第280回:無差別殺人者はBEVに乗って現れる
『我来たり、我見たり、我勝利せり』
2025.06.05
読んでますカー、観てますカー
完全無欠な人物の欠点とは?
起業家のアモン・マイナート(ローレンス・ルップ)はナイスガイである。気さくで人当たりがよく、裕福さをひけらかしたりはしない。家族との時間を大切にしていて子供たちと遊ぶのが大好きだ。アフリカ系とアジア系の養女を育てていることから、人種差別意識を持たないリベラルなキャラクターであることがわかる。地元にヨーロッパ最大のバッテリー工場を誘致しようとしているのは、環境意識の高さゆえなのだろう。もちろん愛車はガソリン車でもディーゼル車でもなくBEV。「ポルシェ・タイカン」だ。
理想的で完全無欠な人物のようだが、ひとつだけ欠点がある。カジュアルに人を殺すのだ。アモンは狩りが趣味で、困ったことにターゲットは森の動物たちではなく街の人々である。映画の冒頭でヒルクライムを楽しむサイクリストを狙撃する。公園でジョギング中だったり川で泳いでいたりしている人を、遠くから銃で狙う。無差別殺人である。警察でもアモンが犯人であることは気づいているようなのに、まともな捜査は行わない。政治家とも結びついている有力者であり、彼を中心とした強固なシステムが築かれている。運命共同体の要であり、逮捕することは街の利益にならない。
タイトルの『我来たり、我見たり、我勝利せり』は、ラテン語のVeni, vidi, vici(ウェーニー・ウィーディー・ウィーキー)である。「来た、見た、勝った」という訳のほうが一般的だ。カエサルが紀元前47年にゼラの戦いで勝利し、ローマのマティウスに送った手紙の言葉だ。短く簡潔に事実を伝える文章のお手本とされる。クルマ好きにとっては、1965年に行われた F1メキシコグランプリでホンダが初優勝した際、監督の中村良夫が本社に送った電報にこの言葉を記したエピソードが有名だ。
ガレージには9台のポルシェ・タイカン
映画は「Veni」「vidi」「vici」の 3章構成だ。つまり、「我勝利せり」でラストを迎えることになるだろう。映画のPRでは“上級国民”というワードが使われている。政治家や高級官僚、富裕層などの特権階級を意味するネットスラングだ。アモンはまさに一般国民とは別の次元で生活する利権集団のメンバーである。警察も司法も力を及ぼすことのできないアンタッチャブルな存在で、正義や倫理とは無縁だ。
リアルではなく、極端にカリカチュア化されている。いくらなんでも、ここまであからさまな癒着は無理だし、SNS時代にすべてを隠すことなど不可能だろう。寓話(ぐうわ)として受け止めるべきなのだろうが、よく考えれば映画で見せられていることは構造としてわれわれの社会そのものなのかもしれない。少なくとも、犯罪の証拠となる文書が平然と改ざんされたり廃棄されたりしている国の人間にとってはほぼ現実である。
アモンがタイカンに乗っているのがエコのためとは思えない。ガレージには白いボディーカラーのタイカンが9台並べてあり、あまりにも過剰だ。“狩り”を終えると老執事が「メルセデス・ベンツVクラス」で迎えにくる。BEVではない。彼はタイカンのナンバープレートを取り換え、犯罪の証拠を消去する役割を粛々とこなす。
アメリカの有名なBEVではなくタイカンを選んだことには理由があるのだと思う。モデルが明確に特定されるのを避けたのではないか。冒頭でエピグラフとしてアイン・ランドの言葉が引用されていて、リバタリアニズムへのまなざしが見え隠れしている。現代におけるテクノリバタリアンの代表と目されているのが、あの自動車メーカーのCEOだ。監督のダニエル・ヘースルとユリア・ニーマンは、コメントのなかで彼に言及している。
グロテスク、だが美しい
不愉快な現実をグロテスクに描きながら、映像は美しくスタイリッシュである。オーストリアの平原や水辺はすがすがしい光景で、町並みは洗練されている。マイナート家には現代的なアートが飾られ、上流階級の人々を招いてパーティーが開かれる。光があふれ、色彩は鮮やかだ。似たような印象の映画を観たことを思い出した。昨年公開されたジェシカ・ハウスナー監督の『クラブゼロ』だ。
名門高校を舞台にした環境カルト教師の洗脳教育を描いた作品で、構築的な映像美に圧倒された。音楽の使い方でも2つの映画は類似がある。不協和音や唐突なサウンドエフェクトで不安感を増幅させる手法だ。『我来たり、我見たり、我勝利せり』ではヨハン・シュトラウス2世の『美しく青きドナウ』をバックに幸福な家族の生活を描くのだが、耳障りな音を加えることで心をかき乱す。ハウスナー監督はミヒャエル・ハネケの弟子筋だし、この映画にはウルリヒ・ザイドルがプロデューサーとして参加している。いずれも人の感情を逆なですることに定評があり、作風は受け継がれているのだ。
「我勝利せり」の結末は、ヘドが出るほど胸くそ悪い。単純な勧善懲悪にはならないのがヨーロッパ映画である。やりきれない気持ちをなんとかしたいなら、映画界で女性が置かれている不都合な真実を告発した『サブスタンス』のコラリー・ファルジャ監督の過去作『REVENGE リベンジ』で解毒するのをオススメしたい。マッチョなホモソ野郎どもをきっちり成敗してくれるので、気分が晴れるはずだ。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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