依頼を受けたのである。ただ、コンパクトな室内には大柄なショーン・コネリーが収まりきらず、姿が見えるようにオープンカーに改造してほしいという。突然の要望をトヨペット・サービスセンターの綱島工場が引き受け、わずか14日間でスペシャルモデルを完成させた。
『007は二度死ぬ』には姫路城で忍者がひそかに訓練を積んでいる場面などの荒唐無稽な日本描写も多いが、2000GTの登場シーンは工業国として発展している日本を象徴的に示すことになった。運転するのはヒロインの若林映子だったし秘密兵器開発主任のQが作ったクルマではないので、“ボンドカー”の定義からは外れる。それでも、シリーズの中で2000GTは、「アストンマーティンDB5」や「ロータス・エスプリ」に並ぶ大きなインパクトを残している。
最高速度は220km/h、価格はクラウンの2倍
1967年5月、ついに2000GTは発売された。スタイルは、1965年に発表されたプロトタイプと大きくは変わっていない。Xボーンフレームに前後ダブルウイッシュボーンサスペンションを備え、ロングノーズショートデッキのファストバックボディーをまとっていた。
エンジンは3M型1988cc直列6気筒DOHCで、最高出力は150ps。最高速度は220km/h、0-400m加速は15.9秒と発表されたが、実際には少し違うらしい。細谷がテストすると最高速度が230km/h、0-400m加速は15.1秒だったが、バラツキがある可能性を考慮して控えめな数字にしたのだという。
価格は238万円で、高級車クラウンの約2倍。簡単に手を出せる金額ではないが、盛り込まれた技術と手作りに近い製造工程を考えれば、バーゲンプライスといえる。1969年にフロントマスクの変更やATモデルの追加などのマイナーチェンジが行われ、1970年8月までに337台が製造された。2.3リッターSOHCエンジンを搭載したモデルが試作されたりしていて、実際に製造された台数はもう少し多いようだ。
2000GTの開発が一段落すると、今度は本格的なレーシングマシンのプロジェクトが始まった。主導したのは河野で、乗ったのは細谷である。そして、再びヤマハがパートナーとなった。圧倒的なハイパワーマシンを作り上げ、トヨタの技術レベルは大きく飛躍する。日本グランプリでの敗北からスタートした挑戦は、伝説のグランツーリスモとレースの勝利に結実した。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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