クルマ好きなら毎日みてる webCG 新車情報・新型情報・カーグラフィック

50年前にはどんなことが起きていた? 1975年の自動車世界地図

2025.02.12 デイリーコラム 沼田 亨
【webCG】クルマを高く手軽に売りたいですか? 車一括査定サービスのおすすめランキングを紹介!

暗黒時代を迎えていた国産車

いつごろからだろうか、メーカーのみならずオーナーやファンの間でも、特定のモデルの「誕生○○年」のようなアニバーサリーが祝われるようになった。以前からそういう慣習はあったのだろうが、近年はその機会が大幅に増えたというべきか。2025年もさまざまなモデルのアニバーサリーイベントがあるだろうが、どんなモデルが切りのいいところで誕生50周年を迎えるかを調べてみた。

さかのぼること半世紀の1975年は、日本車にとっては暗黒時代に突入したと言っても過言ではない年だった。1973年に発生した第1次石油危機の影響から高性能車への風当たりが強くなったことに加え、この年から本格的な排出ガス規制が施行されたからである。国産メーカー各社は当面の課題である排ガス対策に忙殺され、新車開発は先送りされた。おかげでこの年と前年の1974年の2年は、新たにデビューした車種やフルモデルチェンジしたモデルが非常に少ないのだ。

実際にどんなモデルが1975年にデビューしたかといえば、「日産セドリック/グロリア」「日産シルビア」「マツダ・コスモAP」「マツダ・ロードペーサーAP」「三菱ランサー セレステ」の5車種である。

セドリックとしては4代目、もともとはプリンスで生まれたグロリアとしては5代目、販売チャンネル違いの双子車となってから2代目となるのが、型式名330と呼ばれる日産セドリック/グロリア。アメリカンなスタイリングをまとった基本5ナンバーフルサイズの4ドアセダン、2/4ドアハードトップ、5ドアバンだが、メインとなる2リッターおよび2.8リッター直6エンジン搭載の乗用車がすべて昭和50年排出ガス規制適合車となったことで話題を呼んだ。

「NAPS(ナップス、Nissan Anti Pollution System=日産公害防止機構の略)」と呼ばれる排ガス対策仕様のエンジンは、パワー、トルクともに額面上では未対策車とほぼ変わらないスペックを持っていた。だが実際に走らせると、遅い、ドライバビリティーが悪い、燃費が悪いの三重苦が露呈。当初は2リッター、2.8リッターともにシングルキャブ仕様のみだったのだが、あまりに非力と評された2リッターには追ってEGI(インジェクション)仕様が加えられたのだった。

「日産セドリック」(330)の基本モデルだった4ドアセダン。成功した先代(230)のキープコンセプトながら、コークボトルラインをより強調したスタイリングを持つ。
「日産セドリック」(330)の基本モデルだった4ドアセダン。成功した先代(230)のキープコンセプトながら、コークボトルラインをより強調したスタイリングを持つ。拡大
330型「セドリック」のなかで、オーナー向けでは一番人気だったBピラーレスの4ドアハードトップ。
330型「セドリック」のなかで、オーナー向けでは一番人気だったBピラーレスの4ドアハードトップ。拡大
先代(230)から「セドリック/グロリア」に加わった2ドアハードトップは、この330型が最後となった。
先代(230)から「セドリック/グロリア」に加わった2ドアハードトップは、この330型が最後となった。拡大
「セドリック バン」。セドリックには初代から4ナンバーの商用バンとボディーを共用する5ナンバーの乗用ワゴンが存在したが、この330型は商用バンのみとなった。なお、次世代の430型では乗用ワゴンが復活する。
「セドリック バン」。セドリックには初代から4ナンバーの商用バンとボディーを共用する5ナンバーの乗用ワゴンが存在したが、この330型は商用バンのみとなった。なお、次世代の430型では乗用ワゴンが復活する。拡大

影を落とす排ガス規制と石油危機

ハンドメイドの高級パーソナルカーだった初代の誕生から10年のインターバルを経て、スペシャルティーカーとして登場したのが2代目日産シルビア(S10)。もともとは日産が開発していたロータリーエンジン搭載車としてデビューする予定だったが、石油危機の影響により燃費が悪いロータリーは計画そのものが中止。通常のレシプロエンジンに仕様変更して登場したのである。

マツダ・コスモAPも、1967年に世界初の2ローター・ロータリーエンジン車として発売された「コスモスポーツ」の名を受け継いだモデル。先代同様、マツダ、そしてロータリーエンジン搭載車のイメージリーダーの役割を担っていたが、2座スポーツカーだったコスモスポーツに対して5座のスペシャルティークーペとなる。またコスモスポーツはロータリーエンジン専用車だったが、こちらにはレシプロエンジン搭載車も用意。なお、「AP」とはAnti Pollution (反公害)の略で、ロータリー、レシプロともに昭和51年排出ガス規制をクリアしていた。

同じくマツダのロードペーサーAPは、「トヨタ・センチュリー」や「日産プレジデント」といったショーファードリブン用の3ナンバーセダンに対抗すべく、オーストラリアのゼネラルモーターズ(GM)子会社だったホールデンから輸入した「HJプレミア」の車体に13B型ロータリーエンジンを搭載したモデル。つまり純マツダ車ではなかった。

三菱ランサー セレステは大衆車である初代「ランサー」をベースに生まれたテールゲートを備えたスペシャルティークーペ。ホイールベースはランサーと同一でメカニカルコンポーネンツも流用しているが、ボディーはひと回り大きい。ラインナップ上は「ギャランクーペFTO」の後継モデルという位置づけだった。

「日産シルビア」(S10)。シャシーは3代目「サニー」(B210)がベースで、当初のエンジンは50年規制に適合したシングルキャブ仕様の1.8リッター直4 SOHCのみだった。
「日産シルビア」(S10)。シャシーは3代目「サニー」(B210)がベースで、当初のエンジンは50年規制に適合したシングルキャブ仕様の1.8リッター直4 SOHCのみだった。拡大
「マツダ・コスモAP」。変わったウィンドウグラフィックを持つボディーに、13B(654cc×2)あるいは12A(573cc×2)のロータリーエンジン、または1.8リッター直4 SOHCのレシプロエンジンを積む。
「マツダ・コスモAP」。変わったウィンドウグラフィックを持つボディーに、13B(654cc×2)あるいは12A(573cc×2)のロータリーエンジン、または1.8リッター直4 SOHCのレシプロエンジンを積む。拡大
「マツダ・ロードペーサーAP」。当時のマツダの乗用車用エンジンで最強の13Bロータリーといえども、全長4855mm、全幅1885mmで車重1.6t弱のボディーは文字どおり荷が重かった。
「マツダ・ロードペーサーAP」。当時のマツダの乗用車用エンジンで最強の13Bロータリーといえども、全長4855mm、全幅1885mmで車重1.6t弱のボディーは文字どおり荷が重かった。拡大
「三菱ランサー セレステ」。エンジンは1.4/1.6リッターの直4 SOHCで、1.6リッターにはツインキャブ仕様も用意。デビューの約8カ月後に51年排出ガス規制適合となるが、ツインキャブ仕様も生き残った。
「三菱ランサー セレステ」。エンジンは1.4/1.6リッターの直4 SOHCで、1.6リッターにはツインキャブ仕様も用意。デビューの約8カ月後に51年排出ガス規制適合となるが、ツインキャブ仕様も生き残った。拡大

ドイツでは「ポロ」と「3シリーズ」がデビュー

海外ではどんなモデルがデビューしたのか? 日本やアメリカとは異なり、まだ具体的な排ガス規制がなかったヨーロッパから国別に見ていくとして、まずはドイツから。

前年に「ゴルフ」をリリースしたフォルクスワーゲンからは弟分の「ポロ」が誕生。やはり前年にデビューした「アウディ50」の、エンブレムなど細部を変えただけの3ドアハッチバックボディーに、アウディ50の1.1リッターより小さい0.9リッター直4エンジンを搭載。先行したアウディ50が1代限りで消滅したのに対し、ポロは定番車種として今日まで存続しているのはご存じのとおりである。

当時はフォルクスワーゲンに続くドイツ第2位のシェアを誇っていたオペルからは、ミドルクラスの2/4ドアセダンである「アスコナ」がフルモデルチェンジ。GM傘下だったオペルらしいオーソドックスなFRセダンで、同時にそのアスコナをベースとするスペシャルティークーペの「マンタ」も世代交代した。

BMWからは「02シリーズ」の後継となる初代「3シリーズ」(E21)がデビュー。当初のボディーは2ドアセダンのみで、パワーユニットも1.6/1.8/2リッターの直4 SOHCだけだった。なお欧州車にはよくあることだが、02シリーズも廉価グレードに絞ってしばらく併売された。

ドイツとイギリスにまたがるヨーロッパ・フォードでは、末弟の「エスコート」がフルモデルチェンジ。フォルクスワーゲン・ゴルフをはじめ同級のライバルがFFを採用していくなかで、初代と同様にオーソドックスなFRの、ノッチバックの2/4ドアセダンと3ドアワゴンというラインナップだった。

ちなみにドイツ・フォードでは、そもそもは米本国で世界戦略車として開発されたV4エンジン搭載のFFコンパクトセダン「タウヌス12M」を1962年にリリースしていた。だが英独を統合した欧州フォードとなってからはFF車がいったん消滅。新たな世界戦略車としてエンジン横置きFFを採用した初代「フィエスタ」が登場するのは翌1976年のことだった。

「フォルクスワーゲン・ポロ」。ボディーは全長3.5m少々の3ドアハッチバックのみ。2年後にトランクが独立したノッチバックの2ドアセダンである「ダービィ」が追加された。
「フォルクスワーゲン・ポロ」。ボディーは全長3.5m少々の3ドアハッチバックのみ。2年後にトランクが独立したノッチバックの2ドアセダンである「ダービィ」が追加された。拡大
「オペル・アスコナ」の2ドアセダン。当時の日本車でいえば「コロナ」や「ブルーバード」級のボディーに1.2リッターOHVまたは1.6/1.9リッターSOHCの直4エンジンを積む。
「オペル・アスコナ」の2ドアセダン。当時の日本車でいえば「コロナ」や「ブルーバード」級のボディーに1.2リッターOHVまたは1.6/1.9リッターSOHCの直4エンジンを積む。拡大
「BMW 318」。2リッター直4 SOHCエンジンを積む「320」はデュアルヘッドライトだが、1.6/1.8リッターの「316/318」は「02シリーズ」同様のシングルヘッドライトだった。
「BMW 318」。2リッター直4 SOHCエンジンを積む「320」はデュアルヘッドライトだが、1.6/1.8リッターの「316/318」は「02シリーズ」同様のシングルヘッドライトだった。拡大
「フォード・エスコート」。当時の日本車でいえば「カローラ」や「サニー」のようなオーソドックスなFRセダンで、エンジンは1.1/1.3/1.6リッター直4 OHV。角型ヘッドライトは上級グレードの「GL」と「ギア」のみで、ほかは丸型2灯だった。
「フォード・エスコート」。当時の日本車でいえば「カローラ」や「サニー」のようなオーソドックスなFRセダンで、エンジンは1.1/1.3/1.6リッター直4 OHV。角型ヘッドライトは上級グレードの「GL」と「ギア」のみで、ほかは丸型2灯だった。拡大

ルノーとプジョーの新たな旗艦

フランスでは、ルノーから新たなフラッグシップとなる「30」がデビューした。戦後ルノー車としては初のアッパーミドル級だが、ルノーらしく2.7リッターV6エンジンで前輪を駆動する5ドアハッチバックサルーンだった。追ってその内外装を簡素化して1.6リッター直4エンジンを積んだ廉価版の「20」が加えられた。

プジョーも新たなフラッグシップ「604」をリリースした。エンジンはルノー30と同じ「PRV」ことプジョー、ルノー、ボルボの3社で共同開発した2.7リッターV6だが、こちらはオーソドックスな3ボックスボディーのFRサルーンとなる。1960年代初頭以降、フランスではシトロエンが独占していたアッパーミドル級市場に、同時期にルノーとプジョーが参入したわけである。

クライスラー・フランス(旧シムカ)からは「シムカ1307/1308」がデビュー。くしくも前述したルノー30によく似たスタイリングの、ただしひと回り小さな5ドアハッチバックボディーに1.3/1.4リッター直4エンジンを横置きして前輪を駆動するモデル。クライスラーの英仏一元化政策の下、イギリスではクライスラーUK(旧ルーツ・グループ)から「アルパイン」の名で販売されたこのFFサルーンは、1976年の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを獲得している。

たまたまそういう巡り合わせだったのだと思うが、この年、イタリアでは量産車のニューモデルは皆無だった。ただ1台のブランニューは「フェラーリ308GTB」。フェラーリ初のV8エンジン搭載車として2年前にデビューしていた2+2クーペの「ディーノ308GT4」をベースとした2シーターベルリネッタで、ラインナップ上は「ディーノ246GTB」の後継となる。

「ルノー20」。「30」からサイドモールを省き、ヘッドライトを丸型4灯から角型2灯にするなどして簡素化した全長4.5mちょっとのボディーに、下位の「16」用の1.6リッター直4 OHVエンジンを搭載。
「ルノー20」。「30」からサイドモールを省き、ヘッドライトを丸型4灯から角型2灯にするなどして簡素化した全長4.5mちょっとのボディーに、下位の「16」用の1.6リッター直4 OHVエンジンを搭載。拡大
「プジョー604」。1955年デビューの「403」以降の通例にしたがって、ピニンファリーナが手がけた全長4.7m超の上品でおとなしいデザインのボディーに2.7リッターV6 OHVエンジンを搭載。
「プジョー604」。1955年デビューの「403」以降の通例にしたがって、ピニンファリーナが手がけた全長4.7m超の上品でおとなしいデザインのボディーに2.7リッターV6 OHVエンジンを搭載。拡大
「クライスラー・シムカ1307/1308/1309」。全長4.3m弱の5ドアハッチバックボディーに、シムカがフィアット傘下だった時代にダンテ・ジアコーザが設計した「シムカ1100」から受け継いだメカニズムを持つ。
「クライスラー・シムカ1307/1308/1309」。全長4.3m弱の5ドアハッチバックボディーに、シムカがフィアット傘下だった時代にダンテ・ジアコーザが設計した「シムカ1100」から受け継いだメカニズムを持つ。拡大
「フェラーリ308GTB」。ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティが手がけたボディーに3リッターV8 DOHCユニットをミドシップする。初期モデルは予定していたスチール製ボディーの製造が間に合わなかったためFRP製ボディーを持つ。
「フェラーリ308GTB」。ピニンファリーナのレオナルド・フィオラヴァンティが手がけたボディーに3リッターV8 DOHCユニットをミドシップする。初期モデルは予定していたスチール製ボディーの製造が間に合わなかったためFRP製ボディーを持つ。拡大

国有化されたBLからもニューモデルが登場

社会全体が沈滞する英国病の進行によって、かつての栄光はどこへやら、といった状態だったイギリスの自動車産業。イギリス資本のメーカーが大同団結したBLMCはこの年に国有化されBL(ブリティッシュ・レイランド)となる。そのBLからは「プリンセス1800/2200」(コードネームADO71)が登場。「オースチン1800」(ADO17)などの後継モデルで、初代「Mini」(ADO15)に始まる、いわゆるイシゴニス式のエンジン横置きFFを採用したアッパーミドル級サルーンである。

同じくBLからは「トライアンフTR7」もデビュー。伝統の2座スポーツカーで、そもそもTRとは「トライアンフ・ロードスター」の略だったが、新世代モデルはリトラクタブルヘッドライトを備えたウエッジシェイプのクローズドクーペとなった。主要な輸出先だった北米で、安全性の観点からオープンカーが規制されるという予測の下に開発が進められたからである。

やはりBL傘下だったジャガーからは「XJ-S」が登場。生産終了した「Eタイプ」の後継となるが、スポーツカーから「メルセデス・ベンツSL」などと市場を争う高級グランツーリスモに路線変更した。

独立を保っていたロールス・ロイスは、ピニンファリーナデザインのボディーを持つ最高級パーソナルクーペ「カマルグ」をリリース。ロータスは「エクラ」をラインナップに加えた。前年に登場した2代目「エリート」の、スポーツワゴン的だったボディーの後半をファストバッククーペに改めたモデルだった。

GM傘下のボクスホールからは「シェヴェット」と「キャヴァリア」がデビュー。前者は1973年にフルモデルチェンジした「カデット」の、後者は先に紹介した2代目アスコナの、という同じGMグループのオペル各車の実質的な兄弟車だった。

「プリンセス1800/2200」。全長4.5m弱のボディーは2ボックス風だが独立したトランクを持つ。2200は横置きした2.2リッター直6 SOHCエンジンで前輪を駆動するが、横置き直6のFF車はこれと後年の「ボルボS60/V60」の「T6」のみである。
「プリンセス1800/2200」。全長4.5m弱のボディーは2ボックス風だが独立したトランクを持つ。2200は横置きした2.2リッター直6 SOHCエンジンで前輪を駆動するが、横置き直6のFF車はこれと後年の「ボルボS60/V60」の「T6」のみである。拡大
「トライアンフTR7」。パワーユニットは2リッター直4 SOHCで、当初は北米輸出専用車だった。追って3.5リッターV8搭載の「TR8」やコンバーチブルなども加えられた。
「トライアンフTR7」。パワーユニットは2リッター直4 SOHCで、当初は北米輸出専用車だった。追って3.5リッターV8搭載の「TR8」やコンバーチブルなども加えられた。拡大
「ジャガーXJ-S」。車名のとおり初代「XJサルーン」がベースで、「XJ12」と共通の5.3リッターV12 SOHCエンジンを搭載。改良や車種追加を経て最終的に1996年までつくられた長寿モデルとなった。
「ジャガーXJ-S」。車名のとおり初代「XJサルーン」がベースで、「XJ12」と共通の5.3リッターV12 SOHCエンジンを搭載。改良や車種追加を経て最終的に1996年までつくられた長寿モデルとなった。拡大
「ロールス・ロイス・カマルグ」。6.75リッターV8 OHVエンジンを積んだ「シルバーシャドウ」がベースで、注文生産のリムジンである同門の「ファントムIV」を除けば、当時世界で最も高価な市販乗用車だった。
「ロールス・ロイス・カマルグ」。6.75リッターV8 OHVエンジンを積んだ「シルバーシャドウ」がベースで、注文生産のリムジンである同門の「ファントムIV」を除けば、当時世界で最も高価な市販乗用車だった。拡大

排ガス規制に苦しむアメリカ車

最後はアメリカ。世界に先んじて排ガス規制を実施したことで、1970年代に入ったころからアメリカ車は年々パワーダウン。例えば唯一の本格的なスポーツカーだった「シボレー・コルベット」(C3)でさえ、1975年型では標準の5.7リッターV8ユニットはたった165HP(SAEネット)しかなく、オプションの7.5リッターでも205HPとコルベット史上最低レベルのチューンだった。性能面ではまさに暗黒時代だったわけだが、そうした状況でもさまざまなニューモデルがリリースされた。それらのなかから主だったモデルを紹介していこう。

まずは「シボレー・モンザ」「ポンティアック・スターファイア」「ビュイック・スカイホーク」というスペシャルティークーペ三兄弟。サブコンパクトの「ベガ」をベースに、当初はGMが開発していたロータリーエンジン搭載を想定して企画された。だが石油危機によりロータリー計画が中止されたため、標準では2.3リッター直4、オプションで4.3リッターV8エンジンを積んで発売された。

石油危機後のダウンサイズの風潮にいち早く対応した「小さな高級車」が「キャデラック・セビル」。全長5180mm、全幅1820mmという、フルサイズのキャデラックより500mm以上短く200mm以上狭いボディーに、フルサイズより2.5リッターも小さい5.7リッターV8エンジンを搭載。大幅なダウンサイズにもかかわらず、乗り心地や静粛性はアメリカ人が求める高級車のレベルにあり、フルサイズを上回る高価格ながらセールスは好調だった。

いまはなきアメリカ第4のメーカーだったAMC(アメリカン・モーターズ・コーポレーション)からデビューしたのが「ペーサー」。これもGMで開発していたロータリーエンジンを搭載するFF車として企画されたため、中身に見合うべくユニークなボディーを持っていた。だが実際には平凡な3.8リッター直6エンジン搭載のFR車として世に出たのだった。

以上、駆け足だが1975年に登場した世界のニューモデルはこんな感じだった。日産とGMのロータリーエンジン開発計画が中止されたことを筆頭に、とりわけ日本とアメリカでは省資源と安全対策が厳しさを増していくなかで、メーカー各社は必死にもがいていたような印象を受ける。やがてはそうした逆境を打破していったわけだが……。

(文=沼田 亨/写真=日産自動車、マツダ、三菱自動車、フォルクスワーゲン、ステランティス、BMW、フォード、ルノー、フェラーリ、JLR、ゼネラルモーターズ、TNライブラリー/編集=藤沢 勝)

「シボレー・モンザ」。サイドビューが「フェラーリ365GTC/4」を思わせるテールゲート付きのボディーは、日本の5ナンバー規格に収まるサイズ。GMのロータリー計画が実現していたら、同様の経緯でロータリー搭載を断念した「日産シルビア」と市場を争っていたことだろう。
「シボレー・モンザ」。サイドビューが「フェラーリ365GTC/4」を思わせるテールゲート付きのボディーは、日本の5ナンバー規格に収まるサイズ。GMのロータリー計画が実現していたら、同様の経緯でロータリー搭載を断念した「日産シルビア」と市場を争っていたことだろう。拡大
「キャデラック・セビル」。ダウンサイズは市場を侵食しつつあった欧州製高級車への対抗策でもあり、ボディーサイズは当時の「メルセデス・ベンツSクラス」(W116)のLWB仕様に近かった。5.7リッターV8エンジンは、米車としては初めて電子制御インジェクションを備えていた。
「キャデラック・セビル」。ダウンサイズは市場を侵食しつつあった欧州製高級車への対抗策でもあり、ボディーサイズは当時の「メルセデス・ベンツSクラス」(W116)のLWB仕様に近かった。5.7リッターV8エンジンは、米車としては初めて電子制御インジェクションを備えていた。拡大
「フォード・グラナダ」。本文では触れなかったが、これも石油危機後のダウンサイズの要望に応えた2/4ドアセダン。ホイールベース2790mmという従来のコンパクトとインターミディエートの中間サイズながら、上級クラスの質感を備えていた。
「フォード・グラナダ」。本文では触れなかったが、これも石油危機後のダウンサイズの要望に応えた2/4ドアセダン。ホイールベース2790mmという従来のコンパクトとインターミディエートの中間サイズながら、上級クラスの質感を備えていた。拡大
「AMCペーサー」。全長は日本車と変わらないサブコンパクト級の4360mmながら、全幅はフルサイズ並みの1955mmという極端に幅広いプロポーションと大きなグラスエリアから、日本でつけられたあだ名は「金魚鉢」だった。
「AMCペーサー」。全長は日本車と変わらないサブコンパクト級の4360mmながら、全幅はフルサイズ並みの1955mmという極端に幅広いプロポーションと大きなグラスエリアから、日本でつけられたあだ名は「金魚鉢」だった。拡大
沼田 亨

沼田 亨

1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。

デイリーコラムの新着記事
デイリーコラムの記事をもっとみる
新着記事
新着記事をもっとみる
車買取・中古車査定 - 価格.com

メルマガでしか読めないコラムや更新情報、次週の予告などを受け取る。

ご登録いただいた情報は、メールマガジン配信のほか、『webCG』のサービス向上やプロモーション活動などに使い、その他の利用は行いません。

ご登録ありがとうございました。

webCGの最新記事の通知を受け取りませんか?

詳しくはこちら

表示されたお知らせの「許可」または「はい」ボタンを押してください。