第611回:名門カロッツェリア最後の“女将”
リッリ・ベルトーネの華麗なる生涯
2019.07.05
マッキナ あらモーダ!
路上で声をかけられ“カロッツェリアの妻”に
イタリアのカロッツェリア「ベルトーネ」で最後の社長を務めたリッリ・ベルトーネ氏が2019年6月23日、スイスのルガーノで亡くなった。84歳だった。
リッリ氏は1997年2月、夫で旧「カロッツェリア・ベルトーネ」の2代目社主だったヌッチオ・ベルトーネ氏が83歳で他界した後に同社の経営を継承。2014年に倒産するまで代表を務めた。
彼女の正式な名前は、エルメリンダ・コルテーゼ・ベルトーネ。トリノと同じピエモンテ州のアレッサンドリアで1935年に生まれた。2019年6月23日付『クオティディアーノ・ピエモンテーゼ』紙の電子版が彼女の著書『プロメッティ!』からの引用として伝えるところによると、父が軍幹部を務める家庭の次女で、税理士資格を取得後、銀行員として11年間勤務している。
ヌッチオ・ベルトーネ氏との出会いは、イタリア自動車クラブ(ACI)の2002年3月号会報に掲載されたインタビューに詳しい。彼女がトリノの自動車部品店で愛車「フィアット600」のバンパー用オーバーライダーを探していたところ、「アルファ・ロメオ・ジュリエッタ」で通りかかったヌッチオ氏が車内から「それはあなたのクルマの外観を台無しにするよ」と声をかけてきたのがきっかけだったそうだ。
さらに、料理サイト『インフォルマ・チーボ』の2006年の記事によれば、ヌッチオ氏は味にうるさかったため、リッリ氏は料理の腕を上げるべく数々の著名なクッキングスクールに通う日々が続いたという。
ジュネーブショーの名物シニョーラ
幸運にも筆者は、リッリ時代のベルトーネをリアルタイムで眺めてきた。夫ヌッチオ氏の訃報に接したのはイタリアに住み始めて半年もたたない時期だった。大学で紹介してもらった激狭アパルタメントでテレビを見ていたら、ベルトーネが心臓発作で急死したとのニュースが流れた。そのテレビ受像機は近所のスーパーマーケットで買ったもので、付属のロッドアンテナは極めて性能が悪かった。だからあわててアンテナを伸ばす向きをあちこち試し、必死に受信したのを覚えている。
リッリ氏個人と最初に会ったのは2001年9月、パリで開催されたコンクール・デレガンス「ルイ・ヴィトン・クラシック」だった。その日リッリ氏は、夫ヌッチオ氏が自らレースに参加するためにつくられた「フィアット500スパイダー」を携えて参加していた。
当時からリッリ氏は魔法使いのようなルックスであった。だが、今日以上にフランス語が拙かった筆者にとって、彼女はイタリア語で話しかけることができる数少ない参加者であった。
するとリッリ氏は初対面にもかかわらず、脇に置いてあったヘルメットを掲げ、「これは主人ヌッチオのかぶっていたヘルメットよ」といとおしそうになでながら説明してくれた。そればかりか、レストア過程の写真を熱心に見せてくれた。
やがて、毎年3月にジュネーブモーターショーを取材するようになると筆者は、モンブランを越えてやってきたトリノのカロッツェリアのブースを真っ先に訪れるようになった。その中のひとつがベルトーネで、最新コンセプトカー1台とともに、受託生産部門で製造している車両や歴史的作品を展示していた。
リッリ氏はといえば、いつも個性的な衣装でいたので、すぐに発見することができた。ついぞ聞きそびれたが、独自のセンスを信じながら毎回仕立てさせていたのだと思う。そして、新作コンセプトカーの話題とは別に、筆者が住むシエナと同じトスカーナ地方に持つ別荘の話を彼女は楽しそうに明かしてくれたものだ。加えて、わが女房の回想によれば、トスカーナ料理のうまさに加え、前述のようにヌッチオ氏の食通ぶりをたびたび話していたという。
波乱万丈の晩年
その陰で企業としてのベルトーネには刻々と破局が迫っていた。1954年のアルファ・ロメオ・ジュリエッタおよび「ジュリエッタ スプリント」から始まった受託生産は、やがてオペルやボルボなどからもカブリオレやクーペといったモデルのオーダーを獲得した。しかし、世紀が変わると、ユーザーの嗜好(しこう)変化にともなってニッチ車種の整理が始まり、その結果受託生産が次々と打ち切られた。
デザイン・設計部門と並ぶ大切な収入源を失ったベルトーネの痛手は大きかった。一時はキャンピングカー製造まで模索したが、リッリ氏は経営方針をめぐって2人の娘と対立。1300人以上にのぼる工場の従業員ばかりか、最後は娘たちまで解雇した。そうしたニュースはイタリア国内で連日報道された。
そしてついに2008年、ベルトーネは倒産に追い込まれ、トリノ郊外グルリアスコの工場は当時のフィアット・グループ・オートモービルズ(FGA)へと売却された。参考までに同工場は現在、マセラティの工場として「ギブリ」および「クアトロポルテ」を生産している。
だがリッリ氏は屈しなかった。翌2009年、裁判所の管理下にあった設計・デザイン部門を買い戻し「スティーレ・ベルトーネ」と命名。デザイン責任者には元ランチアの米国人デザイナー、マイケル・ロビンソン氏を起用した。
同時にリッリ氏は、商標と歴史的アーカイブを管理する企業「ベルトーネ・チェント」も設立。そして2012年10月には、創業100年の記念祭をトリノ自動車博物館(MAUTO)で開催した。ちなみに彼女は会社を100周年まで存続させることを、生前のヌッチオ氏に誓わされたという。
スティーレ・ベルトーネは中国に活路を求め、現地に十数人規模のオフィスも開設した。当時のリッリ氏は会うたび「今、中国から帰ってきたばかり」と言っていたのを覚えている。加えて「(中国は)環境汚染がひどすぎて、目が痛くなる」と嘆いていたものだ。
ところが、リッリ氏が立ち上げたスティーレ・ベルトーネもベルトーネ・チェントも2014年に相次いで倒産してしまう。リッリ氏が最後まで保持していた自動車分野におけるベルトーネの商標権は、倒産物件を扱う裁判所により、2016年に公売に付された。当初300万ユーロの最低落札価格が設定されていたものの売買が成立せず、最終的に値下げが行われ、後日260万ユーロ(約3億2000万円、税金・手数料別)で落札された。取得したのは、多国籍エンジニアリング会社アッカ・テクノロジーズのイタリア法人だった。これをもって、リッリ氏は自動車界から引退した。
あの名車誕生の瞬間を語ってくれた
激動する自動車業界の荒波の中、いきなりかじ取りを任されたリッリ氏が、その能力を十分に蓄えていなかったことは事実であろう。また、筆者が知る関係者たちの証言によれば、ヌッチオ氏やリッリ氏と決裂し、優秀でありながらも両氏の元を去っていったデザイナーが数々存在したという。
また、ヌッチオ氏と同様(実は彼も経理学校の出身で、社内ではイタリア語で税理士を示すラジオニエーレと呼ばれていた)、リッリ氏もカーデザイン出身ではなく経営者だった。
しかし記しておくべきは、前述の100周年記念祭のスピーチでリッリ氏が、「ベルトーネはイタリアの優秀性を育んだ、いわば“大学”だった」と振り返ったことだ。事実、夫妻が営んだベルトーネという企業は、卓越したセンスをもってジョルジェット・ジウジアーロ氏やマルチェロ・ガンディーニ氏、ロベルト・ピアッティ氏といった逸材を見いだしたことは紛れもない事実である。
晩年のマイケル・ロビンソン氏の起用も、実は勇気ある決断だったと筆者は考える。すでに産業がこれだけ国際化しても「(カロッツェリアに)アメリカ人なんて」と筆者にささやくトリノ人関係者がいたのだから。
思えば、昔話を惜しみなく話してくれたのもリッリ氏だった。筆者が彼女に「フェルッチョ・ランボルギーニとの出会いをご記憶ですか」と聞くと、リッリ氏はジェスチャーも交え、昨日のことのように1965年のトリノショーでの情景を語り始めた。
「彼(フェルッチョ)はね、小脇に書類の入った紙挟みを抱えてヌッチオと私のところに来たのよ。そしていきなり『どうです、このクルマにボディーをかぶせてみませんか?』と切り出したの」。
農業用トラクターづくりで財を成していたものの、自動車界では無名だったエミリア・ロマーニャの新興企業家フェルッチョ・ランボルギーニと、名門カロッツェリア。イタリア自動車史における2つの巨星の邂逅(かいこう)であり、あの「ランボルギーニ・ミウラ」誕生の瞬間である。
最期の地となったルガーノに、リッリ氏は5年間住んでいたという。くしくもリッリ氏が世を去った2019年6月23日、トリノのヴァレンティーノ公園では、カロッツェリアも参加する盛大なイベントが開催されていた。イタリア随一の自動車の街の復興を目指した企画で、5年目を迎えたものであった。もし旧ベルトーネが現存していたらディスプレイし、リッリ氏も張り切ってスタンドに立っていたことだろう。
今日、イタルデザインはフォルクスワーゲングループに組み込まれ、ピニンファリーナのウェブサイトにはインドのマヒンドラのロゴがしっかりと記されている。
そうした中でリッリ・ベルトーネ氏の生涯を振り返れば、カロッツェリア・イタリアーナが古き良き同族経営だった時代の幻影を最後まで映し出してくれた“女将(おかみ)”だったといえるだろう。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>写真=Akio Lorenzo OYA、ベルトーネ/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、25年間にわたってリポーターを務めあげる。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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