第250回:現実と想像のボーダーラインを走るAMCペーサー
『彼女のいない部屋』
2022.08.26
読んでますカー、観てますカー
女は家出して海へと向かうのか
このごろ世間ではネタバレ警察が猛威をふるっているそうだ。映画のストーリーや結末に触れる紹介記事を取り締まり、つるし上げる人々のことである。予告編でほとんどすべてわかってしまうような映画も多いし、神経質になりすぎるのもどうかという気がする。でも、『彼女のいない部屋』は本当にネタバレ厳禁だ。資料に記されている説明は「家出した女の物語、のようである」という1行だけ。監督も「彼女に実際には何が起きたのか、この映画を見る前の方々には明らかにはなさらないでください」と語っている。
確かに、冒頭では家出らしきシーンが描かれる。夫が起きないように気遣いながら寝室を抜け出し、ベッドで眠る小さな息子に毛布をかけ直す。小さなバッグを持って家を抜け出し、クルマで出かけるようだ。庭先には「シトロエンC5」が停めてあるが、彼女はガレージに入ってカバーのかけてあった「AMCペーサー」に乗り込んだ。開店前のガソリンスタンドで女友達の店員に頼んでクルマの調子をみてもらう。晴れ晴れとした表情で海へと向かった。
奇妙なのは、その間に家で父と娘、息子が朝の支度をしている場面が挟み込まれることだ。3人は金曜日にママが買い物に行く理由について話している。息子は「コーヒー2杯、ココア2杯」とつぶやく。娘はピアノを弾いている。いらだった父がやめさせてカバーを閉じるが、なぜか音楽が鳴りやまないまま場面が切り替わる。観客は、スクリーンに映っているものが事実だとは限らないということに気づく。心の中で展開するイメージなのかもしれない。
彼女はどこにいるのか。スペイン語が飛び交うバーでひとり酒をあおり、意味不明な言葉を吐いて泣き崩れる。クルマが雪に埋もれているのは別の場所だろう。雪山では、ヘリコプターが上空から捜索しているらしい。不穏な空気が漂っている。ホテルのレストランでは、4人分の食事が用意されているテーブルにひとりで座る。疑問が宙づりになったまま、美しい映像が紡がれていく。
監督はフランスの名優
リアリズムの映画に慣れきっている人にとっては、なかなかハードルの高い作品である。スクリーンに映っているものがすべて真実だと受け取るナイーブな感覚では、何が起きているのかわからないだろう。時と場所が目まぐるしく入れ替わり、視点は揺れ動く。物語に没入することを拒む構成になっていて、俯瞰(ふかん)的な感覚を持たなければならない。映画というジャンルが持っている可能性を存分に引き出し、豊かな表現を生み出している。
なぜ、娘が突然マルタ・アルゲリッチ化するのか。壁にはなぜロバート・ベクトルのポスターが貼られているのか。ある程度の文化的教養を持っていることが前提となっている。そこを乗り越えても、解釈の難しい場面がある。ヒロインの心情の変化が唐突で、奇矯な振る舞いにしか見えなかったりもする。
監督は、マチュー・アマルリック。『永遠の門 ゴッホの見た未来』『オフィサー・アンド・スパイ』などに出演する人気俳優で、『007 慰めの報酬』の悪役でも有名だ。ウェス・アンダーソン監督の新作『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』ではアンニュイ警察の署長をけだるげに演じていた。
1997年から監督としてのキャリアを開始している。2010年の『さすらいの女神たち』は、アメリカのバーレスク一座のベテラン踊り子たちがフランスでツアーを行うロードムービーだった。2014年の『青の寝室』は、不倫の末に起きる殺人事件を描いたサスペンス。2017年の『バルバラ セーヌの黒いバラ』は、伝説的なシャンソン歌手の映画を撮影する過程をメタ的な手法で見せた。いずれの作品でも彼自身が重要な役どころで出演していたが、今回は監督に専念している。
乗っていると歌いたくなるクルマ
“家出する女”クラリスを演じたのは、ヴィッキー・クリープス。本欄で紹介した『ファントム・スレッド』では、ダニエル・デイ=ルイスに毒キノコ入りのスープを食べさせていた。M・ナイト・シャマラン監督の『オールド』にも出演していて、ヨーロッパを代表する演技派女優として評価が高い。夫マルクにアリエ・ワルトアルテを起用したのも成功している。マチュー・アマルリックはダメ男演技を得意としていて、マッチョな狼男的役柄にはハマらなかっただろう。
俳優陣と並んでいい仕事をしたのがAMCペーサーである。なにしろ、ビジュアルインパクトが強い。アメリカでもマイナーなモデルであり、フランスの片田舎には似つかわしくないが、リアリティーは考慮しなかったのだろう。監督は「最近のクルマで撮りたくなるようなものを見つけるのは簡単ではないね」と話している。前回紹介した『プアン/友だちと呼ばせて』もそうだったが、ロードムービーではクルマが作品のニュアンスを決定づけるのだ。
ちょっと問題なのは、AMCペーサーにはあまりにも有名な先行作品があることだ。『ウェインズ・ワールド』である。マイク・マイヤーズとダナ・カーヴィがAMCペーサーの中で『ボヘミアン・ラプソディ』を大声で歌うシーンが目に焼き付いている。それを意識したのかはわからないが、この映画でも車内で歌っていた。J・J・ケイルの『チェリー』である。ドラマティックな『ボヘミアン・ラプソディ』とは対照的なレイドバックの名曲だ。まったりした感じが、開放的なキャビンによく似合う。
娘がピアノを習っているという設定なので、クラシック曲も多く流れる。音楽映画としても楽しめるだろう。俳優の精緻な演技をピアノ曲が彩り、繊細に仕立てられた脚本がミステリアスな世界へといざなう。マチュー・アマルリックが監督としてまた大きな飛躍を遂げたことは確かである。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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