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第89回:フィアット、クライスラー提携交渉で思う「マカロニ・ウエスタンな車たち」

2009.05.02 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ
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第89回:フィアット、クライスラー提携交渉で思う「マカロニ・ウエスタンな車たち」

だいじょうぶかなぁ

本稿を書いている2009年4月30日、クライスラーとフィアットの提携交渉は、最終段階に入ってきたようだ。
イタリアの多くのメディアは「ビッグ3の一角を救う」ということで報道している。ある財界人は、フィアットが他社を助けるまでに再生したことを「まさにシンデレラだ」とまで表現した。
さらに今回の発表前だが、一部の報道では、まず「フィアット500」を低燃費車として投入し、「アルファ・ロメオ」ブランドも悲願の北米復帰を果たすと予想している。

しかしハードウエア的に見てみると、AT車中心の北米に、デュアロジックやセレスピードといった、欧州では限りなくオプションに近いシーケンシャルシフトしか持たぬフィアットが、どうやって切り込んで行くのか? といった単純な疑問も残る。
志村けん風にいえば「だいじょうぶかぁ」である。

デ・トマソ・パンテーラのラインオフ(De Tomaso photo)
デ・トマソ・パンテーラのラインオフ(De Tomaso photo) 拡大

小さなイタリア企業と米国ビッグ3

ところで、1960−70年代にかけてイタリアで製作された西部劇は「マカロニ・ウエスタン」と呼ばれ、ブームを巻き起こした。
思い起こせば、イタリアの小さなメーカーと米国ビッグ3との歴史のなかには、「自動車版マカロニ・ウエスタン」と呼ぶべき興味深い経緯がある。

まずはカロッツェリア・ギアだ。ギアは遠く1916年に設立されたトリノのカロッツェリアである。1955年にはフォルクスワーゲンの「カルマンギア」を送り出し一躍脚光を浴びたほか、デザイナーとしてミケロッティやジウジアーロを輩出したことでも有名になった。そのギアは1960年代後半、波乱の時代に突入する。

1967年、あのデ・トマソの創始者でアルゼンチン人のアレハンドロ・デ・トマソに買収されてしまったのだ。
ちなみに当時チーフデザイナーだったジウジアーロは、アレハンドロの経営に嫌気がさしてギアを去り、独立の道を歩む。

アレハンドロは、別の会社と組んでギアを支配するが、1970年代に入ると今度は自身の株の大半を、フォードに売却する。その傍らでフォードとの関係をより強化し、「デ・トマソ・パンテーラ」などにフォード製V8エンジンを供給してもらった。

フォード傘下になったギアは、完全に同社の欧州デザイン拠点となった。同時に多くの人が知るとおり、“Ghia”はフォードブランドの最高級モデルの名称として使われるようになった。
なお、デザイン拠点としてのギアは、フォードの体制見直しにより2003年に完全に閉鎖。そしてコレクションとして保管していたドリームカーは競売にかけられ消えていった。

ギアによる幻の2代目「パンテーラ」。オイルショックで企画はお蔵入りになった。
ギアによる幻の2代目「パンテーラ」。オイルショックで企画はお蔵入りになった。 拡大

大西洋間プロジェクト

イタリアとアメリカのコラボレーションといえば、ピニンファリーナが手がけた1986年の「キャデラック・アランテ」も思い出す。歴史を紐解けば、ピニンファリーナは戦前から顧客の求めに応じて、キャデラックなどに特注ボディを載せていた。しかし、このアランテはもっと派手なパフォーマンスをみせるプロジェクトだった。

まず、ピニンファリーナがトリノ県のサンジョルジョ・カナヴェーゼ工場でボディを造る。完成したボディはトリノ・カゼッレ空港から「アランテ・エクスプレス」という名のアリタリア航空のエアカーゴに載せられ、デトロイトに運ばれる。「船便だと海風でボディが傷む」というのが当時の説明であったことを覚えている。
そしてGM工場でパワートレインを組み付けて完成、というプロセスだ。この派手な「アランテ劇場」ともいうべきパフォーマンスは、コスト的に長続きせず、のちに船舶輸送に切り替えられた。それでも1993年までに2万2000台が製造された。

そのアランテに隠れてしまいがちな、もう1台の大西洋間プロジェクトがほぼ同時期に存在した。
1989年「クライスラーTC バイ マセラーティ」である。そのかげには、リー・アイアコッカという人物がいた。彼は、貧しいイタリア系移民の息子からフォードの社長に昇り詰めるも、社主ヘンリー・フォード2世によって突然解任される。だが今度は倒産直前のクライスラーに移り経営を立て直したという、米国自動車産業史上のヒーローだ。
アイアコッカは、フォード時代に知り合ったアレハンドロ・デ・トマソと手を組み、米伊共同のラクシャリーカー計画を立ち上げる。

当時のデ・トマソはすでにマセラーティを傘下に収めていた。そこで、1987年に投入した3代目「クライスラー・ルバロン クーペ/コンバーチブル」の姉妹車として、マセラーティの名を冠した豪華版を計画したのである。
エンジンは、そのモデルサイクルの中でクライスラー製、三菱製、マセラーティが製造に関与したユニット、と数種が用意された。
いっぽうで、最終組み立てはミラノ・ランブラーテ地域(ランブレッタ・スクーター発祥の地)にある、これもデ・トマソ傘下にあったイノチェンティ工場で行なわれた。
ただし価格の高さとブランド設定の不明確さがネックとなったようで、1991年までに7300台が製造されるにとどまった。

「キャデラック・アランテ」(Pininfarina photo)
「キャデラック・アランテ」(Pininfarina photo) 拡大
ピニンファリーナ・カンビアーノ研究センターに展示されている「アランテ」。後方に見えるのは筆者。
ピニンファリーナ・カンビアーノ研究センターに展示されている「アランテ」。後方に見えるのは筆者。 拡大
「クライスラーTC バイ マセラーティ」の姉妹車「クライスラー・ルバロン」。
「クライスラーTC バイ マセラーティ」の姉妹車「クライスラー・ルバロン」。
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公私ともに……

クルマの側面ばかりから書いてきたが、実はすでに登場したアメリカの自動車マンたちは、個人的にもイタリアと関係がある。
カロッツェリア・ギアを取得したヘンリー・フォード2世は、イタリア製アンティーク家具の収集家で、購入品を会社のジェット機を使ってデトロイトまで運ばせていたという。それどころか彼は2度めの夫人としてイタリア人を選んでいる。

また、アランテ計画をアメリカ側で主導したGMのデザインディレクター、チャック・ジョーダンがフェラーリの熱烈なファンであったことは有名だ。

そして、一時「アメリカ大統領選に出馬か?」とまで騒がれながら最近は消息を聞かなくなったアイアコッカ氏はというと、現在慈善団体を運営する傍らで、イタリアに牧場を所有している。場所は、なんと筆者の家から40kmほどのところにある、トスカーナ南部の山中だ。地元の人によれば、本人も時折アメリカから訪れるらしく、近所にはアイアコッカお気に入りのリストランテもある。

伝説のアメリカ自動車ビジネスマンたちは、実は公私ともにイタリアに深い愛着を持っていたのである。

(文=大矢アキオ、Akio Lorenzo OYA/写真=De Tomaso、Pininfarina、大矢アキオ)

「クライスラーTC バイ マセラーティ」
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大矢 アキオ

大矢 アキオ

Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。

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