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モータースポーツでも無敵状態!? 「日産フェアレディZ」のルーツをたどる

2020.10.14 デイリーコラム 沼田 亨

1960年代を代表する国産スポーツカー

「日産フェアレディZ」の前身といえば、オープンスポーツの「ダットサン・フェアレディ」。さらにそのルーツをたどると、1952年に登場した、日本で初めて「スポーツ」を名乗った「ダットサン・スポーツDC-3」に行き着く。そこからFRPボディーを持つ「ダットサン・スポーツ」(型式名S211)や最初に「フェアレデー」(という表記だった)の名を冠した輸出専用車のSPL212などが存在するのだが、ここでは1961年秋の東京モーターショーでデビューした「ダットサン・フェアレディ1500」(SP310)から話を始めよう。

なぜならこのSP310こそが、わが国初の本格的な市販量産スポーツカーであるからだ。そして「フェアレディ1600」(SP311)および「フェアレディ2000」(SR311)へと発展していき、1960年代を代表する国産スポーツカーの一台となった。同時に黎明(れいめい)期のモータースポーツでも大活躍。SP/SR抜きに60年代の国内レースは語れないと言っても過言ではないほど、その育成と普及に貢献したのである。

東京モーターショーでのお披露目から約1年後の1962年10月に発売されたSP310。横向きのサードシートを持つ3座のオープンボディーを載せたシャシーは、初代「ブルーバード」(310)用のラダーフレームを補強したもので、サスペンションはフロントがダブルウイッシュボーン/コイルの独立式、リアはリーフの固定軸式だった。エンジンは初代「セドリック」(30)用の1.5リッター直4 OHVのG型で、キャブレターをダウンドラフトからSUに換えるなどしていたが、最高出力71PS/5000rpm、最大トルク11.5kgf・m/3200rpm(グロス値、以下すべて)というデータはセドリックと同じ。全体的には英国の「MGA」などに通じるコンベンショナルな設計で、やはりセドリック用をフロアシフトに改めた4段MTを介しての性能は最高速150km/h、0-400mのタイムが20.2秒と公表された。

翌1963年5月、日本初の舗装された常設レーシングコースである鈴鹿サーキットで、戦後初の本格的なスピードイベントである第1回日本グランプリが開催された。「国内スポーツカー 1300~2500ccレース」に出場したSP310は、「MGB」や「トライアンフTR4」などの輸入車勢を抑えて見事に優勝。優勝車両は輸出仕様のSUツインキャブを備えていたが、レース後に規定違反ではないかとの抗議が他のドライバーから出され、物議を醸した。

1962年「ダットサン・フェアレディ1500」。型式名SP310の初期型である。ボディーサイズは全長×全幅×全高=3910×1495×1275mm、ホイールベースが2280mmで、車重が870kg。価格は85万円。
1962年「ダットサン・フェアレディ1500」。型式名SP310の初期型である。ボディーサイズは全長×全幅×全高=3910×1495×1275mm、ホイールベースが2280mmで、車重が870kg。価格は85万円。拡大
旧車イベントにエントリーしていた初期型SP310。ご覧のように横向きのサードシートを備えた3人乗りだった。インパネには国産初となるタコメーターが備わるものの、同径の時計が並び、あまりスポーツカーらしくなかった。ラジオ下の小径メーターは後年に増設されたもの。
旧車イベントにエントリーしていた初期型SP310。ご覧のように横向きのサードシートを備えた3人乗りだった。インパネには国産初となるタコメーターが備わるものの、同径の時計が並び、あまりスポーツカーらしくなかった。ラジオ下の小径メーターは後年に増設されたもの。拡大
同じく初期型SP310のG型エンジン。キャブレターをダウンドラフトからSUに換えた最大の目的は、低いボンネットに収めるためだったという。手前にバキュームサーボが後付けされている。
同じく初期型SP310のG型エンジン。キャブレターをダウンドラフトからSUに換えた最大の目的は、低いボンネットに収めるためだったという。手前にバキュームサーボが後付けされている。拡大
日産の座間記念庫に保管されている、田原源一郎のドライブで第1回日本グランプリに優勝したSP310。市販車とはまったく異なるレーシングスクリーンを備えている。
日産の座間記念庫に保管されている、田原源一郎のドライブで第1回日本グランプリに優勝したSP310。市販車とはまったく異なるレーシングスクリーンを備えている。拡大
優勝車両の内部。サイドウィンドウは本来の巻き上げ式が取り払われ、アクリル製が装着されている。軽量化のためと思われるが、その割にはラジオは付いたままである。
優勝車両の内部。サイドウィンドウは本来の巻き上げ式が取り払われ、アクリル製が装着されている。軽量化のためと思われるが、その割にはラジオは付いたままである。拡大
日産 フェアレディZ の中古車

動力性能は世界レベルに

第1回日本グランプリ開催直後の1963年6月、SP310は優勝車と同じ北米仕様に採用されていたSUツインキャブを装着し、圧縮比を上げて80PS/5600rpmにパワーアップ。4段MTもクロスレシオ化されて性能は最高速155km/h、0-400mが18.7秒に向上した。さらに1964年8月にはマイナーチェンジを実施、実用性が低いうえにドライバーズシートのスライド量が制限されると不評だったサードシートを廃して2シーターとなり、インパネもより魅力的なデザインに一新された。

それから1年もたたない1965年5月には再度マイナーチェンジを受けてダットサン・フェアレディ1600(SP311)に発展。内外装を小変更し、エンジンは最高出力90PS/6000rpm、最大トルク13.5kgf・m/4000rpmを発生するR型に換装され、4段MTにはポルシェタイプシンクロを採用。向上したパフォーマンスに対応すべく、前輪にはディスクブレーキを導入。カタログデータでは最高速165km/h、0-400mタイム17.6秒と、1.6リッター級としては世界レベルで見ても遜色のない性能を誇るスポーツカーとなった。

実はこのSP311よりひと足早く、同年4月に派生車種となる初代「日産シルビア」(CSP311)が登場している。前年の1964年秋の東京モーターショーに「ダットサン・クーペ1500」として出展されたプロトタイプを市販化したものである。ショー出展時のベースカーはSP310だったが、市販時にはSP311に代わり、それがベースカーより先に世に出たというわけだ。

モータースポーツに関しては、第2回日本グランプリを控えた1964年3月にスポーツキットを発売し、レース参戦が本格化していく。そして日産チームに加入した高橋国光、北野 元らが乗るワークスマシンをはじめとするSP310/311は、国内のGTレースに欠くことのできない存在となっていった。

レースでの活躍は国内にとどまらなかった。北米輸出仕様の「ダットサン・スポーツ1500」ことSPL310(LはLeft=左ハンドルの意味)を1964年からSCCA(スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ)選手権で走らせたボブ・シャープ・レーシングチームは、1967年にSPL311でFクラスのチャンピオンシップを獲得。これは日産そして日本車初となるSCCAでの戴冠だった。

1964年8月のマイナーチェンジで一新されたSP310のインパネ。メーターは大径のスピードとタコ、小径の水温、燃料、油圧、電流、時計の大小7連となり、コンソールボックスも備わる。はめ殺しだった三角窓も開閉式となった。
1964年8月のマイナーチェンジで一新されたSP310のインパネ。メーターは大径のスピードとタコ、小径の水温、燃料、油圧、電流、時計の大小7連となり、コンソールボックスも備わる。はめ殺しだった三角窓も開閉式となった。拡大
オプションのハードトップを装着した1965年「ダットサン・フェアレディ1600」(SP311)。フロントグリルがSP310の格子状から横バー3本となり、ホイール/タイヤは13インチから14インチに変更。それにしたがってフロントのホイールアーチが広げられ、張り出しも大きくなった。
オプションのハードトップを装着した1965年「ダットサン・フェアレディ1600」(SP311)。フロントグリルがSP310の格子状から横バー3本となり、ホイール/タイヤは13インチから14インチに変更。それにしたがってフロントのホイールアーチが広げられ、張り出しも大きくなった。拡大
1965年「日産シルビア」(CSP311)。SP311のシャシーにほぼハンドメイドのボディーを載せ、内装も豪華に仕立てた2座クーペで、価格は120万円。日産では2.8リッター直6エンジンを積んだ最高級車の「セドリック スペシャル」(135万円)に次ぐ高価格車だったため、小型車用のダットサンではなく日産ブランドを冠した。
1965年「日産シルビア」(CSP311)。SP311のシャシーにほぼハンドメイドのボディーを載せ、内装も豪華に仕立てた2座クーペで、価格は120万円。日産では2.8リッター直6エンジンを積んだ最高級車の「セドリック スペシャル」(135万円)に次ぐ高価格車だったため、小型車用のダットサンではなく日産ブランドを冠した。拡大
1966年の第3回日本グランプリの「GTカーレース」で高橋国光が駆り優勝したSP311。プライベーターの「ロータス・エラン」や「ポルシェ911」なども出走していたが、高度にチューンされたワークスマシンに蹴散らされた。
1966年の第3回日本グランプリの「GTカーレース」で高橋国光が駆り優勝したSP311。プライベーターの「ロータス・エラン」や「ポルシェ911」なども出走していたが、高度にチューンされたワークスマシンに蹴散らされた。拡大
1965年に北米デイトナで開かれたアメリカン・ロードレース・オブ・チャンピオンでGクラス3位に入った、ボブ・シャープ・レーシングのSPL310。
1965年に北米デイトナで開かれたアメリカン・ロードレース・オブ・チャンピオンでGクラス3位に入った、ボブ・シャープ・レーシングのSPL310。拡大

GTレースがワンメイク状態に

1967年3月、SP/SRの最終発展型となるダットサン・フェアレディ2000(SR311)が登場した。セドリック用のH20型をベースにSOHC化された2リッター直4のU20型エンジンは、ツインチョークソレックスを2基備えて最高出力145PS/6000rpm、最大トルク18.0kgf・m/4800rpmを発生。初期型SP310が71PSだったから、2倍以上にまでパワーが増強されたことになる。

5段化されたMTを介してのパフォーマンスは最高速205km/h、0-400mタイム15.4秒と飛躍的に向上し、日本車で初めて200km/hの壁を突破した。これらはカタログ値だが『CAR GRAPHIC』誌のロードテストでも最高速190.0km/h、0−400mタイム15.8秒、0−100km/h加速8.7秒という当時の国産最速データを記録している。

SR311登場後もフェアレディ1600(SP311)は小変更を受けて継続販売された。しかし価格はSR311が88万円、SP311が83万円とたった5万円しか違わなかったため、国内販売はほぼSR311のみに絞られた。そして発売から8カ月後の1967年11月には早くもマイナーチェンジ。北米の安全基準に合わせてウインドシールドが高くなり、室内ではインパネやステアリングホイールを変更、シートもヘッドレスト付きとなった。1968年11月には最後の小変更を受け、69年にクローズドボディーとなった「フェアレディZ」がデビューした後も70年4月までつくられた。

SR311が国内のGTレースでデビューしたころまでは、GT-IIクラス(1300~2000cc)には少数ながらプライベーターの「ロータス・エラン」なども参戦していた。だが1968年になると、戦闘力を高めたSR311の前にもはや敵はなく、ワンメイク状態と化してしまう。その状況は後継モデルの初代フェアレディZ(S30)が登場する69年いっぱいまで続いた。

アメリカでも活躍は続き、トリコロールのカラーリングでおなじみのピート・ブロック率いるブロック・レーシング・エンタープライズ(BRE)から参戦したSRL311が1969年と70年にSCCAのDクラスを連覇している。またレースのみならず、日産ワークスから2台のSRL311が1968年、69年と2年続けてモンテカルロラリーに参戦。68年は初参戦ながら1台が総合9位に食い込んだ。

国産初の本格的なスポーツカーとして誕生してから、わずか5年のうちに動力性能においては国際レベルにまで成長し、モータースポーツでも誇るべき実績を残したSP/SR。そのDNAは初代フェアレディZ(S30)へと受け継がれていったのである。

(文=沼田 亨/写真=日産自動車、沼田 亨/編集=藤沢 勝)

1967年「ダットサン・フェアレディ2000」(SR311)。再びフロントグリルのデザインが変わった。この前期型は後期型に比べてウインドシールドが低いため“ローウィンドウ”と俗称される。
1967年「ダットサン・フェアレディ2000」(SR311)。再びフロントグリルのデザインが変わった。この前期型は後期型に比べてウインドシールドが低いため“ローウィンドウ”と俗称される。拡大
旧車イベントで捉えた前期型SR311のインパネ。後期型SP310/SP311と基本的に同じデザインだが、防げん対策として黒塗装となり、燃料計と水温計、油圧計と電流計がまとめられたため、小径メーターが2個減った。
旧車イベントで捉えた前期型SR311のインパネ。後期型SP310/SP311と基本的に同じデザインだが、防げん対策として黒塗装となり、燃料計と水温計、油圧計と電流計がまとめられたため、小径メーターが2個減った。拡大
発売から8カ月後にマイナーチェンジされた後期型SR311。北米の安全基準の変更に合わせて(横転時の安全性確保のため)ウインドシールドが高くなった。そのため俗称は“ハイウィンドウ”。これはオプションのハードトップ付きである。
発売から8カ月後にマイナーチェンジされた後期型SR311。北米の安全基準の変更に合わせて(横転時の安全性確保のため)ウインドシールドが高くなった。そのため俗称は“ハイウィンドウ”。これはオプションのハードトップ付きである。拡大
これも旧車イベントで見た後期型SR311のインテリア。デザインを一新し、クラッシュパッドが貼られたインパネ上のメーターは3個にまとめられ、近代的にはなったがスポーツカーらしさは薄れた。ステアリングホイールのセンターにも大きなクラッシュパッドが付く。縦配置のラジオは国産初だった。この個体では外されているが、シートにはヘッドレストが付けられた。
これも旧車イベントで見た後期型SR311のインテリア。デザインを一新し、クラッシュパッドが貼られたインパネ上のメーターは3個にまとめられ、近代的にはなったがスポーツカーらしさは薄れた。ステアリングホイールのセンターにも大きなクラッシュパッドが付く。縦配置のラジオは国産初だった。この個体では外されているが、シートにはヘッドレストが付けられた。拡大
1968年の第5回日本グランプリのGTカーレースのスターティンググリッド。GT-IIクラスの決勝に進出した22台はすべてSR311。ちなみにGT-Iクラスは14台の「ホンダS800」と1台の「フィアット・アバルト」だった。
1968年の第5回日本グランプリのGTカーレースのスターティンググリッド。GT-IIクラスの決勝に進出した22台はすべてSR311。ちなみにGT-Iクラスは14台の「ホンダS800」と1台の「フィアット・アバルト」だった。拡大
1968年のモンテカルロラリーで総合9位、クラス3位となったSRL311。ドライバーは1983年に「アウディ・クワトロ」でWRCドライバーズタイトルを獲得するハンヌ・ミッコラだった。
1968年のモンテカルロラリーで総合9位、クラス3位となったSRL311。ドライバーは1983年に「アウディ・クワトロ」でWRCドライバーズタイトルを獲得するハンヌ・ミッコラだった。拡大
沼田 亨

沼田 亨

1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。

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