第193回:サイコキラーはシトロエンBXでナンパする
『ザ・バニシング -消失-』
2019.04.12
読んでますカー、観てますカー
車内のケンカで険悪な雰囲気に
美しい風景の中を走り抜ける「プジョー404」。ルーフには自転車が2台乗せられている。若い男女がオランダからフランスの別荘へ旅行にやってきたのだ。運転するレックス・ホフマン(ジーン・ベルヴォーツ)と助手席のサスキア・ワグター(ヨハンナ・テア・ステーゲ)は楽しそうに会話しているが、次第に雲行きが怪しくなる。レックスは運転に口を出されるのがイヤなのだ。「ガソリンを入れておいたほうがいいんじゃない?」と言われても、「燃料計を気にするのは運転手の仕事だ」とにべもない。これがマズかった。
よりによってトンネル内でガス欠になりストップ。パニックになるサスキアを残し、レックスはガソリンを買いに歩いていってしまう。戻ってくると、クルマの中に彼女はいない。追突されるのを恐れてトンネルを出たところの路肩で待っていたのだ。車内は険悪な空気に包まれる。ドライブインのガソリンスタンドで給油するものの、サスキアは帰りたいと言い出す。ここに至ってようやくレックスは謝罪。なんとか仲直りを果たし、彼女は売店に飲み物を買いにいく。しかし、いくら待っても帰ってこない……。
多くの男性が経験していると思うが、カーナビがなかった頃は分かれ道でどちらに向かうかでよく口論になった。恋人とドライブ中にケンカすると最悪の結果を招く。ぶんむくれられて会話はなくなり、ドライブは台無しになってしまう。サスキアは笑顔を見せていたけれど、さっきの怒りを思い出してクルマに乗りたくない気分になったのかもしれない。ならば、どこへ消えたのか。警察を呼んでも、痴話ゲンカだと思われて相手にされない。
時は移って3年後。街角にはサスキアの情報を求めるポスターが貼られている。彼女は戻ってこず、レックスは今も探し続けているのだ。
助手席に誘い込んだ女性に薬剤を
突然消失モノというのは映画のジャンルの1つである。『フライトプラン』は飛行機が舞台。一緒に乗った娘が機内からいなくなり、乗客名簿にも記載がなかったことから母親に疑惑の目が向けられる。『ブレーキ・ダウン』では、親切なトラック運転手が妻をレストランまで連れていってくれたはずなのに、追いかけていくと誰も彼女の姿を見ていないという。人が消失したというあり得ない事態が本当に発生したのか、それとも主人公が幻覚を見ているのか、観客には判断できない。
『ザ・バニシング -消失-』では、妄想や幻覚という可能性があらかじめ取り除かれている。彼らが立ち寄ったドライブインには、白の「シトロエンBX」の中でニセのギプスを付けてけが人を装う怪しい男の姿があった。犯人は彼に違いない。映画ではその男レイモン・ルモン(ベルナール・ピエール・ドナデュー)が女性を誘拐するためのシミュレーションを行っている場面が描かれる。道案内を乞うことを装って助手席に誘い込み、ハンカチに染み込ませた薬剤で失神させる計画だ。
レイモンには妻と2人の娘がいて、家族と穏やかな暮らしを営んでいる。毎週末に山小屋を修理しに出掛けているのが悪逆な犯罪の準備だとは誰も気づいていない。彼は一種のサイコパスなのだ。少年時代に、自分が反社会的人間であることを自覚した。平凡な家庭生活を送りながら、究極の悪を夢見ている。彼が考える究極とは、ただの殺人ではない。凡庸な犯罪では満足できないのだ。人を消滅させることが目的ではなく、過程が大切である。三宅隆太監督の映画『七つまでは神のうち』を観た人なら想像がつくかもしれない。
レイモンは執拗(しつよう)に精緻な計画を練っている。薬剤の効き目を試すため、自ら吸入して効果の持続時間を計る。悲鳴をあげられた時にどこまで聞こえるかもテストした。完璧なシミュレーションができたはずだが、現実はそのとおりにはいかない。BXに乗って街角で若い女性だけをターゲットにナンパするアゴヒゲ男は、いかにも不審人物だ。
5年後にハリウッドでリメイク
ポスターを見て、レイモンはレックスに興味を抱く。生死も不明な恋人を3年にわたって捜索しているのはただごとではない。度を越した執念深さは、自分に通じるところがあると感じたのだろう。彼はレックスに会いたいと強く願うようになる。自らの暗い欲望を成就させるためなら、犯行がバレてしまう危険を冒すこともいとわない。
レイモンはBXに乗ってレックスのもとに向かう。以前の白ではなく、ボディーカラーは赤である。乗り換えたのに同じモデルなのは、一つのことに執着する彼の性格を表しているのだろう。2人の執念深い男を乗せたBXは、新たな悲劇に向かって疾走する。
クルマの種類でわかるように、この映画が製作されたのは1988年である。そんな古い作品を取り上げるのは、これが日本初公開となるからだ。なじみの薄いオランダ映画で有名な俳優も出ていないことから、日本ではスルーされてしまったらしい。海外では評価が高く、映画賞をいくつも受賞している。スタンリー・キューブリック監督が気に入り、「これまで観たすべての映画の中で最も恐ろしい映画だ」と言ったというから本物だ。
評判がよかったので、公開5年後の1993年にハリウッドでリメイクされている。監督は本作と同じジョルジュ・シュルイツァーが務めた。こちらは日本で劇場公開されたから、先に観た人もいるかもしれない。『失踪 妄想は究極の凶器』という困った邦題が付けられていたが、DVDでは単に『失踪』というタイトルに改められている。
『ダーク・ブラッド』も同様の設定
『失踪』のストーリーはもちろん『ザ・バニシング -消失-』と基本的に同じ。ただ、テイストはまったく違う。オリジナルがカップルのドライブシーンから始まるのに対し、こちらは犯人が計画を立ててシミュレーションを重ねる描写からスタート。時系列が前後する入り組んだ展開は解消され、全体としてスッキリとした構成になっている。明らかにアメリカのマーケットを意識した改変だ。
作品としての完成度よりもわかりやすさを優先するタイプの観客は少なくない。日本でもそうだ。『いだてん~東京オリムピック噺~』は宮藤官九郎が脚本を担当する画期的な大河ドラマだが、視聴率が低迷している。金栗四三がストックホルムオリンピックに参加した明治末と東京オリンピックの時代が交互に描かれるから、話の進行がわからないという人が多いのだ。それほど複雑な構成とは思えないが、『水戸黄門』や『相棒』のようなドラマばかり観ていると映像リテラシーが失われてしまうのだろう。
『失踪』では、サイコ犯罪者をジェフ・ブリッジス、被害者の男女をキーファー・サザーランドとサンドラ・ブロックが演じる。カップルが乗るのは「ジープ・チェロキー」で、犯罪に使われるのは「ボルボ240」だ。キャスティングやクルマよりもはるかに大きな違いはエンディングである。オリジナルは救いのない結末だが、ハリウッドではアンハッピーな終わり方は許されない。サスペンスとアクションが付加され、エンターテインメント性を大幅に高めている。
後で作られたのだから、改善された点は多い。しかし、もとのざらついた手触りと不快な後味は失われた。恐怖は薄められ、手に汗を握りながら楽しく観ることのできる普通の映画になっている。『ザ・バニシング -消失-』は、デートには向かない映画だ。
シュルイツァー監督は、『失踪』と同じ時期にもう1本『ダーク・ブラッド』を撮影中だった。主演のリヴァー・フェニックスが急死してお蔵入りになっていたが、撮り直したりナレーションを加えたりして2012年に完成させている。「ベントレーS3」で砂漠を走っていた夫婦がクルマの故障からケンカになり、たどり着いた小屋で大変な目に遭う物語だ。どうやら、シュルイツァー監督にはクルマの中でケンカしてひどいことになったトラウマがあるらしい。ドライブ中に彼女とケンカしてはいけないというのが、この2作から得られる教訓である。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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